12月12日 左の報告書大本營に達したり
慶尙道西南部暴徒擊攘の報告
一 河東府附近の東學黨擊退の爲遠田中尉に第 二 藤枝少尉の小隊は二十七日河東附近に進み 三 此日遠田中尉河東府に達し藤枝少尉の部隊 四 二十八日東徒凡七百人蟾居驛に在るの報を 五 此方面の賊は已に退走せしも猶河東府附近 六 十一月二日右兩部隊の指揮を執らしむる爲 七 十一月七日鈴木大尉は二箇小隊を率ゐ安心 八 同十日丹城縣地方に群集の東徒昆陽を襲は 九 同月十六日數多の賊兵應時及び三峯山に屯 十 同十七日午前七時コウヘイ洞に於て河を渡 十一 同十九日午前七時河東を發しヨウタイに 十二 此日別に數多の賊兵我背後に出で河東府 十三 爾後賊兵は皆全羅道順天の方位に遁走し 十四 我兵の歸途に就かんとするや河東、昆陽 明治二十七年十二月一日 一 追て朝鮮官吏の手にて處分したる暴徒は左 討捕使大邱府判官池錫永より通報の寫(譯文)晉 一 昆陽、金鼈の戰に於て捕捉せし東徒二十一 一 晉州に於て捕捉せし東徒五十八名中魁首金 一 河東渴鹿峙接戰の際銃殺十一名、同時生擒 一 日本兵にて捕捉せし三十四名の隊長金在僖 十二月一日 今橋少佐
東學黨の檄文 忠淸道の東學黨が去る十月蜂起 公州湖西各樓中 又東學黨陣旗の我征討軍の手に分捕せられたるも
●東學黨擊攘の詳報
(
三中隊の二箇小隊を藤枝少尉に第四中隊の一箇
小隊を引率せしめ十月二十二日釜山府を發し同
日馬山浦より二區隊となり二道より河東に向ひ
前進す
東徒七百人を廣坪洞に攻擊し賊は退走してセン
コ江を渡り船は悉く彼岸に繫留して退く是に於
て內海軍曹は水中に飛入り浮泳して江を涉り彼
岸の小舟を奪ひて還る因りて全小隊逐次江を渡
り草賊を追隨するも渡船の爲時刻を移したるを
以て賊は已に遠く退走して踪迹を失す賊の委棄
せし武器糧食若干を奪掠す
と相合して同地に宿營す
得二分隊を派遣して搜索せしむ賊は已に我兵の
前進を知り少數の人員を止め大部分は退却中な
りし因りて直ちに之を追擊し遂に賊は悉く左右
の山頂を越え退走す此日亦彼の武器等若干を收
む
處處に數千百の暴徒集合するの報を得更に此等
を擊破する爲一時昆陽に背進す
第四中隊長鈴木安民氏をして釜山を發し昆陽郡
に到らしむ同大尉は四日昆陽に達す
洞の南方金鼈山に進み同徒凡四百人の集合する
に會し一小隊を本道より一小隊を山南より前進
せしめ挾み擊ち之を破る賊の死體六、生擒二十
七、武器若干を收む後に土人の言に據れば賊の
死體七十許山間に集めありしといふ
んとするの狀況を偵知し翌十一日我より先んじ
て逆擊を施さん爲鈴木大尉は全隊を率ゐ晉州の
西方水谷村に到る果して東徒凡五千人山野に充
滿するを見る時に午前八時五分賊先づ銃を發し
て我を襲擊せんとす我兵之に應じ漸漸賊に逼る
賊は二區隊となり一は山上、一は山の北方に退
保す因りて我兵は山上の賊に向ひ攻擊す賊は山
頂に積み上けたる石壘に據り防戰堅くして動く
色なし此際山北の賊兵再び前進し來り我兵の右
能を▣く此の如きの動作從來東徒の仕業に似ず
頗る意外なりし十時十五分藤枝少尉の一小隊は
吶喊して山上の石壘內に突入し遂に賊を擊退す
此際上等兵高橋淺次、一等卒小野山丑松、同藤
本源左衛門の三名負傷す皆銃創なり又芳川曹長
の率える一小隊は我右側に出來る賊に當るまた
遠田中尉の率える一小隊は迂廻して賊の左側に
向ふ山巓の賊退走するや遂に悉く潰亂西北德山
地方に向け走る是に於て我兵を收集ず時に午前
十一時なり賊の死體は戰場に委棄せる者百八十
六、傷者は數を詳かにせず土人の說に退走して
土中に斃れたる者數十名ありしといふ生擒二名
賊は武器彈藥糧食品等數多棄て走る
集するを見る因りて之を攻擊せんとするも河流
に船なく渡るを得ず軍夫五名浮泳して對岸に到
り小舟一艘を得て還る此際軍夫一名溺死す時に
退潮に際し舟沙泥に膠して動かず遂に日沒に至
り攻擊を果さず
り二箇小隊をヨウタイに一箇小隊を三峯山に向
ひ進ましむ而して賊は已にヨウタイに在らず全
中隊三峯山に向ひ三方より進み擊退し猶一箇小
隊は蟾居驛に進みて殘賊を破り午後五時河東府
に還る
至る賊兵數百旨朗洞附近に群集するを見る因り
て四方より包圍の目的を以て攻擊をなす賊兵狼
狽四散し其大部分は蟾居の西方に向け退走す後
に聞く所に據れば此賊兵は先日の敗を聞き更に
全羅道順天府方位より來援せしものなりといふ
此日賊の死七人、生擒五名、賊の委棄したる武器
其他雜品道路を▣ふ
に迫る我殘留の兵卒八名之を防ぎ先づ賊の旗を
携ふる者一名を擊殺す餘賊見て忽ち退散せりと
いふ
近傍隻影を留めず因りて鈴木大尉以下二十一日
河東を發し二十七日釜山港に歸管す
等の土民等數多集まり來り或は陳情書を出し或
は口頭を以て猶我兵の留陣を請ふもの再三、是
れ土民等兇徒の再び侵入せんことを恐れ朝鮮兵
の恃なきに因り切に我兵の留陣を哀願せしなり
倂し我兵は兵站地守備の任務に服せざるべから
ざるを以て鈴木大尉は懇ろに土民を慰諭して歸
管の途に上れり猶警備の爲地方官に忠告し晉州
に百人河東に百人の朝鮮兵を置き守備せしめた
り
釜山港兵站司令部に於て兵站
兼碇泊場司令官 今橋少佐
大本營兵站總監川上操六殿宛
の通なり
州舊海倉に於て捕捉せし東徒二十一名內魁首林
碩俊は八日に梟首し餘の二十一名は減輕の上十
二名は放ち八名は嚴囚す
名中魁首崔學元は十三日に銃殺し餘の二十名は
減輕の上釋放す
商奎は十三日梟首し僮蒙金卷順は同日銃殺し餘
の五十六人は減輕の上二十七名は囚、二十九名
は放つ
の十七名は減輕の上釋放す
は屢屢釋放されしに猶東徒に入りハクハクに付
き又金達得は東徒晉州に入る時前導をなせしに
由り倀鬼(組長の意)金性大と共に十月(韓曆)二
十四日河東船橋場に於て銃殺す
の際各地に飛ばせし同志嘯集の檄文は此程我征討
軍の手に依りて發見されたり頗る東學黨蠢動の本
志を知るに足るものあり左の如し
方今倭兵大擾、
朝鮮傷憂、以此心患之際、朝家密敎、神初奉此、扣
頭心裂腸碎、又於淸軍全爲我國勞盡血路、以吾補
國安民之義、豈可晏然看望乎、但願吾道諸君子、
一皷約起、同聲大務、而諸般軍用、銳鍊精礪、竭忠
報國之地向耳、
甲午九月十一日(日本曆十月九日)
湖州大義所
のを一見せしに長さ一間餘幅三尺餘の見事なる錦
地に「補國安民」と大書せるものなり