12月21日 左の十九日午後六時四十分仁川發此地伊藤兵站 東學黨討伐隊應援として嚮に仁川より公州に派 去十日公州發森尾大尉の筆記報告に據れば中隊 別報に據れば此賊は八日懷德より淸州に向ひた 東學黨 黃海道は頃日來到る處東學黨を以て充
●東學黨討伐 (
官の電報同日午後零時大本營に達す
遣の中隊は一小隊を暫く同地に留め餘は皆今日
仁川に歸りたり
は去五日六日里仁附近の賊を擊ち此賊は魯城に
向ひて退けりと又珍山、錦山、淸州に向はんとす
る賊に對し去九日一枝隊を文義に向ひて出せり
と
るものゝ如し一昨日電報せし軍路調査隊護衛の
小隊が去九日淸州附近に於て擊破したるは此賊
なるべし去十一日電報せし三中隊に下したる命
令は十四日恩津縣に於て電達せりと洛東より報
告あり之に由り觀れば目下我隊は多分金州附近
に在るものゝ如く察せらる
たされ居るといふも殆んど不可なきが如し而して
是等の東學黨は皆眞正の東學黨にあらず槪ね無賴
の徒にして長連縣、安岳府、載寧縣等に蜂起せる
なり四五名の憲兵或ひは兵士を以て其鎭定に向は
しめ彼等の首謀者とも覺しき者に就き其主意を聞
き糺し見るに何れも指して我軍隊に向つて害意を
加ふることなきものゝ如く只地方の縣令府使牧使に
逼り租稅の減輕を哀訴するにあるなどゝ答へり而
して今は所在の縣令府使たるものも家を携へて遠
く其難を避け居れば彼の東學黨は其所在を搜索せ
んとて所所を橫行するもの多し