3月14日
東學黨雜聞
東學黨に關して聞く所を一束して左に記す
東學黨再起原因、猖獗の理由 に關し東學黨討
伐中隊長山村大尉より其筋へ報告の主意なりと云
ふを聞くに曰く東學黨再燃の原因は閔族の煽動其
多きに居る、猖獗の理由は東學黨中に夫の七月二
十三日王宮の變に雲上より失落せし閔族の加はり
居るものあり其威風は積年の餘勢尙ほ地方官吏等
を慴服せしむるに足るものあるに由ると
東學黨徒の誦呪 侍巳天主造化定永世不忘萬事
知至意今至願爲大降の二十二言なり
崔法軒の人相書 東學黨征討軍指揮官が三南の
各地方官に觸れ知らせし巨魁崔時享の人相書は下
の如し(一)顔形、圓頭鐵紅黑多面▣(二)鼻、矮小
(三)髯、黑白(四)頭髮、半脫額如漆皮(五)丈不
甚長躰不甚大(六)年齡近七十
崔時亨の擧動 崔時亨の擧動は實に變幻常なく
時に身分を變じて農商となり時に服裝を變じて居
喪者の如くなり從來我軍と一邑驛に俱に泊し居た
ること多しと云ふ、彼の韓曆一月六日に忠淸道松柏
山原谷に死したりと云ふは事實なるが如し(以上
三月二日)
●東學黨討伐及其近狀(
特派長濱實發電) 左の十二日午後六時二十分仁
川發、同日六時四十分釜山發、同日十時着電報左の
如し 去七日の報告に據れば三日黃州より東徒
偵察の爲派遣したる韓兵百三十名は保山の韓兵百
五十名と協力し四日銀波附近の賊二百餘名を擊退
し武器米穀を分捕せり目下東徒の巢窟はクゲツ山
及び銀波の南約七里なるチヤウジ山ならんと
去十一日の報告に據れば安岳及び長連より漁隱洞
に到りたる兵卒及び官吏の言を對照せばクゲツ山
に集合せる東徒は一千名內外ならん尙情況を確め
たる上臨機の處置をなすべき旨熊谷中佐より報告
ありたり 仁川高井兵站監