1月9日
東學黨 黨匪の本據たる忠淸道は巨魁崔法憲(
時亨)及其部下の爲に蹂躪せられ滿道の草木一時
皆東徒たらぬはなきの有樣なりしも我征討軍及朝
鮮討伐兵の力に依りて今は略鎭定す又我征討軍よ
りの飛電其筋に達せしものに曰く忠淸道の東學黨
略ぼ平らぐ我兵將に全羅に進入せんとすと而して
其鎭定に及ぶ迄に仁川京城釜山より出せる守備兵
及中路各地兵站守備兵一千餘人京城及地方の朝鮮
兵五千餘名が五十餘の日子と莫大の軍費とを要し
たりしことを思へば一草賊輩として輕侮し去るを得
ず、黃海道前月來暴起し其勢頗る猛烈にして其
軍隊組織の如き大に他道のものに優るあり目下海
州、豐川、殷栗、長連等の各地を通じて悉く賊有に
歸し居り地方官は悉く幽閉せられ官廳は黨匪の指
令部或は兵站部となり地方官は軍糧徵發方として
使役せられ居る次第にして眞に無政府の姿なり勢
此くの如くなれば一部隊を率ゐて討伐に出でたる
我鈴木少尉は海州以外に手を下し難く後援の至る
を待ち居れりと而して日本兵海州方面に來れりと
聞きて各地より賊徒の同地方に赴援するもの相踵
ぎ賊勢益增大せりと云ふ頑迷の螳臂隆車に抗す
べからざること論なきも一時の蠢動惡むべし(記
者云此項全羅道の分をも倂せて報じ來りしも旣に
前號釜山特報に詳かなれば略す)