4月3日
●東學黨討伐
(
左の三十一日午後八時仁川發電報大本營に達し
たり
昨三十日午前八時海州の西方康翎、公瓦津の兩
處に屯在せる黃海道の殘賊を海岸へ壓迫する目
的を以て豫備隊の一部は松禾、長淵より主部は
文化、信川より、齋藤少尉は載寧南倉、海州より
攻擊する爲各守備の兵を出發せしむる旨熊谷中
佐より報告ありしに今三十一日同官の再報に據
れば齋藤少尉は命令の進路を取り本日午前十時
シヨクガフムを經て約五六町前進せしに散開せ
る東徒の射擊を受く因りて一分隊を右翼に廻し
本隊は本道を進む賊は逐次退却して五箇所に分
れ高山に登り防禦す此地は險峻防禦に適す故に
攻擊をなすも順乎として動かず因りて尙一分隊
を左側の山に廻し攻擊せしに漸漸退却して右方
の最高山に據り防禦す是に於て全く賊の陣地を
占領し遂に▣退賊は散亂して潰走す我陣地と賊
の最後の陣地の山谷にミヨオンジといふ寺あり
卽ち賊の根據にして之に蓄ふる米穀凡二百石許
ありしも運搬困難の爲▣皆燒き▣てたり賊は凡
千五百名許にして死傷未詳なるも約四十名なり
と但し松禾、長淵及び文化、信川より進みし部隊
は未だ報告なし
仁川 高井兵站監
川上兵站總監