6月10日
●又又暴動起る (同上)
或る會社へ達したる電報に曰く露淸韓の國境吉
林に暴動起り其徒一萬五千勢ひ猖獗なり支那政
府は更に天津より出兵せりと
●東學黨中の外人(同上)
東學黨中に一人の外人ありて同徒一方の指揮官
となり居るとの風說あれど其何國人たるやは固
より判然せず然るに陸軍大尉田中次郞なるもの
あり明治二十三年の頃傳令使となりしが後非▣
となりて馬關地方に流浪し玄洋社の壯士十數名
と共に朝鮮に航し其後在京の友人に向て醫師數
名を派遣せられたき旨促し來りしことあるより
同人を以て東學黨中の外人なるべしと云ふもの
あり去れど固より訪問の風說に止まり未だ俄に
信ずるべからず
●自由黨總會對韓の檄文 自由黨は本日午前十時總會を閒き報告書及び朝 朝鮮東學黨の騷亂今正に急なり外交の○○○ ●朝鮮事件と自由黨 ( 板垣自由黨總理及び在京前代議士二十餘名は本 一我黨は朝鮮の狀況視察として特派員を朝鮮に 一我黨は朝鮮事件に關し委員をして內閣大臣を 一我黨は各府縣の黨員に向ひ朝鮮事件に關し我 而して特派員は同黨員田中謙氏を派遣するに決 ●軍艦遣派の主意 雞林八道の風雲日に益益荒れ東學黨は殆んど一 朝鮮國內內亂蜂起し勢益益猖獗を極め今は ●朝鮮全州の官軍盡く敗る ( 京城發の電報によれば東學黨は日夜益益其勢力 ●出兵の通牒 (同上)
我政府は淸國に向ひ出兵の事を通知し淸國政府 ●福嶋中佐 ( 福嶋中佐は朝鮮出張を仰付けられたり
●三人の在留禁止と、日本興行者の困難 草野 朝鮮事變 (六月三日京城發)
◎朝鮮國王の綸旨 東學黨の蜂起は暴橫の官吏 惟予宵肝 而して綸言效なく賊兵京城に逼り外兵境を越え韓 ◎洪招討使の軍大敗す 五月三十日京城着の ◎東學黨の兵器 は初め筒にヒゞを生じ又は臺 ◎東學黨全州を占領せんとす 五月三十一日午 ◎全州陷る 其後の報に曰く賊軍漸く逼るに會 ◎招討使、監司の生死 此戰爭の爲め招討使洪 ◎政府の狼狽、官吏の逃支度 官兵到る處に敗 ◎巡邊使と廉察使との出發 政府は全州の危き ◎平壤兵と仁川兵 六月二日仁川發の報に曰く ◎國王殿下、宗廟の地を思ふ 全州未だ沒落せ ◎兵を支那に借る 朝鮮政府が終に官兵の賴む ◎我が公使館の戰地視察 京城の我が公使館に ◎商況不振 京城仁川間にては目下東學黨の噂 ◎行衛知れざるの兵 洪招討使が率ゐて戰地に
(
鮮事件に關する檄文に就て協議を爲し午後朝鮮
事件に關して河野廣中、片岡健吉、星亨の三氏伊
藤總理、陸奧外務の二大臣を訪問し歸て其顚末
を報告せり其地方黨員に檄するの文は左の如し
不測に出ることなきを保せず國民たるもの豈
警醒する所なかるべけんや是を以て我黨本部
は警を聞くの後直に視察員を派し韓地に赴か
しめ且委員に托し大臣を訪問せしむ我黨は韓
地の事情を悉す夫れ必ず近きに在るべし思ふ
に對外の擧動は國家の大事に屬す榮辱の分る
る所實に此に存す誠に○○の故を以て大事を
沮喪するを許さゞるなり此時に際し我黨たる
もの宜しく政論の異同を問はず區區の感情を
一▣し大に禦侮に從ふ事を勉むべし國家の榮
辱は繫けて人民の勇怯に在り砲聲彈響東亞の
山河を震▣するの日我黨の人士義勇の志を鼓
し且つ直に國難に赴くの備をなせ
日芝公園なる同黨本部に集會を開き朝鮮問題に
關し左の各項を決議したり
派遣する事
訪問せしむる事
黨の方針を示し且つ諸般の注意をなす事
したりと云ふ
(
潟千里の勢を以て今や全羅忠淸の要所を占領し
京城に進みたるより我政府も軍艦を派遣するの
止むを得ざるに至れり而して其派遣の主意なり
と云ふを聞くに左の如し
早や朝鮮政府の力之れを鎭定する能はざるに
至りしかば在同國我國公使館領事館及び國民
を保護する爲め此に軍艦を派遣す云云と云ふ
に在り
を擴張し全州の官軍は意氣追追沮喪し戰爭每に
敗滅を取り或は降を軍門に乞ふあれば或は逃去
して其影を隱すあり目下の有樣にては到底勝利
の見込なしと云ふ
又我政府に向ひて出兵の通牒をなしたりと云ふ
稻村、中尾の三人が治安を妨害すと認められ二年
三年の朝鮮在留を禁止され直に退韓を命ぜられた
るは過日之を記し或は東學黨に關する嫌疑ならん
との事をも報ぜしが別に謂れある者の如し而して
事の起りは朝鮮捕盜廳の捕卒興業見物人を謂れな
く引致したるに起る抑も朝鮮京城に於て日本人の
營業し居る興行(玉乘り足▣等の見せ物)及び遊
戲(玉ころがしにて品物を景物に出すもの)の景況
は去四五月頃に至り中中の好景況にて此等の收益
は實に莫大の由に聞及びたるが目今の營業者は興
行物九ケ所と遊戲營業四十餘名に達し韓人の來集
も日每に增加し來る勢ひあり然るに去五月二十日
捕盜廳の捕卒(俗にカクチヱギーと稱し日本にて
幕府時代の目アカシと稱せし者と一般なり)二名
右日本人の興行場に來り見物の爲め同所に來り居
りし韓人三十餘名を捕へて捕盜廳に引致したるよ
り何とはなしに見物人も疑懼を抱き自然來集する
もの減じて其營業上の損害一方ならざるより該營
業者は一同評議の上兎も角も其捕卒を捕へて事情
を明かにせんものとて二十二日(五日)には數名を
達んで捕卒を捕ふるの手筈をなせり所る處に同日
稻村某なるもの一名の捕卒を或る酒店に於て捕へ
何故に興行見物人を引致したりやと尋ねしに捕卒
は之に答へて云ふ我等は捕盜廳より興行場遊戲場
に立入るものを捕へよとの命を受けたればなりと
依て稻村は之を草野方に連れ行きたるに同所に居
りし多數の同業人は之れを縛りて毆打せり右に就
き日本警察署にて取調の末領事は夫の三名に退韓
を命じたるなり然るに此警察の取調べ領事の處置
に就て不服を唱ふるもの少からず取別け興行遊戲
の營業者一同の激昂一方ならず場合に依りては領
事警部等の不都合を本國政府に上申せんと迄力味
しも若し萬一其曉に至れば如何なる結果を來し▣
て自分等の職業を營む能はざるに至るやも知れず
とて一時此の事は見合せ一先づ平穩に其の局を結
びし今回捕卒の一件より韓人は恐れて興行遊戲の
場所に近付かざるより該營業者はハタと其營業を
失ひ實に苦心する者多しと云ふ領事館にても此事
を聞知して捨置▣くや思ひけん同二十七日には朝
鮮片名文を以て揭示を各所に爲さしめ韓人の安心
を求め同三十日には漢城府よりの照會文をも揭示
せり然れども其後に至るも韓人の見物等に來るも
の絶えたるより今や殆んど營業中止の姿となり該
業者は興行九ケ所、遊戲業四十餘名一日の收益は
百五十圓程なりしに一時に中止の姿となりだるは
返す返すも遺憾なりと嘆息し居る由又興業遊戲仲
間にては今回の退韓者三名の不幸を憐み金二十二
圓五十錢を醵金して之れを三名に贈りたりと云ふ
を掃蕩するにあること旣に報じたる如し國王の左
の如き綸旨を下したるもの蓋し慰撫の意に出でた
るならん
故也蓋其爲弊之端予亦有種種入聞者職由於貪汚
之吏不克字恤反以侵暴令民不得安業迫而致此宜
其隨聞斥黜無俾留一日添一害若其最無良者以當
律痛懲庸例民心豪右之武斷有民畏於官長矜彼無
辜莫以資生宜其操而戢之抑其强而扶其弱使窮蔀
編爲勉有捿遑其咨而其武小民愚頑群聚作挐至於
至隳壞名分則亦宜其禁飭調制且夫國結所重雖一
把一束有未可率甫增加者亦或有朝家所不知擅自
加斂一結之多或倍蓰於原摠農民終歲作苦甁罌無
儲雖遇樂歲於未足租稅而蕩折仳難爲官而爲此者
非直曰虐民也其果知有國法者乎宜其到底査櫛原
結外無或濫收仍令覈論其犯料之罪所謂無名雜稅
之許多討索者一物入市色目絲棼一般過境港閘棋
錯商民俱病貨源耗竭貿遷窒礙日益寸騰宜其一切
痛革凡此諸民瘼爲守宰者不念予爲民之心抵顧封
己之私計思之寧欲無言而其所以按廉而周察者旬
宣之責也目下民情嗷嗷鬧聒不待採探傳聞狼藉自
不可掩而迄玆寥寥一未登聞是豈薱揚之義哉其爲
慨歎更有源於列倅而亦惟在廟堂糾警而薰飭之其
不職之大懲創爲弊之痛矯革可以宜斷可以稟裁宜
亟而勿徐也竝將此意嚴飭各道
廷の現狀憐むに足る
電報に曰く洪招討使の軍昨日非常の敗軍を爲し兵
丁の殺傷せらるゝ者三百許、又大砲(回旋砲)二門
小銃數百を奪はると
の毁れたる火繩銃、柄の曲りたる矛、刃の欠げた
る劍等其多數を占め何れも劇戰に用えべからざる
者のみなりしが到る處官兵を破り破る每に兵器を
奪ふこと右の如くなるを以て武器益益精銳にして
勢力愈よ猖獗となるなり
後京城に達したる電報に曰く東學黨全州を奪はん
とし大擧して全州門外まで攻め寄せ來れりと抑も
全州は全羅道の首府にして全羅監督の在る所なり
し前全羅監司金文鉉は銃丸を侵して忠淸道公州に
逃れたり玆に於て新監司金鶴鎭は慰撫の綸旨を携
へて京城を發し任に全州に赴けり此時洪招討使は
全州に在りて兵數の足らざるを憂ひ臨時民兵を募
集せんとし其準備に着手せり然るに宛も好し此時
百五十の民兵陣門に來りて徵發に應じたる旨を通
ず招討使其義を賞し之を勞ひ直に隊中に編人し進
んで長城の東賊を擊んとし其近傍月城に至るや
東賊已に玆に在り招討使兵を指揮して之れと戰ふ
戰正に酣なるの時百五十の民兵は一聲の合圖と
共に分れて二手となり東賊に應じて左右より夾擊
す京兵三方に敵を受け何かは以て堪るべき木ツ葉
微塵に打破られ死する者四百餘人、敗兵は蜘の子
の如くに逃げ去れり東賊は勝に乘じて得たりや應
と進軍し瞬時にして全州を去る三里の處に來り午
後は苦もなく全州の營所を占領したりと此報は是
れ五月三十一日京城に達したる者なり
啓薰及び監司金鶴鎭共に生死不明となりしが洪は
戰沒し金は逃れたりとの說熾んなり
れ特に全州に敗るゝや政府の震懾一方ならず在京
各營の兵士が號泣の聲は四方に達し城內非常に戒
嚴す之と同時に韓官の重なる者は到底京城の賴む
べからざるを察し密かに逃支度をなし祕法に依て
家財を田舍地方に運びつゝありとの說多し
を聞き大護軍李元會を以て兩湖(全羅、慶尙の二
道を云ふ)巡邊使となし機に隨ひ變に應じ鎭撫に
盡力すべきことを命じ又行護軍嚴世永を以て廉察
使とし國王の綸旨を奉じて忠淸全羅慶尙三道の民
情を視察せしむ而して巡邊使李元會は平安監營の
兵丁五百、統禦官の兵丁二百を率ゐ六月二日京城
を發し陸路戰地に向へり兵丁の京城を離るゝや悲
哀に堪ず泣涕する者多かりしと、陣に莅んで喜び
跳り屍を蹈んで進むは是れ勇士の常、而して朝鮮
の官兵今此の如し東賊の每に破る所となる亦怪し
むに足らざるなり
前夜來徵集せし七十名の仁川兵は漢陽號にて已に
出發し平壤兵は蒼龍號の同地に廻航するを待て之
に乘込む筈なりと
ず唯だ危急なりとの報達するや、王は宗廟の地亂
民の侵す所とならんことを憂ひ禮堂を遣はして其
事情を實視せしめんとて左の命を下したり
雖聞匪類之徒直入完府(全州のこと)不知情形之
如何廟殿敬奉之地有此騷擾不勝驚悚卽遣禮堂奉
審以來
而して全州已に賊の有たり王の衷懷亦察すべし
べからざるを察し袁世凱の手を經て兵を借らんこ
とを淸國政府に電報したるは五月三十一日なり
ては戰狀視察の爲め高嶋語學生と巡査二名を派遣
することゝなり六月三日午後二時を以て出發せし
めたり
のみ盛んにして商況振はず人心何となく安からず
赴きたる兵丁八百の內三百七十餘名、行衛知れず
なりしと云ふ一の不思議なり