3月3日
全祿斗の申供
東學黨巨魁全祿斗の縛に就き我公使館へ護送せら
れし事は旣に報ぜり全は足部の銃傷未だ癒えざる
上發病して危篤に陷り居るの故を以て內田領事は
直に京城守備隊の大野一等軍醫に治療を請ひ生命
には別條無かるべしといふ當分は領事館內に留置
して救療し健康回復の上韓廷に引渡さんとし昨日
來同人を臥さしめたる儘にて取調を始めぬ法務大
臣徐光範氏は大に其就縛を喜び日本軍隊の功勞を
謝し來りたり、左に揭ぐるは東學黨征討軍獨立第
十九大隊某官が捕獲の當時同人を取調べたる口供
書なりしと云ふ
住す
里に於て民兵の爲に
細に申立てよ
府の我國に對する政客方針を知悉せず本年三月
以降日本兵陸續我國に來る是れ必ず我國を倂呑
せんとするならんと昔時壬申の禍亂を思ひ出し
國家滅亡すれば生民何ぞ一日も安んずるを得ん
やと人民疑懼の念を生じ余を推して首領となし
國家と滅亡を共にせん決心を以て此擧を圖りし
なり
誼を重んじ朝鮮を淸國の羈絆の下より救ひて獨
立國たらしめんとせしものにして實に大義の軍
なり之をしも思はず敢て抗敵の軍を起す別に深
き故あるなき乎
卽ち閔族勢ひに乘じて官を賣り職を賣り下に苛
稅を徵し民の膏血を絞り之れを盡く淸國に致し
て歡心を得るの料となす此等奸賊を去らざる可
らず且は全羅監司苛稅を布き民を虐ぐるに依り
之に堪ふる能はず依て監司をも除かんことを謀り
だるのみ
しものにてはなきや且兵を起すには他に○○○
ありと思考す如何
ず使嗾せられたるに非ず只一個の考へを以て此
擧を計りしなり、大院君の令旨云云は決して此
くの如き事件に關係したるものに非ず吾今再び
政府に出でたるに依り皆安堵して其業を勵めよ
との令旨なりし余等は古阜及長興の縣監を憤り
昨年四月全州に至り弊政二十七箇條を指摘し監
司に上訴し暫く命を待つ中各所に人民蜂起し余
を推して首領となし余は止むを得ずして起てり
日迄知らずや
兵を▣し我國を助くるの情誼を知らば全羅道人
民を說き諭し共に日本の味方たる可かりしに反
つて日本軍に抗したるは實に遺憾なり
獨立國たらしめん方針なり其方等思ふに獨立國
善き乎屬國善き乎
固より之を知る然るに政府の侫奸なる輩來りて
人民に向ひ假令日本我國をして一時は獨立國た
らしむるを得るも之を永遠に持續する能はず早
晩淸國の爲に覆へさるゝは明かなり故に今より
大國に從ふを利なりとの布令を出せしものあり
故に人民此言に惑ひ終に此る有樣に立至れり
一存に非ず其方等を○○せし者あるに相違なし
現に金介男(不良黨一萬の首領にして東學黨の
別働軍長たりし者)全州に於て殺さるゝとき自
分は殺さるゝ謂はれなし我を使ふ者の罪なりと
云ひしことあり之に由りて見るも必ず○○○あ
らん
原府使及武南營の宋司馬を殺したり我れ恩津に
在るの日余と金介男を誘ひ淸州に行かんことを
勸む我其時は之に從はざりしが金介男は連れら
れて淸州に至り敵と交戰し張喜用は彈丸に當り
て死したり必竟金介男は張喜用の爲に賊名を蒙
ぶり事を誤られたるに依り常に之を遺憾に思ひ
居たる爲殺さるゝ時此言をなせし所以ならん
其方等の上に立ちて○○せるものあらん、申立
の如何に依り大に罪の輕重に關す依て有の儘申
立てよ
然るに只昨年十月と十一月との間に於て閔族よ
り李樞使召募使の職を帶び來り我等に話すに政
府に奸者ある爲政修まらず故に一日も早く之
を除かざる可らずと我元來兵を起したるは京城
に至り政府の奸賊を除かん爲なれば何ぞ彼等の
言を待たんや然るに我等の上京に先ち日本兵多
く京城に入り込める爲其意を果さゞりき
當時召募使(閔黨より出で居れり)の話に假令閔
族現政府より退けられ流離四散するも一たび令
旨を發せば如何なる事をもなし難からずと云へ
り
るの感情如何なりしや
たりと稱す而して閔族より來りし召募使に對し
て何の感情もなかりしとは如何
し者なりしや否やを詳にせず然るに其れより
三日目に政府(無論新政府なりと知るべし)より
地方に出で居る召募使を捕縛すべき旨の令下れ
り此に於て始めて閔族より出でしものと悟れり
や
しも當時は老▣して政を執るの氣力なく元來
我國の政を誤りたるも皆大院君の爲なれば人
民之に服せず
君も士民の我に服し居るを自信せり故に士民に
告示を傳へたる所以に非ずや然るを士民大院君
に服せずとは如何
ふ意に非ず我國從來より爲し來りたる兩班常
人の制を廢したることには服從せずと云ふ意なり
せよ
政を釐革せん目的なりしも閔族は我等の入京に
先ちて倒れたるを以て一旦兵を解きたり而して
其後七月(韓曆)日本軍大に京城に入り王宮を圍
みたるを聞き大に駭き同士を募りて之を打拂は
んと再び兵を擧げたり只余の終局の目的は第一
閔族を斃し一味の奸臣を却け弊政を改革するに
あり又轉運使を廢し田制山林制を改正し小吏の
私利を營む者を嚴に處分せんことを願ふのみ
を知らず亦此の如きこと決して有る可らず我王を
廢して亦誰れをか戴かんや
全祿斗の審問續聞
昨日以來日本領事館にて取調べたるもの左の如し
と聞く前者と差異ある數點を擧ぐ
る處に東學人金致道なるものより私に東學の書
物を示したることあり中に「敬天守心」と云ふ文章
あり其內に「大體正心」と云ふことに感じて入
黨せり
何か他に其方の入黨を促せし因なき乎
入るの必要なきも東學黨の所謂「敬天守心」と云
ふ主意よりするときは正心の外「協同一致」の意
を含み居れば結黨ずるの要を見るなり心を正ふ
せる者の一致は奸惡なる官吏を除き報國安民の
業を成し得ればと考へし故なり
意を知らざりしと云ふも日本人海浦なる者(名
篤彌、尾崎行雄氏の門下にして久しく京城に在
り)外一二名と會し互に胸襟を披きて時事を談
じたることありしに非ずや
し爾來互に音信せんと迄約せしことあり然るに其
後彼人等より遂に文信を得る能はざりしより京
地の事情を知る能はざりし
國人が汝の國を屬國となさんとするに心附かざ
りしは汝にも不似合の事ならずや
納れ居るに付き此上に國を倂はさんと迄はせざ
るべしと思ひたり
使李健永全羅道に、召募使宋廷爕忠淸道に來り
大院君に於て少しく考ふる所あり義兵を招募す
るの意あり汝等は此に應ぜずやと說きたれども
咄妖魔何をか云ふと笑ひを以て斥けたり(宋廷
爕が大院君の旨を受けて東學黨を煽動せりとの
嫌疑にて捕縛され法務衙門に於て審問を受けた
るの事實は昨年十一月末頃通信せり同人は現に
尙審問中にあり)
せんと誓ひし者は僅かに四千人なりしのみ
執綱、大正、中正等にして效勞あるもの接主とな
り接主中の長老を法軒と尊稱せらる
て漸く日本の我國に異志なきを知れり然れども
忠淸道地方六十數萬の殘黨潛在す早く彼れ等の
處に一篇の曉諭文を送り彼等をして日本の朝鮮
に二なきを知らしめて安心せしめられよ
一昨日の通信に全祿斗以下東學黨領袖株八名の中 ●京城消息 ( 東學黨を征討せし日本朝鮮兩軍凱旋す大君主陛 金鶴羽氏刺客鞠問中使嗾者は○○君ならんと判
に記しありし權豐植は彼の閔應植の妹壻にして
咸平郡守の官に在りながら東學黨の兵糧方を務め
朴鳳陽は雲峰縣監にてありながら賊に黨して働き
たるものなり他八名の迅問終り次第法務衙問
問に移さるべしと云ふ押收書類は審査中なり
獨立扶助の名を如何
曰く韓海出漁曰く移民曰く土地開拓曰く礦山開掘
曰く航業受負等各種の人が各種の大利益ある事業
を營まんとて渡來するもの多し是尤も喜ぶ可しと
なす然りと雖ども亦飜つて思ふ日本已に朝鮮獨
立扶助を世界に聲言せし以上は飽く迄も朝鮮の獨
立を扶助するの責任あり此事の爲には隣邦の義俠
上同胞の利益の幾分を犧牲にしても力を盡すの覺
悟を要す若し夫れ國家獨立の最要資本は富にあり
而して此富之を朝鮮獨立の扶助に就て大責任を帶
べる我同胞が國內に起せる各種の大利益ある事業
に依つて奪ひ去り而して此國の獨立果して扶助さ
るべき乎獨立を扶助すとは或る羈絆の下より脫せ
しめて正當に獨立せしむるのみならず亦其獨立を
持續せしむるを云ふ而して有らえる富を日本に奪
ひ去り果して此國をして獨立を持續するの力足ら
しむるを得べき乎朝鮮に於て利益ある事業を起す
尤も可而かも同時に「獨立扶助」の四字に想ひ到る
こと最も切要なり敢て世人の一考を煩はすとは井上
伯の意見なりと聞けり (此回未完)
下は軍務大臣趙義淵氏を勅使として龍山に歡迎
せしめられ慰勞の旨を賜ひたり
知せられたり