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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
大阪朝日新聞 대판조일신문
  • 기사명
    明治27年 12月 12日
  • 이미지
    prd_0136_124 ~ prd_0136_126 (124 ~ 126쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년 11월 16일
일러두기

12月12日
●東學黨擊攘の詳報
(廣島特派榎本義路發電)

左の報告書大本營に達したり

慶尙道西南部暴徒擊攘の報告

一 河東府附近の東學黨擊退の爲遠田中尉に第
三中隊の二箇小隊を藤枝少尉に第四中隊の一箇
小隊を引率せしめ十月二十二日釜山府を發し同
日馬山浦より二區隊となり二道より河東に向ひ
前進す

二 藤枝少尉の小隊は二十七日河東附近に進み
東徒七百人を廣坪洞に攻擊し賊は退走してセン
コ江を渡り船は悉く彼岸に繫留して退く是に於
て內海軍曹は水中に飛入り浮泳して江を涉り彼
岸の小舟を奪ひて還る因りて全小隊逐次江を渡
り草賊を追隨するも渡船の爲時刻を移したるを
以て賊は已に遠く退走して踪迹を失す賊の委棄
せし武器糧食若干を奪掠す

三 此日遠田中尉河東府に達し藤枝少尉の部隊
と相合して同地に宿營す

四 二十八日東徒凡七百人蟾居驛に在るの報を
得二分隊を派遣して搜索せしむ賊は已に我兵の
前進を知り少數の人員を止め大部分は退却中な
りし因りて直ちに之を追擊し遂に賊は悉く左右
の山頂を越え退走す此日亦彼の武器等若干を收

五 此方面の賊は已に退走せしも猶河東府附近
處處に數千百の暴徒集合するの報を得更に此等
を擊破する爲一時昆陽に背進す

六 十一月二日右兩部隊の指揮を執らしむる爲
第四中隊長鈴木安民氏をして釜山を發し昆陽郡
に到らしむ同大尉は四日昆陽に達す

七 十一月七日鈴木大尉は二箇小隊を率ゐ安心
洞の南方金鼈山に進み同徒凡四百人の集合する に會し一小隊を本道より一小隊を山南より前進
せしめ挾み擊ち之を破る賊の死體六、生擒二十
七、武器若干を收む後に土人の言に據れば賊の
死體七十許山間に集めありしといふ

八 同十日丹城縣地方に群集の東徒昆陽を襲は
んとするの狀況を偵知し翌十一日我より先んじ
て逆擊を施さん爲鈴木大尉は全隊を率ゐ晉州の
西方水谷村に到る果して東徒凡五千人山野に充
滿するを見る時に午前八時五分賊先づ銃を發し
て我を襲擊せんとす我兵之に應じ漸漸賊に逼る
賊は二區隊となり一は山上、一は山の北方に退
保す因りて我兵は山上の賊に向ひ攻擊す賊は山
頂に積み上けたる石壘に據り防戰堅くして動く
色なし此際山北の賊兵再び前進し來り我兵の右
能を▣く此の如きの動作從來東徒の仕業に似ず
頗る意外なりし十時十五分藤枝少尉の一小隊は
吶喊して山上の石壘內に突入し遂に賊を擊退す
此際上等兵高橋淺次、一等卒小野山丑松、同藤
本源左衛門の三名負傷す皆銃創なり又芳川曹長
の率える一小隊は我右側に出來る賊に當るまた
遠田中尉の率える一小隊は迂廻して賊の左側に
向ふ山巓の賊退走するや遂に悉く潰亂西北德山
地方に向け走る是に於て我兵を收集ず時に午前
十一時なり賊の死體は戰場に委棄せる者百八十
六、傷者は數を詳かにせず土人の說に退走して
土中に斃れたる者數十名ありしといふ生擒二名
賊は武器彈藥糧食品等數多棄て走る

九 同月十六日數多の賊兵應時及び三峯山に屯
集するを見る因りて之を攻擊せんとするも河流
に船なく渡るを得ず軍夫五名浮泳して對岸に到
り小舟一艘を得て還る此際軍夫一名溺死す時に
退潮に際し舟沙泥に膠して動かず遂に日沒に至
り攻擊を果さず

十 同十七日午前七時コウヘイ洞に於て河を渡
り二箇小隊をヨウタイに一箇小隊を三峯山に向
ひ進ましむ而して賊は已にヨウタイに在らず全
中隊三峯山に向ひ三方より進み擊退し猶一箇小
隊は蟾居驛に進みて殘賊を破り午後五時河東府
に還る

十一 同十九日午前七時河東を發しヨウタイに
至る賊兵數百旨朗洞附近に群集するを見る因り
て四方より包圍の目的を以て攻擊をなす賊兵狼
狽四散し其大部分は蟾居の西方に向け退走す後
に聞く所に據れば此賊兵は先日の敗を聞き更に
全羅道順天府方位より來援せしものなりといふ
此日賊の死七人、生擒五名、賊の委棄したる武器
其他雜品道路を▣ふ

十二 此日別に數多の賊兵我背後に出で河東府
に迫る我殘留の兵卒八名之を防ぎ先づ賊の旗を
携ふる者一名を擊殺す餘賊見て忽ち退散せりと
いふ

十三 爾後賊兵は皆全羅道順天の方位に遁走し
近傍隻影を留めず因りて鈴木大尉以下二十一日
河東を發し二十七日釜山港に歸管す

十四 我兵の歸途に就かんとするや河東、昆陽
等の土民等數多集まり來り或は陳情書を出し或
は口頭を以て猶我兵の留陣を請ふもの再三、是
れ土民等兇徒の再び侵入せんことを恐れ朝鮮兵 の恃なきに因り切に我兵の留陣を哀願せしなり
倂し我兵は兵站地守備の任務に服せざるべから
ざるを以て鈴木大尉は懇ろに土民を慰諭して歸
管の途に上れり猶警備の爲地方官に忠告し晉州
に百人河東に百人の朝鮮兵を置き守備せしめた

明治二十七年十二月一日
釜山港兵站司令部に於て兵站
兼碇泊場司令官 今橋少佐
大本營兵站總監川上操六殿宛

一 追て朝鮮官吏の手にて處分したる暴徒は左
の通なり

討捕使大邱府判官池錫永より通報の寫(譯文)晉
州舊海倉に於て捕捉せし東徒二十一名內魁首林
碩俊は八日に梟首し餘の二十一名は減輕の上十
二名は放ち八名は嚴囚す

一 昆陽、金鼈の戰に於て捕捉せし東徒二十一
名中魁首崔學元は十三日に銃殺し餘の二十名は
減輕の上釋放す

一 晉州に於て捕捉せし東徒五十八名中魁首金
商奎は十三日梟首し僮蒙金卷順は同日銃殺し餘
の五十六人は減輕の上二十七名は囚、二十九名
は放つ

一 河東渴鹿峙接戰の際銃殺十一名、同時生擒
の十七名は減輕の上釋放す

一 日本兵にて捕捉せし三十四名の隊長金在僖
は屢屢釋放されしに猶東徒に入りハクハクに付
き又金達得は東徒晉州に入る時前導をなせしに
由り倀鬼(組長の意)金性大と共に十月(韓曆)二
十四日河東船橋場に於て銃殺す

十二月一日 今橋少佐

東學黨の檄文 忠淸道の東學黨が去る十月蜂起
の際各地に飛ばせし同志嘯集の檄文は此程我征討
軍の手に依りて發見されたり頗る東學黨蠢動の本
志を知るに足るものあり左の如し

公州湖西各樓中
方今倭兵大擾、
朝鮮傷憂、以此心患之際、朝家密敎、神初奉此、扣
頭心裂腸碎、又於淸軍全爲我國勞盡血路、以吾補
國安民之義、豈可晏然看望乎、但願吾道諸君子、
一皷約起、同聲大務、而諸般軍用、銳鍊精礪、竭忠
報國之地向耳、
甲午九月十一日(日本曆十月九日)
湖州大義所

又東學黨陣旗の我征討軍の手に分捕せられたるも
のを一見せしに長さ一間餘幅三尺餘の見事なる錦
地に「補國安民」と大書せるものなり

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