4月12日
竹山附近に火賊(銃を携ふる賊をいふ)起り其勢
猖獗なり敎導中隊一小隊は鎭壓の爲今日出發し
たり(以上五日發)
東學黨剿討後記(承前)
歸還の訓電 全羅道西南方の東徒も全く剿滅に 朝鮮大君主の勅使 各隊三路に分進し龍山に歸 大芚山の役 中路分進隊は其一小隊を先發せし 支那兵捕縛 西路分進隊は沃溝附近に淸人(牙 地方の感情 地方人民は眞に我好意を了解し各 龍山凱旋 諸隊(我第十九大隊及び第十八大隊
歸せしを以て諸隊は悉く羅州に引揚げ二月六日地
方官及び敎導中隊壯衛營の士官を會し小祝宴を開
けり宴半ばにして今橋仁川兵站司令官より訓電あ
り曰く貴官(南大隊長)は爲し得る限り速かに全羅
西南部の東徒を鎭定し全羅忠淸二道を三路に分進
して龍山に歸還すべし而して歸途は下の件に泩
するを要す(一)東徒の殘黨を鎭定し再び蜂起の憂
なきに至らしむる事(二)及ぶ限り運動を迅速にし
一日も早く龍山に歸還を勉むる事(三)各地の情況
は爲し得る限りの手段を盡し最近の兵站地より電
報する事と因て大隊本部及び第二中隊白木中尉の
一隊敎導中隊は西路、第三中隊及び壯衛營三百人
は中路、第一中隊及び壯衛營二百人は東路を取り
て各歸還の途に就けり
還せんとし中路の諸隊全州府に着せし時(二月十
五日)朝鮮國軍務參議朴準成は東學黨討滅功勞感
謝勞問の勅使として全州府に抵れり然るに勅使の
着したるは午後八時頃なる故明朝出發の際勞問
勅語を部下一同に拜聽せしめんと約せり而して十
六日全州府出發の際第十九大隊の第二中隊及敎導
中隊を第一門前に會せしめ指揮官大隊長少佐南小
四郞勅語を奉讀し部下に捧銃の禮をなさしめ終て
同官の答辭ありたり
め連山に於て昨年戰死せし杉野上等兵火葬の式を
行ひ遺骨を斂めしめ本隊は二月十日羅州を發し十
七日高山縣に着せしに東徒の巨魁數十人大芚山に
集合せるを聞き我兵三分隊韓兵三十名を武內特務
曹長の指揮に屬し之を攻擊せしめたり此山は全山
巖石より成り只一條の細徑を通ずるのみ特に其頂
邊は突兀壁立梯に依らざれば昇降するを得ず東徒
は險を恃みて家屋を構へ大石巨木を堆積し銃を排
列して防禦せり故に地方屯在の韓兵屢之を攻擊
するも寸效なし我兵は早朝濃霧に乘し巖石の間を
匍匐し漸く賊壘に達し三方より之を包擊せしも容
易に目的を達するを得ず是に於て特務曹長は我兵
一分隊を率ゐ再び巖石を攀ぢ賊窟の後面に出で賊
の備へざるに乘じ人梯を以て登り叱呼突貫せしに
賊兵狼狽千尋の谿谷に飛び込み▣卽死するもの多
く又我兵の爲に刺殺せられしものあり廿五人の賊
魁一人も洩さず之を鏖殺し家屋兵器を燒き 陛下
の萬歲を三唱して下山せり
山の敗兵ならん)の鄕曲を橫行して浮說を唱へ人
民を惑はすものあるを聞き一小隊を先發せしめ之
を捕縛せんとせしに旣に此地を去りたりといふ卽
ち踪跡を逐ひ遂に禮山に於て其十七人を捕縛して
京城に護送せり
自の生命財産を安全に保つを得たりとて大に日本
軍隊を德とし所在「大日本大隊長活人碑」なるも
のを建てゝ其德を頌するものあるに至れり
の若干及び敎導中隊壯衛營一大隊)は二月二十八
日悉く萬里倉に歸還せり此時大君主陛下より勅使
を特派せられ我軍の沍寒を侵して久しく東徒征討
に從事し全く剿滅に歸せし勞を御慰問の勅語を賜
はり東學黨征討軍指揮官後備步兵獨立第十九大隊
長少佐南小四郞之を捧讀し部下一同及び韓兵をし
て捧銃の禮を行はしめ終りて同官答辭を述べ我
天皇陛下の萬歲を三唱して解散せり此日降雪あり
寒氣肌に砭するが如し (完)