12月5日 左の電報大本營に達したり 十一月二十七日附在公州森尾大尉の筆記報告に 仁川より派遣の中隊の狀報と報告とに據り察す 仁川 伊藤兵站司令官 宣諭使 平安、黃海兵亂地方の人民に日本出兵 東學黨事情 過般來東學黨鎭定の爲め晉州地方 去十一日晉州附近の水谷村附近の東徒を攻めしと ●東學黨を擊破す ( 左の電報大本營に達したり
去三十日午後三時平山の北一里に於て大角技手 運輸通信總監 寺內正毅
●東學黨を擊破す
(
據れば西路分進中隊は十一月二十一日公州に達
し其東南に在りし數萬の賊徒と交戰し之を擊退
す翌二十二日未明より彼再び攻擊し來る我兵之
を防ぎ午後一時ごろ遂に之を擊攘し賊六人を殪
し砲、小銃彈藥二千發を分捕す同日沒に至り賊
徒は敬天▣定山の方位へ退却せり而して此中に
は淸兵凡四十人許ありて又大隊本部は翌二十七
日公州に達すべき豫定なるを以て其到着を待ち
其指揮に依りて更に攻擊を始めんとす
れば賊は漸次全羅道に退去するものゝ如し
川上兵站總監宛
の本意を諭示する職にして九月中旬京城より派
出したるは李鶴圭、趙熙一、權濚鎭の三氏なりしが
皆能く其職分を盡し日本軍隊の便を得たること少な
からず平壤陷沒の後三氏も同じく北進し李氏は昌
城、碧潼方面に向ひ趙氏は平壤以北淸川江以南を
受持ち權氏は義州地方に向へり
に赴き居りし鈴木大尉の一隊は再昨日を以て悉
く當地に歸着せり其言に據るに慶尙道に跋扈せる
東學黨は去十七日より十九日に懸け河東附近にて
大敗し全羅道の奧深く逃込み全く鎭定の姿となり
たれば我兵を引き揚げたりと
き彼等は數千名の大勢にて何れも白衣を着し居る
が爲に一望雪の如く我兵は僅僅百名內外に過ぎず
戰の始まりしは午前八時頃にして彼先づ發銃し
我兵直ちに之れに應じて發火突進せしに我兵の猛
威に恐れ其一部分は背後の山上に逃げ他の一部分
は北麓に退けり我兵は二手に分れ攻め入りしに彼
等は壘に據りて我兵を瞰下して發銃し或は大石を
投ずるなど必死となりて防禦し我兵苦戰の際山北
に退きたる賊は遷廻し來りて突然我右側を襲擊せ
しより我兵は更に二隊に分れ一隊は此賊を擊退し
一隊は山頂の賊壘に向つて吶喊突進して難なく之
を占領せり此時我兵には僅に三名の負傷を生ぜし
のみなりしも賊の死せし者無慮三百餘名の多きに
達せり夫より逃ぐる賊兵を追擊して遂に河東に至
りしに賊は同地の川を越えて對岸の山山に立籠り
防禦の用意に怠りなき模樣なり我兵が此地の賊に
向ひしは去十六日なりしが船は川の向側に在りて
進むことを得ず人夫五名をして川を泳ぎ前岸の船
を奪はしめんとせしに賊は山上より頻りに銃を放
つて之を妨げしも我兵川の此方より發銃して之を
保護し一名は不幸にして溺死したるも他の四名は
遂に船を奪ふて還りしも潮退て船砂に膠して動か
す能はず同夜竊に方向を轉じ翌日未明廣坪洞の渡
を越えて賊を襲ひしに賊は脆くも蟾居里地方に向
つて逃散し翌十八日十九日の兩日にて我兵殆んど
賊を敗り殘る賊兵は大槪順天地方の山奧に逃げ失
せ一時全く鎭定と云ふべき景況なりと云ふ(來電
參看)
工事中東學黨三百餘の襲來に遭ひ金圓其他物品
悉皆掠奪せられ翌一日朝技手以下公州より來着
の守備兵八人と合し平山に籠れる賊徒を攻擊し
遂に十二人を斬殺し火器刀劍數多を分捕し工夫
一人負傷の旨京城土屋中尉より報告す
川上兵站總監宛