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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
大阪每日新聞 대판매일신문
  • 기사명
    明治27年(1894) 6月 15日
  • 이미지
    prd_0137_030 ~ prd_0137_034 (218 ~ 222쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년 05월 12일
일러두기

6月15日
妖雲漠漠

東學黨の亂其兵甚だ精ならずと雖も朝鮮政府の力
之を鎭定すること能はず、終に隣邦の援を請はざ
るを得ざるに至れり、淸國の兵已に境に莅み我國
の兵已に海を渡る、皆な專ら自國の臣民を保護す
るの意に出と謂ふと雖も亦た時機の已むを得ざる
に際し自から隣邦の爲めに內亂を戡定し若くは其
獨立を維持するの深謀在りて存せざるを得ず、殊
に淸國政府の意は此機會を利用して朝鮮を屬國視
するの宿望を達し、其獨立をして萬邦の圓に無視
せしめんとするに在りと傳ふ、朝鮮政府の此間に
處する寔に危機一髮の間に在りと謂はざる可らざ
るなり

淸國政府の出兵をして果して屬國主義に出でしめ
ん乎、朝鮮國の後來は固より知る可し、是れ苟く
も朝鮮の獨立を先認し耑ら其助長を計りたる我國
の決して傍觀し能はざる處、必らずや淸國政府に
向つて敢て其行爲を質さゞる可らず質して而して
其意を得ざれば隣邦の義に仗り自國の體面を保た
んが爲めに如何なる勇斷果行を要するや測り難し
魯國も亦た南下半嶋を占取して東洋に雄飛せんと
力むるや年あり且つ朝鮮政府中の一部人は或は歡
を魯國に通じて以て自國の安を保たんと企圖する
もの無きにあらずと云へば淸國の暴橫を之れ機と
し一▣戢▣を張るに至らん、事玆に至らば英國も
亦た決して默過せざるべし、英國の東洋に志ある
や敢て魯國に讓らず曩きに巨文嶋を占領して以て
素志を成さんとし適ま障礙を來して僅かに之を解
きしは吾人の能く記臆する所にして其志の漸く益
す固きは苟くも彼れを知るものゝ疑はざる所なり
蓋し露佛と英獨の世界に於ける關係は東洋に於て
▣…▣
は對露の一策最も重きを成すなり、故に露國南下
の勢を制せんと欲するものは淸國に限らず我國に
限らず英國も亦た敢て其勢を制せんとするは深く
考察するを須ゐずして明かなり

電報の傳ふる處によれば現に英國軍艦三隻は巨文
嶋に碇繫し猶ほ東洋艦隊中の船舶を各所に回巡せ
しむるの計ありと傳ふるにあらずや其他佛蘭西と 云ひ獨逸と云ひ亞米利加と云ひ朝鮮の諸港に自國
の臣民を有するものは保護の手段として各軍艦を
派出すべしと云ふ、而して我國の出兵は混成旅團
にして其兵數甚だ多からざるが如きも淸國にして
非常に多數の兵を動かすに至らば必らず亦た之に
應ずるの策に出づべし彼れ一兵を增し此れ一兵を
加ふ此くの如くにして層重せば朝鮮海上は各國の
艨艟舳艫相啣み鷄林八道各國の豼貅劍鎗相摩し殺
氣陰陰として空を掩ふに至らん乎

此時に當りて朝鮮の位地は誠に一髮千釣を引くの
境に遇ふは言を待たず東洋の大局面上亦た已に
妖雲漠漠たり思ふに淸國、李鴻章は偶發の事變に
會して忽ち宿念を達せんとするの發動を試むるに
あらずして機會を多年の間に馴致し今や則ち計を
定めて大に發したるなるべしと雖も亦た未だ必し
も我國の出兵此の如きを豫想せざりしならん、而
して我國已に兵を發し諸他各國已に自ら備ふるの
今日に至りては淸國にして自ら其志を屈すれば兎
に角苟も然らざれば今日の妖雲は復た拂掃するに
由なかるべし、朝鮮政府が今に至りて外兵の入國
に狼狽し官兵能く東徒を鎭定すべきを假裝して以
て後難を避けんとするも是れ兒戲のみ姑息のみ、
自ら戡定する能はざること至今の形勢に徵して已
に明かなる以上は夫の軍隊と軍艦をして無事に引
退せしめんこと猶ほ已に場に登るの力士をして互
に一擊を加へずして退かしむるがごとけん蓋し至
難と謂ふ可し

幸ひにして我國民の敵愾に富めるあり內常に黨爭
を事とするも一朝外變に接しては能く䦧牆の謗を
免るゝに足れり、當局能く機宜に處して國名を維
持し東洋百年の安危を決せざる可からざるなり

朝鮮事變

◎忠淸道亦亂る 昨は忠淸道の事なきを報ぜし
が今や亂報に接せり曰く公州懷德の境界沙烏を距
る韓里十二里(我二里八町)文旨里と云へる所に去
月二十日暴民蜂起し官吏を逐ひ兵器を奪ひ且つ數
百の小銃を以て公州を進擊せんとす監司、完營の 稗將を使はし之を鎭定せしめんとしたるに其軍敗
れて稗將公州に逃ると又曰く同道報恩其他にも暴
徒蜂起し檄を四方に發するや所在非常の歡迎を受
け勢燄日に熾んなり而して五六百人一隊となりて
隱現出沒し官府を襲ふて兵器財物を掠め或は貢米
を奪ふなど狼藉至らざるなく賊將崔時厚亦全州よ
り進み來つて之に加はりたりと

◎韓廷虛勢を張る 自ら內亂を鎭定する能はず
而して外兵の來援を忌み內怯にして外强を示す韓
廷の兒戲は昨日の電報欄にもある如しソレのみな
らず去二日京城の四門則ち崇禮門、肅靖門、興仁
門、敦義門の門扉に左の如き意味の貼紙をなした
る由
去廿二日(四月)招計、沁營の兩軍咸平の賊徒を
襲ひ二十餘名を殺戮し尙逃ぐるを追ふて遂に崔
鄭の兩巨魁を生擒す賊軍震怖日夜遁竄する者
頗る多し全州の妖雲を掃蕩する近日に在り焉
而して是れ全く虛報、却て外人の嗤笑を招くのみ
憐むべし韓廷の所爲

◎用ふるに足らず朝鮮の彈藥 朝鮮の彈藥製造
所は京城を去ること日本里程十一里許の春川と云
へる所に在り去明治四年初めて駿工し爾來製造に
從ひしが昨年四月火災の爲に製造所の要部を失ひ
其再築未だ成らず▣だ▣▣りの一部分にて製造し
其他は舊來の製法による土焰硝なれば到底戰時の
用に立たずといふ

◎京城沒落後 國王殿下の避難所とすべきは大
闕の後ろなる北漢山の山城なるべしと云ふ此山城
は樹木を伐拂ひ岩石を削取り周圍(一里)に堅固な
る障塀を築き用水は後山の溪間に在り宛然▣鉢を
倒にして其上面を穿ち其內に家屋を建築したる如
ぐ頗る要害の地なりと聞く

◎讖言空しからず五百年の亂 紀元千三百九十
二年我が明德三年後小松の朝、李成桂高麗を亡し
同九十七年我が隱永四年朝鮮と改號す實に今を距
る滿五百年前なり然るに李氏の朝五百年にして一
大革變を來すべしとの讖言は久しき以前より好事
家の間に持▣され居りしが今や讖言偶中して東學
黨の亂玆に起り將に一大革變を見んとす亦奇と云
ふべし左に朝鮮初代より第三十世今王に至る(曆
年五百二年)君主の稱號登位の年次等を記し讀者
の參考に供す

▣▣ 先考 登位
太祖▣獻王 子▣▣祿太夫 千三百九十二年
定宗恭靖王 太祖二男 千三百九十八年
太宗恭定王 太祖▣男 千四百年
世宗莊憲王 太宗三男 千四百十八年
文宗恭順王 世宗一男 千四百五十年
端宗恭懿王 文宗一男 千四百五十二年
世祖惠莊王 世宗二男 千四百五十五年
德宗▣▣王 世祖一男 未詳
睿宗襄悼王 世祖二男 千四百六十八年
成宗康靖王 ▣宗二男 千四百六十九年
燕山君 成宗一男 千四百九十四年
中宗恭僖王 成宗二男 千五百五年
仁宗榮靖王 中宗一男 千五百四十四年
明宗恭憲王 中宗二男 千五百四十五年
宣祖昭敬王 中宗九男▣興大院君三男 千五百六十七年
光安君 宣祖三男 千六百八年
仁祖恭良王 宣祖六男 未詳
仁▣▣文王 光安君一男 千六百廿三年
孝宗▣▣王 仁祖二男 千六百四十九年
顯宗彰孝王 孝宗一男 千六百五十九年
肅宗元孝王 顯宗一男 千六百七十四年
景宗宣孝王 肅宗一男 千七百廿年
英宗顯孝王 肅宗四男 千七百廿四年
眞宗孝章王 英宗一男 未詳
正宗莊孝王 英宗二男思悼世子一男 千七百七十六年
純祖成孝王 正宗二男 千八百年
翼宗孝明王 純祖一男 未詳
憲宗哲孝王 英宗一男 千八百三十四年
哲宗英孝王 全溪大院君三男 千八百四十九年

今王 名は熙、字は聖臨、誠軒と號し▣全大院君の二男千八百五
十二年(我が嘉永五年)七月廿五日誕辰、千八百六十三年(我が文
久三年)登位

王妃閔氏 驪城府院君致祿の女千八百五十一年(我が嘉永四年)
五月廿九日誕辰

世子宮 名は拓、君邦と號す宮の妃は閔氏なり

◎朝鮮公使の報告 金朝鮮公使は東學黨の亂に
關する新聞紙の記事評論を飜譯せしめ旣に二回本
國政府に報告したりとの事なり

●釜山よりの輸入貨物 朝鮮事件の火の手は益 す猛烈なり其れが爲め日韓貿易の上に及ぼす影響
大なるべしとは世人の想像する處なれども貨物の
運送上に關しては格別の異變なし卽ち六月十三日
白川丸便にて釜山より當地に輸入せし貨物は左の
如し
白米一千八百四十五叺、玄米七百九十七叺、金塊
三個、布海苔二百七十三個、其他銀杏艸半夏等な

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