7月10日 近到の東亞貿易新聞左の數項を載す
東學黨は和洋斥逐の主義を取るものにあらず只 東學黨軍は世人の傳ふ如く多數のものにあらず 數日來袁世凱氏の踪跡知れず
淸兵二萬義州に入れり或は五千牙山に着せんと 淸兵の增加信ずるに足らざれども其後牙山に二
●釜山近信 (
其國內暴戾の官吏を逐ひ內地の革新を目的とす
るものゝ如し
少數の徒が世人をして多數なる如く思はしむる
なり人皆其智略を賞讚す
す或は八千五百本國を出發せり或は六千來るな
らんと蜚語紛紛底止する所なし左れども是れ多
くは李中堂、袁欽差の恐喝手段に過ぎず天津來
電に據るも淸兵增派の模樣なし且淸國皇太后宮
は本年六旬の壽賀を行ふ筈えゑ干戈を動かすを
忌む事情ありといふ倂し今後如何爲るべきか豫
期し難し
千の兵を增したれば都合三千五百となれり