6月8日
雞林の變益益急
なり
飛報又飛報到るとして鷄林擾變の急を傳へざるは
なし曰く東賊は京城附近まで押寄せたり曰く京城
は已に重圍の裏に陷る曰く城裏の百官難を仁川に
避けたり曰く淸兵二千仁川に上陸すと、坐して其
報に接するも猶ほ劍光を硝烟の裏に認め、砲聲を
人馬の際に聞くの想あり貴賤老幼其居に安ずる能
はざるもの幾何ぞ、蓋し東徒の此擧を起すや洋倭
排斥を口にするも其實は然らざるの實狀あり、敢
て王師に抗せずして斷じて侫權を斃すべしと云ふ
果して此の宣言の如くんば則ち東徒の策、先づ京
城を圍みて之を占取し終に王宮を擁して八道に詢
へんとするも亦知る可からざるなり
軍略の機密は窺ふて而して之を言ふの限りにあら
ずと雖も、思ふに淸兵已に仁川に上陸するの今日
に當りては我國の應じて之に處する亦た甚だ▣か
らざるべし而して東徒の唱ふる處彼が如く其策の
出づる處にして若し此のことなからん乎、在外臣民
の保護に要するの手段は毫も▣▣するを須ずと雖
ども兵亂戡定と云ふを以て未だ直ちに干戈を彼れ
に接すべからざることもあらん、亂に朝鮮に赴くの
兵、此に處すること亦た難しと謂はざるを得ず而
して王宮の難▣殊に察するに堪へたり若し京城を
して援兵未だ達せざるの前に陷らしめば蓋し事局
一變して更らに困難を增すに至らん乎此後の飛報
は正に此機の轉ずる處を分つべきなり
●朝鮮の亂――京城重圍內に在り 東學黨の初
め古阜に起るや其宣言する所▣理世安民に在り全
羅道法聖邑の吏に發したる通文に曰く聖明上に在
りて生民下に塗炭す是れ貪官汚吏の致す所此くの
如くにして革命の止むべからざるを揚言し竹槍席
旗を以て起てり而して五月廿日の頃には六七千の
大勢となり▣軍器をも手に入れ先づ靈光を占領し
進んで全州に入り邑里を蹂躪して東軒に向ひ吏を
戮し守兵を殺すこと數百、勢ひ益益猖獗なり國王
殿下は勦討の令を下し招討使洪啓薰は其の令を奉
じて全羅監司を免黜し先の古阜郡守趙秉甲を繫械
し以て一方に慰撫の意を示し又一方に若し歸順せ
ずんば京軍大擧して討滅すべしと威嚇したるも賊
軍更らに應ずる所なく各所に官兵を敗ぶり五月廿
四日までには土兵京軍合せて三百餘名を斃すに至
れり韓政府は夫夫部署を定め將帥を任明し賞罰を
嚴にして討平に力むれども微力の官軍力敵せず本
月に入ては全州砥山に一敗し洪州の石城を占領さ
れ僅に奉安(天安?)の要路を退き守ると雖も賊勢
は日に熾んにして一萬有餘の大兵となれり而して
京兵には抗せず鄕兵は必ず破らん貪官は追逐し姦
吏は剿滅すなど稱して國王殿下直隷の京軍に抗せ
ざる者の如しと雖ども蓋し是れ口實のみ又如何な
る場合に處しても革命軍の守るべからざる揚言な
り知るべし賊は已に官軍を敗り盡して京畿に逼り
京城を圍むこと幾重、京城の急旦夕に過り國王殿
下も亦要する處となりしや否や詳かならざるに至
りたるを、實にや是れ危機一髮の有樣と謂ふべし
尙詳細は後報に依て之を記さん