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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
大阪朝日新聞 대판조일신문
  • 기사명
    明治28年 2月 14日
  • 이미지
    prd_0136_159 ~ prd_0136_162 (159 ~ 162쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1895년 01월 20일
일러두기

2月14日
●東學黨剿討記(承前)

連山の戰鬪

中路分進隊は第十八大隊及び敎導中隊を錦山より
高山に派遣し大隊本部及び第三中隊のみ連山を經
て魯城に至り公州地方の賊徒を剿滅せんと欲し十
二月九日連山に着せり然るに十日拂曉人民東徒襲
來の風說を告ぐ結束之を待ちしも遂に來らず故に
出發せんとせしに今朝の風說に恐れて韓人の人夫
及び住民悉く逃走し輜重を運搬すべきものなし
因て近傍の村民を集め午前十一時漸く準備を整へ
連山を出づるや否や東徒四方の山上より我隊を包
圍し小銃を猛射す前衛たりし小隊は直ちに山を攀
ぢて前面敵の首力を攻擊し後方及左右等の各面は
各一分隊をして之に當らしむ此日東徒は精良なる
銃器を持するもの多く彈丸能く遠距離に達す特に
前面の賊は山上に據守し頑として動かざりしも前
衛猛進遂に山城を奪ひ餘黨隨て潰え此日の戰前
衛小隊の杉野上等兵戰死す敵の死者は副先鋒金順
甲以下數百人なり敵の防禦せし跡にはモーゼル、
レミントン、スナイドル銃の藥筒多く遺棄しあり
たり此戰鬪の爲魯城、恩津附近を本據となせし全
琫準、金化南、孫化中の賊軍速かに敗走せり

東徒の衰勢及民兵

此一戰に因り東徒の勢力頗る衰へ我兵の至るを
聞けば必ず遁逃して敢て抗戰を試むるなし我兵の
威力斯の如くなるを以て義兵或は民兵と名づくる
もの各地に起り東徒と抗戰するに至る

海美の戰

西路分進隊は一枝隊を牙山沔川を經て洪州方向に
出せり此枝隊は十一月廿日沔川に着す然るに東徒
海美に在るの報を得廿一日之を進擊せり海美には
東徒二萬許り死力を盡して防戰す我兵は六時間許
り之と交戰したる後洪州に引揚げたり此戰我兵
死傷なし

洪州の戰

右枝隊洪州に引揚げたる後同月廿五日東徒は大擧
して洪州城を攻擊せり其數三萬餘人(捕虜の言ふ
處は六萬餘なりと)銃砲を猛射す我兵頗る苦戰し
遂に翌廿六日全く之を擊退す此戰我兵死傷なく
東徒の死者三百餘人其他運搬し去りし死傷者無數
なり

公州の戰

西路分進隊の本隊は十一月廿日公州に着せり翌廿
一日東徒約二萬人來り襲ふ我兵韓兵と共に之を迎
擊し廿二日遂に之を擊退す此日我兵負傷一名あり
同月廿五日東徒再び來り襲ふ蓋し東徒は例の豫言
を以て李氏の後王たる者の都は鷄籠山附近に在り
と言ひ囃し居るを以て是非公州を陷れ民望を收め
んとするなり故に此日は首魁全琫準、孫化中、金
化南、各部兵を率ゐ來り總勢殆んど四萬人許り我
兵力戰翌廿六日遂に之を擊退し尙ほ二里餘追擊を
爲し之を擊散せり

巨魁の就縛

十二月三十日首魁全琫準は從者二三輩と共に微行
して淳昌縣附近を過ぐ民兵起つて之を縛す全琫
準は全羅道の大首魁にして多少學あり識あり他の
魁首の如く無謀の暴を爲さず當國にては先一個憂
世の士と云ふべきか其縛せらるゝや民兵の爲に足
を碎かれ頭を破らる因て醫官をして之を治療せし
め且つ優遇を加へ又當時の形勢を諭す彼れ大いに
我隊の厚遇に感じ謝して曰く僕不肖にして煽動者
の言を信じ日本の信を重じ義に勇む斯くの如く大
なるを知らず只歷史上の觀念よりして日本は我朝
鮮國を倂呑せんとするものなりと妄信し遂に今日
あるを致す今更慙愧に堪へざるなりと又首魁金化
南も全州民兵の手に捕縛せられたり然るに全州監
使直ちに之を斬首せり朝鮮官吏は此の如き重罪者
を捕ふるも一應の尋問を爲すことなく直に之を斬首
するを以て叛亂の基因等詳かに之を知る能はざる
に至る惜むべし蓋し朝鮮の暴徒は多く貪官汚吏を
惡んで起るもの故若し之を詰問する時は却て我が
身の隱惡を發かるゝの奇觀を生ずることあり依て縛
すれば直に殺すの習慣を生ぜしものか尋で一月九
日高敞縣の民兵巨魁孫化中を捕縛せり同日又咸平
の民兵巨魁李化辰を捕縛せり賊魁玆に於て殆んど
盡く

東路分進中隊

東路分進中隊は我兵站線路を進みしを以て戰鬪を
交へしことなし然れども丹陽、堤川附近には東徒嘯
集し巨魁成斗漢ありしを以て之をして江原、咸鏡
兩道に遁逸せざらしめんとし進擊の命を受て進み
しも東徒は我隊の至るを聞けば直に遁れて敢て抗
戰せず因て之を追捕し居れり然るに十二月十二日 伊藤仁川兵站司令官より丹陽附近の賊は後備步兵
○○第十八大隊の石森大尉に任せ其隊は咸陽南原
方向に前進し中、西、兩路の隊と協力して征討に從
事すべきの命を受け前進し來り綾州に在り

氣候

我軍の最大幸福とすべきは氣候の溫暖なり渡韓以
來午前六時に於ける最高溫度五十二度最低溫度廿
二度にして未だ一回も堪へ難き寒氣に遭はず

韓人と我軍隊

我軍隊は軍紀嚴肅にして人民に接する極めて穩和
なり特に細微の物と雖も之を掠奪するが如き擧動
毫も無きを以て皆其高義に服し從來に反して日本
を慕ふの念頗る盛んなるが如し又一般朝鮮兵も日
本兵を信ずること甚だ深く日本兵の命ずることは喜ん
で之に服從す

東學黨の兩派

東學黨には北接、南接の二派あり北接は崔時亨を
首領とし南接は徐章玉を首領とす崔時亨は法軒と
號し元來東學黨敎義の大首魁なり東學黨の辭令書
樣のものには多く北接法軒と署名しあり崔は旣に
七十有餘の老人にして東學敎義を起してより已に
三十餘年に及ぶと云ふ徐章玉は其高弟なり又多
くの弟子を有す徐章玉の弊政に激して亂を作さ
んとするや法軒時機尙早きを說き其輕擧暴動を戒
めたり是より意見衝突して遂に二派となり一を北
接と云ひ一を南接と名づくるに至る全羅道は南接
派多く全琫準、金化南等當時の賊魁多くは皆徐章
玉の部下なり而して此兩首領は山中に隱遁して
敢て出でず特に法軒の如きは最初より戰鬪に與り
しことなしと云ふ

朝鮮官吏

當國は今尙ほ貪汚の官吏多く征討軍の至るを幸と
し軍隊の用に供すると稱し人民より多くの金穀を
徵集して私慾に充つ故に人民皆怨んで曰く征討軍
の來る我等蘇生を期す而して今や却て慘苦を加ふ
と東學の暴起故なきにあらざるなり而して此弊は
啻に官吏のみならず軍隊も亦官吏より金錢を强奪
するの弊あり朝鮮國の不規律實に言語に絶ず嗚呼
朝鮮の國弊は上流に在り所謂拔本的改革の一日も
速かならんことを望む (完)

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