2月9日 全羅道南部東徒鎭壓の報告大本營に達したり左 一 去月三十日當釜山發全羅南部へ派遣したる 二 別紙の報告は去一月十五日全羅道寶城郡を 一月二十五日釜山に於て 第三回報告
十日 本日樂安郡を發し波靑驛に向ふ途鳥城 進んで波靑驛に至り舍營す着する少時にして李 十一日 本日長興府に到らんと欲し早朝波靑 十二日 本日次の情報を得たり曰く過日長興 十三日 本日次の諸報を得たり曰く當郡の南 本夜再び次の情報を得たり曰く當郡の東方二里 十四日 昨夜得たる情報に依り本日中隊(四 十五日 本日當郡の四圍一里乃至三里の地に 第十八大隊の協同中隊は竹泉洞附近に於て三四 京城の韓兵八百名當隊の後を追ひ光陽より順天、 當中隊は長興、康津を經て海南地方に向はんと 目下各地の情況より察するに今後彼等と鋒を交 一月十五日 ●東學黨討伐 左の七日午後八時三十分仁川發電報大本營に達 鳳山附近に猶東徒の散在しあるを聞き昨六日同 仁川 今橋兵站司令官
●東學黨討伐
(
の如し
第四中隊長鈴木大尉より別紙の報告昨夜當地に
着せり
發したるものなり
兵站兼碇泊場司令官一野千里
川上兵站總監宛
院を過ぎんとする際東徒二十餘名陽に良民を粧
ひ出でゝ我軍を迎ふ其擧動頗る怪むべきものあ
り捕へて之を質せば果して同徒の惡計なりし依
て韓兵をして直に刑に處せしむ卽ち左の如し
吳元基 梟首
外八名 砲殺
周會(李ハウヱイの別名)次の情報を傳ふ曰く日
本軍及び京軍の一分は已に去二十八日來長興に
向ひ東徒と同府の北方約二里の地に戰ひ大に之
を破り死屍山を成せり
驛を發し途寶城郡に休憩中同附近東徒頗る多き
を聞知し遂に同郡舍營に決し午後當郡の南方約
二里なる梧柳村中東徒巨魁以下二十餘名蟄伏す
と聞き直ちに木下少尉を差遣はせしも該徒は已
に遁逃して在村せず嫌疑者八名を縛す內五名は
無罪に付き放還し他の三名は巨魁の父なる事を
以て姑く當郡に囚す
附近に戰敗れたる東徒の多くは當郡所管の各
處に籠ると、因りて中隊は當分當地に滯在し殘
黨淸掃に決し專ら四周を搜索せしむ
方約一里半を隔つる富春洞に東徒五十餘名及び
北方約一里を隔つる代加村に東徒百餘名屯集せ
りと、因りて藤阪少尉を代加村に莊野特務曹長
を富春洞に孰れも若干の兵を附し到り擊たしむ
然るに代加村の敵は已に逃れて在村せず富春洞
も亦集團せるものなく七名の東徒、七名の嫌疑
者を縛せり
餘を隔つる海倉山中東匪百名屯集せりと
分隊殘留)を率ゐ海倉山に向ふ東徒已に我軍の
向ふを知り昨夜を以て四散し在らず僅かに十一
名の殘徒を縛す而して山上將に工を竣らんとす
る家屋四箇を發見す蓋し賊徒屯集の用に供せん
とするものなり因りて後日を慮り悉く放火
せり
下士斥候六組を派遣而して五十一名の東徒を捕
縛せり目下當方面の情況去十三日長興に向け差
遣したる斥候と綾州より來れる第二中隊の斥候
及び楠野少尉の書翰等に據れば第十九大隊第一
第二中隊の枝隊及び第十八大隊白木中尉の率う
る協同中隊は聯合して三面より南面方位に進擊
しつゝあるものゝ如し而して第二中隊は本日靈
巖に向け綾州を發し進んで康津、海南の殘徒を
攻擊せんとする計畫なり然るに楠野少尉より受
けたる書面に據れば同地方は漸次鎭靜の模樣な
り
百の敵に遭遇し之を擊破したりと
樂安を經て當郡に來り已に本日綾州に向け出
發したり
欲せしも前記の如く同地方漸次鎭靜の報あり當
郡郡守以下各官吏に就き嫌疑の點少なからざる
と其他近村の殘徒淸掃に至らざるを以て猶當分
當地に滯在し十分探偵の心算なり
ふべきは萬萬無かるべし
全羅寶城郡第四中隊長鈴木大尉
大隊長今橋少佐宛
(
したり
司令部より二道に斥候を派遣したるに孰も同徒
に會し七八名を殪し接主一名、黨類六名を捕獲
して歸來し捕虜は目下取調中なる旨鳳山兵站部
より報告ありたり
川上兵站總監宛