1月12日
仁川の東學黨 東學黨の京城及當仁川にも入
込み居れりとの事は豫て聞き及びし所なるが近頃
港口に於て人足に扮裝して入込みたる東學黨人二
名は捕へられて直に京城に送られたり中一人は以
前仁川轉運局主事たりしものなりと云ふ(以上四
日發)
▣▣東學黨に求む 倭將山縣有朋黨數千人を率
ゐ瀋陽(奉天)迤東一帶を犯し我軍に擊退せらる賊
を斃す數百山縣砲に中りて死す(又復暴言を吐く)
遂に津野氏(野津將軍を誤る)を以て代りて其軍に
將たらしむ東學黨人は倭兵の敵に非ずと雖ども然
れども其志愈固く其黨愈多し若し我軍をし
て早日得手せしめば卽ち彼黨未だ始めより臂助と
爲す可からずんば非ざる也
韓人發銃の有樣 東學黨及び朝鮮兵の所持する
銃は悉皆火繩銃にて落し金に火繩を挾み發火する
ときは頭の上に銃を差上げ引金もて放發するを常
とす其頭上高く銃を差上ぐるは之を頰面に當て狙
ひを付くる時は火口に塡めある烟硝にて顔を燒き
又は眼中に火烟の入らんことを恐れてなりと然れ
ば其放發に際して狙ひを定むる能はざるは當然な
り亦好笑話と云ふべし
李周會 左水營に在る軍兵の一部隊長にして曾
て日本に航し前後三年間滯在し居りし由にて日本
語は少しく解話するを得となり
李承▣ 順天兵營の前參謀官にして目下左水營
に來り居れり同人は曩に東徒が順天府を襲ひ府使
を殺害したる騷ぎに怖れ身を脫して左水營に逃げ
來りしものならん
左水營の韓兵 左水營統轄の兵數は壹萬五千名
にて左水營中に在る者千七八百名あり例の不規律
なる狀態は言語同斷なり
●東徒殘暴の事 前前號紙上朝鮮時事中此事を
載せしが右は兵站部及び領事館へは今に何等の通
報もあらずとの事なり