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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
大阪每日新聞 대판매일신문
  • 기사명
    明治27年(1894) 6月 23日
  • 이미지
    prd_0137_044 ~ prd_0137_048 (232 ~ 236쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년 05월 20일
일러두기

6月23日

各國軍艦の根據地 日本軍艦は前報の如く仁川
に碇泊して其數に於て又其勢力に於て各國に冠た
り淸國軍艦は牙山に屯して全羅道の戰地を扼守し
露國軍艦は北面元山津に碇泊して北海の全權を握
らんとせり今や三國鼎立して其間相隔つること遠し
と雖も漸次彼等相近づきつゝあるなり而して其集
合燒點は蓋し京城近傍ならん三箇の異分子相混合
するに當つて結果は雨か霰か將た雪か之を思へば
東學黨の紛擾の如きは實に小の小なるもの

筑紫艦の巡邏 日本軍艦筑紫は一昨十二日仁川 港を出發
して忠淸
道沿海を
巡邏した
り其意聞
くに由な
きも思ふ
に支那軍
艦の全羅
道牙山に
あるもの
或は招討
使の軍を
援けて漸
次北西に
向ひたる
に非ざる
かを確め
んが爲め
にはあら
ざるか又
聞く忠淸
道群山の
沿海には
支那の隻
兵を見ず
唯だ牙山
に野營を
張るのみ
なりと支
那兵の朝
鮮に向ひ
たるは實
に七日に
して牙山に到着以來今日迄逡巡動かず啻だに其目
的たる東學黨征討に出ざるのみならず招討使の軍
をも援くる摸樣なきは實に怪しき素振と云ふべし
彼等の今日まで何等の運動をもなさゞるは蓋し我
兵派遣を聞て浮かと手出しをなすの輕擧なるを悟
り竊かに我兵の運動如何を伺へるものならんか

月尾島(仁川港口)各國軍艦碇泊之圖

東學黨の動靜 東學黨全州を陷るゝや直ちに其
官廳を壞ち合せて此地にある電信局をも打破し 了りたれば全州の通信は玆に全く絶えたり去れば
今や忠淸道の都府甲州より京城に通ずる電線ある
のみにて東學黨戰亂の摸樣は判然せず然るに朝鮮
政府は如何なる意志にや其僅かなる電報すら祕し
て之を公にせず爲めに戰地の摸樣は殆んど全く絶
え往往耳朶に接する處の報は多く舊聞に屬せり去
れど朝鮮政府の祕密は他に漏るゝもの多きが常な
れば亦た之を探知して讀者に報ずるの衛なしとせ
ず故に余は其第一着手段として明日京城に向つて
出發すべし兩三日の後讀者諸君の眼前に或は新奇
の報道を齎すの榮を得べしと信ず

閔泳駿の苦計 日淸の出兵に付朝鮮政府が
大に狼狽したる末、二策を設けて之を試みたる事
は已に報ぜしが泳駿を罪に處するの事は之を行ふ
に至らず唯だ國王に奏して借兵を獨斷したる泳駿
をして撤兵を支那に談判せしむることゝなれり然
れども一旦約したるの事なれば泳駿其出る所を知
らず百方苦慮の折柄、韓曆五月一日招討使より全
州に賊を破り斬獲少なからずとの電報を得たりし
かば是れ幸ひなりと泳駿直に袁世凱に面して大勝
の趣を告げて曰く此くの次第なれば貴兵上陸の
事は見合せられたしと袁氏答へて曰く果して然ら
ば來る初六日を期して上陸を止むべし若し六日ま
でに完營を復することを得ざれば斷然上陸せしむ
べしと泳駿則ち入闕して其旨を告げ是非とも六日
までに復城せざるべからずとて三日の夜を以て竊
に二百の兵丁を增發し招討軍の勢ひを助けしめ又
一方に勝報頻りに到ることを風說し復城近きにあ
るが如く見せかけ暗に外兵の渡來を防がんと力め
たるぞ憫笑の至りなる是れ實に一週間前(今日よ
り十三四日前)の事なりき而して此招討軍より到
着したる大勝の報は東徒を破りしに非ずして

無慘の誤殺 なりしと云ふ則ち東徒は四門
を閉ぢて完營に立籠り招討軍は營の南門に面して
布陣し泌營兵は營の西門に在り其圍み密にして東
徒出るの隙なし此の如くなれば營內の居民は勿論
出る能はざれば一日も安堵する能はず或は城壁を
越えて却て官兵の爲に虐殺せらるゝ者も少なから
ざるより東徒彼等に告げて曰く遁れんと欲する者
は一隊となるべし吾等能く敵陣を打開きて逃路を 與ふべしと居民此言を信じ一隊になりて北門を出
づ東徒之を護衛したりと雖ども官兵の迎擊に逢ひ
居民斃るゝ者無數、東徒應戰したるも勢敵せず退
いて城門を鎖せり玆に於て門外に取殘されたる居
民は官兵の爲め東徒と思ひ違へて大抵打惱され斬
殺捕獲見るも無慘なりしと云ふ此徒東徒は城壁に
登り大呼して曰く我が徒の大巨李福龍(例の童子)
も全祿斗も皆討死せりと官兵之を聞いて全く巨魁
二人を斃したりと思ひ扨てこそ巨魁二人を斬り亂
民數千を捕斬せりとの虛報を發するに至りしなり
と此の如くにして東徒は尙城を守つて銳氣を養ひ
つゝありしに不幸にも風聲鶴唳に驚けり

全州回復 は實に官兵の僥倖なりしなり東徒は
淸兵一萬來り攻め他國の兵相繼いで來らんとの報
を聞き到底守城すべからずと覺悟し姑く全羅道中
最も要害の聞えある茂錦山の深谷に退き時節を待
つに若かずとの計を定め韓曆五月四日の夜に乘じ
竊に城の東方より逃れ出でたり是れ官兵の全州を
恢復するに至りたる所以なれども大戰大勝の結果
に非ず而して此報は韓曆五月八日を以て京城に達
せり然れども

撤兵の事 は如何せしか袁世凱の爲に欺かれた
るか世凱亦我が兵の飛來に逢ふて撤兵する能はざ
るに至りし爲め韓廷の苦計、泳駿の心配は水の泡
となりたり

勞問使下る 招討軍全州を恢復したるに依るか
勞問使は征討軍に左の勅語を傳へたり

傳曰師旅之往役湖南者、旣閱月矣、迨玆暑熱、
道路之跋涉、鋒鏑之冒踏、勞苦之伏、不見是圖、
而連見捷報、其效力可嘉、發遣傳官、勞問、
仍令道臣、犒軍後、狀聞事、分付

露公使の忠告 日淸兩國の出兵あるや佛
英公使の運動も中中活潑なる由なるが露公使は十
二日其公使館より外務督辨の許へ左の意味を以て
忠告書を送れりと云ふ

東徒の擾亂何んぞ恐るゝに足らん均しく是れ貴
國の民ならずや東徒果して城內に襲來し國運を
擾亂することあらん乎他は去來知らず友誼を重
んずる列國は決して傍觀拱手せざる也故らに淸
の兵力を▣みて之を鎭定せんとするに至りては
韓淸兩國の間特に何等私情の存するものと確認
す時未だ後れず假令旣に淸兵の到着したる今日 に在りても之を用ゐずして急速歸國せしむるに
如かず若し夫れ之れをも肯んずることなく妄り
に鎭定の事に當らしめん乎日淸の葛藤は忽ちに
して惹起せん加之我露國に於ても亦た必ず默止
せざる也云云

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