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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
大阪每日新聞 대판매일신문
  • 기사명
    明治27年(1894) 6月 10日
  • 이미지
    prd_0137_018 ~ prd_0137_024 (206 ~ 212쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년 05월 07일
일러두기

6月10日
●又又暴動起る (同上)

或る會社へ達したる電報に曰く露淸韓の國境吉
林に暴動起り其徒一萬五千勢ひ猖獗なり支那政
府は更に天津より出兵せりと

●東學黨中の外人(同上)

東學黨中に一人の外人ありて同徒一方の指揮官
となり居るとの風說あれど其何國人たるやは固
より判然せず然るに陸軍大尉田中次郞なるもの
あり明治二十三年の頃傳令使となりしが後非▣
となりて馬關地方に流浪し玄洋社の壯士十數名
と共に朝鮮に航し其後在京の友人に向て醫師數
名を派遣せられたき旨促し來りしことあるより
同人を以て東學黨中の外人なるべしと云ふもの
あり去れど固より訪問の風說に止まり未だ俄に
信ずるべからず

●自由黨總會對韓の檄文
(東京發)

自由黨は本日午前十時總會を閒き報告書及び朝
鮮事件に關する檄文に就て協議を爲し午後朝鮮
事件に關して河野廣中、片岡健吉、星亨の三氏伊 藤總理、陸奧外務の二大臣を訪問し歸て其顚末
を報告せり其地方黨員に檄するの文は左の如し

朝鮮東學黨の騷亂今正に急なり外交の○○○
不測に出ることなきを保せず國民たるもの豈
警醒する所なかるべけんや是を以て我黨本部
は警を聞くの後直に視察員を派し韓地に赴か
しめ且委員に托し大臣を訪問せしむ我黨は韓
地の事情を悉す夫れ必ず近きに在るべし思ふ
に對外の擧動は國家の大事に屬す榮辱の分る
る所實に此に存す誠に○○の故を以て大事を
沮喪するを許さゞるなり此時に際し我黨たる
もの宜しく政論の異同を問はず區區の感情を
一▣し大に禦侮に從ふ事を勉むべし國家の榮
辱は繫けて人民の勇怯に在り砲聲彈響東亞の
山河を震▣するの日我黨の人士義勇の志を鼓
し且つ直に國難に赴くの備をなせ

●朝鮮事件と自由黨 (東京發)

板垣自由黨總理及び在京前代議士二十餘名は本
日芝公園なる同黨本部に集會を開き朝鮮問題に
關し左の各項を決議したり

一我黨は朝鮮の狀況視察として特派員を朝鮮に
派遣する事

一我黨は朝鮮事件に關し委員をして內閣大臣を
訪問せしむる事

一我黨は各府縣の黨員に向ひ朝鮮事件に關し我
黨の方針を示し且つ諸般の注意をなす事

而して特派員は同黨員田中謙氏を派遣するに決
したりと云ふ

●軍艦遣派の主意
(東京發)

雞林八道の風雲日に益益荒れ東學黨は殆んど一
潟千里の勢を以て今や全羅忠淸の要所を占領し
京城に進みたるより我政府も軍艦を派遣するの
止むを得ざるに至れり而して其派遣の主意なり
と云ふを聞くに左の如し

朝鮮國內內亂蜂起し勢益益猖獗を極め今は
早や朝鮮政府の力之れを鎭定する能はざるに
至りしかば在同國我國公使館領事館及び國民
を保護する爲め此に軍艦を派遣す云云と云ふ
に在り

●朝鮮全州の官軍盡く敗る (東京發)

京城發の電報によれば東學黨は日夜益益其勢力
を擴張し全州の官軍は意氣追追沮喪し戰爭每に
敗滅を取り或は降を軍門に乞ふあれば或は逃去
して其影を隱すあり目下の有樣にては到底勝利
の見込なしと云ふ

●出兵の通牒 (同上)

我政府は淸國に向ひ出兵の事を通知し淸國政府
又我政府に向ひて出兵の通牒をなしたりと云ふ

●福嶋中佐 (東京發)

福嶋中佐は朝鮮出張を仰付けられたり

●三人の在留禁止と、日本興行者の困難 草野
稻村、中尾の三人が治安を妨害すと認められ二年
三年の朝鮮在留を禁止され直に退韓を命ぜられた
るは過日之を記し或は東學黨に關する嫌疑ならん
との事をも報ぜしが別に謂れある者の如し而して
事の起りは朝鮮捕盜廳の捕卒興業見物人を謂れな
く引致したるに起る抑も朝鮮京城に於て日本人の
營業し居る興行(玉乘り足▣等の見せ物)及び遊
戲(玉ころがしにて品物を景物に出すもの)の景況
は去四五月頃に至り中中の好景況にて此等の收益
は實に莫大の由に聞及びたるが目今の營業者は興
行物九ケ所と遊戲營業四十餘名に達し韓人の來集
も日每に增加し來る勢ひあり然るに去五月二十日
捕盜廳の捕卒(俗にカクチヱギーと稱し日本にて
幕府時代の目アカシと稱せし者と一般なり)二名
右日本人の興行場に來り見物の爲め同所に來り居
りし韓人三十餘名を捕へて捕盜廳に引致したるよ
り何とはなしに見物人も疑懼を抱き自然來集する
もの減じて其營業上の損害一方ならざるより該營
業者は一同評議の上兎も角も其捕卒を捕へて事情
を明かにせんものとて二十二日(五日)には數名を
達んで捕卒を捕ふるの手筈をなせり所る處に同日
稻村某なるもの一名の捕卒を或る酒店に於て捕へ
何故に興行見物人を引致したりやと尋ねしに捕卒
は之に答へて云ふ我等は捕盜廳より興行場遊戲場
に立入るものを捕へよとの命を受けたればなりと
依て稻村は之を草野方に連れ行きたるに同所に居 りし多數の同業人は之れを縛りて毆打せり右に就
き日本警察署にて取調の末領事は夫の三名に退韓
を命じたるなり然るに此警察の取調べ領事の處置
に就て不服を唱ふるもの少からず取別け興行遊戲
の營業者一同の激昂一方ならず場合に依りては領
事警部等の不都合を本國政府に上申せんと迄力味
しも若し萬一其曉に至れば如何なる結果を來し▣
て自分等の職業を營む能はざるに至るやも知れず
とて一時此の事は見合せ一先づ平穩に其の局を結
びし今回捕卒の一件より韓人は恐れて興行遊戲の
場所に近付かざるより該營業者はハタと其營業を
失ひ實に苦心する者多しと云ふ領事館にても此事
を聞知して捨置▣くや思ひけん同二十七日には朝
鮮片名文を以て揭示を各所に爲さしめ韓人の安心
を求め同三十日には漢城府よりの照會文をも揭示
せり然れども其後に至るも韓人の見物等に來るも
の絶えたるより今や殆んど營業中止の姿となり該
業者は興行九ケ所、遊戲業四十餘名一日の收益は
百五十圓程なりしに一時に中止の姿となりだるは
返す返すも遺憾なりと嘆息し居る由又興業遊戲仲
間にては今回の退韓者三名の不幸を憐み金二十二
圓五十錢を醵金して之れを三名に贈りたりと云ふ

朝鮮事變 (六月三日京城發)

◎朝鮮國王の綸旨 東學黨の蜂起は暴橫の官吏
を掃蕩するにあること旣に報じたる如し國王の左
の如き綸旨を下したるもの蓋し慰撫の意に出でた
るならん

惟予宵肝憂勤爲民一事而民愈困瘁所在騷訛此曷
故也蓋其爲弊之端予亦有種種入聞者職由於貪汚
之吏不克字恤反以侵暴令民不得安業迫而致此宜
其隨聞斥黜無俾留一日添一害若其最無良者以當
律痛懲庸例民心豪右之武斷有民畏於官長矜彼無
辜莫以資生宜其操而戢之抑其强而扶其弱使窮蔀
編爲勉有捿遑其咨而其武小民愚頑群聚作挐至於
至隳壞名分則亦宜其禁飭調制且夫國結所重雖一
把一束有未可率甫增加者亦或有朝家所不知擅自
加斂一結之多或倍蓰於原摠農民終歲作苦甁罌無
儲雖遇樂歲於未足租稅而蕩折仳難爲官而爲此者
非直曰虐民也其果知有國法者乎宜其到底査櫛原
結外無或濫收仍令覈論其犯料之罪所謂無名雜稅
之許多討索者一物入市色目絲棼一般過境港閘棋
錯商民俱病貨源耗竭貿遷窒礙日益寸騰宜其一切
痛革凡此諸民瘼爲守宰者不念予爲民之心抵顧封
己之私計思之寧欲無言而其所以按廉而周察者旬 宣之責也目下民情嗷嗷鬧聒不待採探傳聞狼藉自
不可掩而迄玆寥寥一未登聞是豈薱揚之義哉其爲
慨歎更有源於列倅而亦惟在廟堂糾警而薰飭之其
不職之大懲創爲弊之痛矯革可以宜斷可以稟裁宜
亟而勿徐也竝將此意嚴飭各道

而して綸言效なく賊兵京城に逼り外兵境を越え韓
廷の現狀憐むに足る

◎洪招討使の軍大敗す 五月三十日京城着の
電報に曰く洪招討使の軍昨日非常の敗軍を爲し兵
丁の殺傷せらるゝ者三百許、又大砲(回旋砲)二門
小銃數百を奪はると

◎東學黨の兵器 は初め筒にヒゞを生じ又は臺
の毁れたる火繩銃、柄の曲りたる矛、刃の欠げた
る劍等其多數を占め何れも劇戰に用えべからざる
者のみなりしが到る處官兵を破り破る每に兵器を
奪ふこと右の如くなるを以て武器益益精銳にして
勢力愈よ猖獗となるなり

◎東學黨全州を占領せんとす 五月三十一日午
後京城に達したる電報に曰く東學黨全州を奪はん
とし大擧して全州門外まで攻め寄せ來れりと抑も
全州は全羅道の首府にして全羅監督の在る所なり

◎全州陷る 其後の報に曰く賊軍漸く逼るに會
し前全羅監司金文鉉は銃丸を侵して忠淸道公州に
逃れたり玆に於て新監司金鶴鎭は慰撫の綸旨を携
へて京城を發し任に全州に赴けり此時洪招討使は
全州に在りて兵數の足らざるを憂ひ臨時民兵を募
集せんとし其準備に着手せり然るに宛も好し此時
百五十の民兵陣門に來りて徵發に應じたる旨を通
ず招討使其義を賞し之を勞ひ直に隊中に編人し進
んで長城の東賊を擊んとし其近傍月城に至るや
東賊已に玆に在り招討使兵を指揮して之れと戰ふ
戰正に酣なるの時百五十の民兵は一聲の合圖と
共に分れて二手となり東賊に應じて左右より夾擊
す京兵三方に敵を受け何かは以て堪るべき木ツ葉
微塵に打破られ死する者四百餘人、敗兵は蜘の子
の如くに逃げ去れり東賊は勝に乘じて得たりや應
と進軍し瞬時にして全州を去る三里の處に來り午
後は苦もなく全州の營所を占領したりと此報は是
れ五月三十一日京城に達したる者なり

◎招討使、監司の生死 此戰爭の爲め招討使洪
啓薰及び監司金鶴鎭共に生死不明となりしが洪は 戰沒し金は逃れたりとの說熾んなり

◎政府の狼狽、官吏の逃支度 官兵到る處に敗
れ特に全州に敗るゝや政府の震懾一方ならず在京
各營の兵士が號泣の聲は四方に達し城內非常に戒
嚴す之と同時に韓官の重なる者は到底京城の賴む
べからざるを察し密かに逃支度をなし祕法に依て
家財を田舍地方に運びつゝありとの說多し

◎巡邊使と廉察使との出發 政府は全州の危き
を聞き大護軍李元會を以て兩湖(全羅、慶尙の二
道を云ふ)巡邊使となし機に隨ひ變に應じ鎭撫に
盡力すべきことを命じ又行護軍嚴世永を以て廉察
使とし國王の綸旨を奉じて忠淸全羅慶尙三道の民
情を視察せしむ而して巡邊使李元會は平安監營の
兵丁五百、統禦官の兵丁二百を率ゐ六月二日京城
を發し陸路戰地に向へり兵丁の京城を離るゝや悲
哀に堪ず泣涕する者多かりしと、陣に莅んで喜び
跳り屍を蹈んで進むは是れ勇士の常、而して朝鮮
の官兵今此の如し東賊の每に破る所となる亦怪し
むに足らざるなり

◎平壤兵と仁川兵 六月二日仁川發の報に曰く
前夜來徵集せし七十名の仁川兵は漢陽號にて已に
出發し平壤兵は蒼龍號の同地に廻航するを待て之
に乘込む筈なりと

◎國王殿下、宗廟の地を思ふ 全州未だ沒落せ
ず唯だ危急なりとの報達するや、王は宗廟の地亂
民の侵す所とならんことを憂ひ禮堂を遣はして其
事情を實視せしめんとて左の命を下したり
雖聞匪類之徒直入完府(全州のこと)不知情形之
如何廟殿敬奉之地有此騷擾不勝驚悚卽遣禮堂奉
審以來
而して全州已に賊の有たり王の衷懷亦察すべし

◎兵を支那に借る 朝鮮政府が終に官兵の賴む
べからざるを察し袁世凱の手を經て兵を借らんこ
とを淸國政府に電報したるは五月三十一日なり

◎我が公使館の戰地視察 京城の我が公使館に
ては戰狀視察の爲め高嶋語學生と巡査二名を派遣
することゝなり六月三日午後二時を以て出發せし
めたり

◎商況不振 京城仁川間にては目下東學黨の噂
のみ盛んにして商況振はず人心何となく安からず

◎行衛知れざるの兵 洪招討使が率ゐて戰地に 赴きたる兵丁八百の內三百七十餘名、行衛知れず
なりしと云ふ一の不思議なり

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