6月14日 朝鮮東學黨の勢焰容易に衰へず今後の形勢如何 朝鮮事變
◎事變の原因 は曾て記せく如く農民の虐政を ◎東學軍中の嶋津大將 日東の快男兒東學軍中 ◎東學軍人恩威竝び行ふ 東軍の一隊全羅道を ◎京城の要寨 東軍旣に全州を陷れ將に京城に ◎巡邊使の人物 全州陷落の報に接し本月二日 ◎朝鮮の兵器彈藥 昨年末の調査によれば朝鮮 ◎廷臣敗を祕し國王怒る 朝鮮の官兵連戰連敗 ◎朝鮮の軍機に參する淸國士官 全州城陷落の ◎朝鮮乞はず淸國却て逼る 淸國の兵を朝鮮に ◎淸兵牙山上陸の理由 に就いては種種の說あ ◎淸兵の先鋒將 牙山に上陸したる淸兵の先鋒 ◎兒戲の如し朝鮮の政略 日淸兩兵の韓境に入 ◎電信技師の派遣 朝鮮變亂の爲め日本居留地 ◎平安道と忠淸道 忠淸道は未だ別段の事ある
●英國出師準備(
に變ずるや知るべからず若しも內亂益益甚しく
八道の夙
ず其安寧を保ち難かるべし玆に於て英國も亦何
時にても同國居留人保護の道を取り得る樣一師
團兵三分の二を派遣することに內決し其出師準
備全く成りたるに付專ら同國東洋艦隊をして其
形勢を視察せしめ機に▣ずるの用意怠りなしと
云ふ
憤るに在り全羅道の農民は屢屢政府に陳情書を
提出して監司金文鉉の更迭を促せしが政府遲疑容
易に決せざるより農民は早く已に蜂起したり玆に
於て金監司は直に逃走し其下に位する官衙の長官
留使、府使、牧使、縣監も亦皆逃走し小吏は悉く
賊徒に與みせり東學黨は此機に乘じて起り暴民を
助けて官兵を破り終に今日の勢力を養ひ得たるな
りと云ふ
にありとは屢屢聞く所、玆に又故嶋津久光公の一
子一方の大將となりて軍隊を指揮しつゝあり此人
我が西南の亂に賊徒に與みし後逃れて朝鮮に在り
しなりと右に付或人の曰く久光公には今の久濟公
の外御子の生存する者なし御孫にも西南の亂に與
せし者なし或は彼の分家なる舊佐土原藩主嶋津久
寬伯の第二子町田啓二郞と申す人には非るか此人
時に實家嶋津を名乘ることあり性豪邁不羈にして
戰を好む夙に英國に學び歸つて西南の亂に賊徒
に與みし舊佐土原の士族を率ゐて各所に奮戰し城
山沒落後生死不明となりしが此時或は朝鮮に逃れ
居りて今や東學黨の一將となりしならんと
過ぐる(韓曆去十九日)や土人逃亡片影を認めず唯
僅に年齒十四五の少年悄然として行く處を知らざ
る者ありしのみ東徒慰め且つ問ふ少年の曰く兒は
他鄕の者、今に玆に在る所以の者は兒が家赤貧洗
ふが如く衣食の以て供すべきなし僅に兒が薄利の
商業に依て父母の口を糊するのみ今や變亂此の如
くにして商路杜塞す何の面目あつて父母に見えん
や兒は貴黨の刃に斃れんのみと意氣決然、神色自
若たり玆に於て人民懷撫策に汲汲たる東徒は忽ち
此少年の衣に大印章を押し(危害を免れしむる爲
め)且つ十兩の錢を與へ懇ろに慰撫して歸らしめ
たり是より東徒の恩威遠近に傳れりと
逼らんとす京城に四寨あり其防禦に備ふ曰く廣州
曰く春川、曰く江華嶋、曰く開城府(松都)而して
東軍の京城に攻入らんには其大手なる廣州の寨(
京城より日本里程五里)を破り又此に竝べる水原
の寨を破らざるべからず然れども此兩寨頗る堅固
なりとの事なり
の夜京軍一千餘、砲兵百六十人を率ゐて戰地に向
ひたる巡邊使李元會氏は曾て漢城判軍として勇壯
の聞えありし人、當年七十の高齡なりと云ふ
政府の銃砲はマルチ子二千挺、レミントン千挺、
スナイドル七百五十挺、クルツブ砲十門、彈藥は
マルチ子二十萬發、レミントン五百發許なりしと
云ふ
し敗報頻りに至る然も廷臣祕して奏せず全州の陷
るに及び初めて宸聽に達す國王殿下意外なるに驚
き其時までの廷臣の擧動を怒らせ玉ひ閔泳駿を召
して非常なる嚴▣を下し玉へりと
當時まで淸國士官十七名監營兵將統軍の顧問とな
りて軍機に參し居りたりとの說あり果して信か一
怪事と謂ふべし
出すや表面朝鮮の乞ひに應じたる者の如くなれど
內實淸却て朝鮮に逼て之を出したるなり李鴻章が
朝鮮を目して東藩と云ひ之を屬國視するの意より
察するも亦之を知るべし去月二十六日の頃なりけ
ん淸公使袁世凱氏韓の領議政閔泳駿を校洞の第に
訪ひ語次朝鮮の文武官中一人の人物なしと痛罵し
たり閔氏乃ち襟を正して之を詰る袁氏平然として
答へて曰く招討は重任なり何ぞ洪(啓薰)の如き者
を擧げて國事を誤らしめんとするか余人をして戰
狀を探らしめたるに將に威嚴なく軍に紀律な 兵
は閭里に出でゝ財を儉み色を貪る而して賊軍眼前
に在れども追討をなさず數十里外に留陣して賊の
去るを待つのみ是豈に討賊の本意ならんや余をし
て劃策せしめば十日を期して討滅せんこと難きに
非ずと此の如くにして閔氏の心を動し閔氏をして
淸兵借入れの事を閣議に提出せしめ終に之に決し
たり而して是れ李鴻章の胸算に成ると傳ふ
れども先づ從來淸艦の碇泊地たる事、東學黨爭亂
地に近きこと等其一理由なれども要するに糧食の
便利ある事是なるが如し淸兵の不規律なる軍隊自
ら糧食を携へず戰地に至り掠奪して用を辨ずる如
き彼等の最も愉快とする所なれば米穀の豐かなる
此牙山地方に注目したる者ならんと云ふ
大將は提督葉志超と云ふ葉は安徽合肥の人にして
李鴻章と鄕を同うす年齡五十餘、滿面痘痕、曾て
馬賊の蜂起に會し數千の手兵を率ゐて其征討に向
ひ巨魁を生擒して功名を博せる老將なりと
りたるに就き韓廷異論を生じたるは昨日の電報欄
內に見えるが如く我兵の行くを好まざるの致す所
か賊徒益益猖獗ならんとするの時に當り官軍全州
を恢復したりなど申來りたることありと云ふ朝鮮
政府の兒戲的政略笑ふに堪へず
其他より本邦へ發送する電信及び郵便の數非常に
增加し來るも彼地の郵便電信局は技師事務員を合
せて僅に兩三名に過ぎず頗る不便なるに付遞信書
記官▣川寬吉氏電信技師及び事務員等都合五名を
隨へて同地に出張することゝなりし由氏は此事に
付釜山より仁川を經て京城まで赴くとなり
に至らず監司府使等狼狽しつゝも各各其部下の壯
丁を召集し何時にても繰出し得るの手筈を爲し居
る由、然れども平安道に至ては下民の虐政を怨む
者到る處に滿ち妖雲漠漠の觀あれば一朝首領とな
る者ありて起たば爭亂立どころに生ずべしと云ふ