6月22日
海龍號の報告 昨十二日仁川に入港したる海龍
號の船長村津國兵衛は左の報を齎したり
本船は過日當港出帆後群山コムソー法聖に至り
し處其地は東學黨近傍まで押し寄せ來りたりと
て暫時の碇泊にて再び群山へ轉錨せしに同處よ
り殆んど三里近邊まで襲ひ來りたりとて總務官
も遁げ來りたる有樣に付き川下五里計の處へ轉
錨したり然るに間もなく白山と云ふ處の戰爭あ
り官軍十名計り東學黨二百名計戰死し官軍の旗
色宜しく同船は群山に引返し米二千俵を搭載し
居る商人もあること故仁川に歸航の筈にて已に
其出帆用意をなしたる折柄陸上より官吏來り出
帆を差止め公文を示して官兵六千忠淸道へ上陸
に付き積載の二千俵は「ヲブン」嶋へ運搬すべき
旨命令なれども海圖にヲブン嶋などなければ水
先なき以上は運搬出來難きを以て水先を請求せ
しに水先なしとのことに付き止むを得ず次航に
運搬することに取計ひ一先づ仁川に歸航したり
云云
招討使の軍兵 東學黨は這般の如き叛旗を擧げ
たりと雖も貧民若くは農民を害することなく唯だ
地方官の貢米を奪ふて進が故は兵糧に事を缺ぐこ
となきのみならず地方甚だ人氣宜しきなり去れば
招討使の軍も之を平ぐるに甚だ困難にして一步を
誤るときは却て不利の位置に立ざるを得ず是に於
てか䠖跙逡巡更に進まず事に托して出來得る限り
進軍の日を猶豫せり我軍艦筑紫は昨十二日航して
群山(仁川より百三十里)に至り戰地より三十里の
所を探檢せり然るに此群山には朝鮮政府より贈り
たる兵器彈藥を搭載せる船數日前より碇泊せり是
れ皆な招討使の軍に供給すべきものなれども招討
使の軍況前記の如くなれば更に引渡の手續に至ら
ず船舶の方にても招討使の意見を聞きたる上なら
では引返さじと互に優長に搆へ居れり而して筑紫
艦は十三日に仁川に歸航したるも夫迄は更に進軍
の報もなく又兵器引渡の事も聞かざりし
東學黨の領袖殺さる 東學黨の總首領は六十許
りの老翁なるが別に一軍每に領袖あるものゝ如し
而して其一部領袖に李氏某(或は傳ふ金氏)あり齡
僅かに十三四暗に▣原事件の天草四郞時貞に擬す
彼は名望ある家系の子弟か然らずんば金滿家の子
なるべし東學黨推して一軍の領袖となせり此者終
に招討使の軍の爲めに殺されたりと云ふ然れども
何處にて又た何時なるか知るに由なし
新納海軍少佐の消息絶え 新納海軍少佐は公使
館附の軍人なるが此程忠淸全羅兩道の巡邏として
書生二名を隨へ西海岸を巡廻し其期已に滿ちて疾
く京城に歸着すべき筈なり然るに未だ何等の報道
に接せず多分途中にて不幸なる命運に接せしなる
べしとて痛心一方ならず
官兵の亡狀、東軍の威嚴 東學黨が其擧動を苟
もせず恩威竝び行ふの事は旣に之を記せしが朝鮮
の官兵は全く之に反し招討軍にまれ泌營兵にまれ
イザ出陣と云ふ時は何れも戰慄號泣し今に命を取
るゝかの如く卑怯未練の行ひありし者が扨て戰地
に出で案外事なきに至りては稍や平氣
となりて本來の地金を現はし豪農富商
の家を襲ふて金錢糧食を掠め剩へ妻女
を捕へて之を辱しむるなど橫暴極りな
きをもて年若き妻、容貌よき娘等を有
する者は潛に之を安全の地に移しつゝ
ありと云ふ故に官兵は嚴命を下して軍糧を徵
發せんとするも敢て應ずる者なし然るに東軍
に對しては徵せられずして之を贈送ずるの有
樣なり左れば若し今後の形勢一變し東軍遂に
意を決して王師に抗敵するに至らば今日怨み
を呑みて据ゑ居る農民等は忽ち鋤鍬を提げて
東軍を援るに至るべしと戰地探檢者の言ふ所