10月17日
東學黨 慶尙道監司の電報に據れば東徒數百名
星州に入らんとしけるを以て吏民力を合せて之を
防ぐ折柄番兵夜に乘じて竊に難を避けしを以て竟
に守を失ひしと云ふ難に臨んで避けたるの罪假す
可らず其牧使吳の官職を罷めて糺問し趙翼顯な
るものを後任として日を期し兵を調へて其巨魁を
斫り然る後其形勢を上申せんことを急報せしむる
如何との旨を議政府より上奏せしに乃ち裁可せら
れたり官報に記す所は左の如し
議政府草記、卽見慶尙監司趙秉鎬電報、則匪徒幾
百名、將入星州、吏民合力防守之際、該倅乘夜潛
避、竟至失守云矣、近日土匪劫掠、在在爲患、而豈
料肆然犯邑、有此無前之變乎、萬萬驚駭、寧欲無
言職在守土、固宜以身先之、乃反臨難苟避、以致
衆心渙散、而不能守、罪不容貸、星州牧使吳錫泳
爲先罷黜丞令、王府拿問嚴勘、其代以僉知中樞
院事趙翼顯差下、當日給馬下送、仍令該道臣、另
飭梱鎭、剋日調兵、勦捕先斬其渠魁、形止登聞事、
三懸鈴知委何如、 傳曰、允、
●暴民( 今日午後四時三浪津兵站令司官片岡少佐より左の
着) 十五日午後六時仁川發十六日午前六時三十
分着にて大本營へ左の電報達したり
電報あり、去十二日密陽附近に暴民千五六百集ま
り府使及び轉運使に訴ふる所あらんとし竹槍白旗
を樹てゝ密陽府を蹂躪せんとす府使及び轉運使よ
り密陽支部に援助を求めしに依り之に應じ鎭撫す
れども聽かず府內に入らんとす故に已むを得ず一
時擊ちて退け八人を斃し十人を傷つく死者は府使
に渡し傷者は軍醫をして施療せしめ府使より其親
戚に渡したり、仁川伊藤兵站官