6月26日
朝鮮亂記
京城通信 (第四報)
六月十八日 春山生
日兵入京差止の策 朝鮮政府が日本兵
の入京を止めんとせし事に就て尙ほ詳聞する所を
報ぜんに同政府にては大鳥公使が愈愈兵士を率ゐ
て入京せんとするの報を聞くや俄かに大臣宰相を
集めて評議を凝らし結局其の入京を止むるの策に
出づるの外なしとて外務督辨より其手續を爲さし
むることに一決せり加之支那兵借用の發頭人た
る閔泳駿は若し日本兵にして愈愈入京することゝ
なり京城の人心騷然たらんには政府內外の攻擊は
一に自家の頭上に集まるべきを恐れ其の援兵派出
敎唆人たる淸國駐在官袁世凱と密議を遂げ直ちに
內務協辨リゼンドルを仁川に差遣し逸早くも日本
兵入京のことを止めんことを我が大鳥公使に忠告
せしむることに計畫せり又た國王殿下には憂慮の
餘り閔某を密使として去九日の夜中急行仁川に向
はしめられ同じく日本兵の入京を見合さんことを
大鳥公使に懇請あらせらるべき筈なりしといふ
扨大鳥公使は去九日午後仁川港に到着するや直ち
に上陸して仁川領事館に投じ同夜は同館に一泊せ
しかばリゼンドルは同館に到りしも能勢領事を訪
問したるのみにて大鳥公使には絶えて面會を申込
まさりしは如何にも不審の次第なるがリゼンドル
も當日海軍陸戰隊上陸の狀況を目擊して其熾ん
なるに驚き斯く迄準備せし上は其入京を見合せら
れ度き旨を申込むも到底聞き入るべきの勢ひにも
あらざれば憖ひに入京見合を申込みて拒絶せられ
んよりも其申込を爲さずして現に目擊せし所を至
急報道するこそ最も上策なれと思惟し直ちに歸京
せしなりと云ふリゼンドル已に斯の如し國王殿下
の密使たる閔某は如何と云ふに之れも又た大鳥公
使に面するに至らざりしと云ふ多分途中にて行違
ひとなり面會するを得ざりしならん統理衙門より
外務督辨代理として派遣せし外務協辨李容植は去
十日仁川に向け陸路出發せしに大鳥公使が兵を率
ゐて入京せんと已に梧流洞驛の近傍迄進行し來り
しに會せり李容植は時機少しく遲れたるを以て一
時は踟躊せしに扨已むべきに非らざれば途上に於
て同公使に面し日本兵入京見合の儀を懇請せり其
請ふ所に依れば朝鮮政府は日本兵入京に就て京城
の民心動搖して困難を來さんことを恐る何卒兵士
入京のことは見合せられたしの意にして懇懇陳辯
せしも大鳥公使は之に答へて曰く朝鮮政府自國の
民亂を鎭定する能はず已に支那兵を借りて之れを
靖平せしめんとす東學徒の勢ひ猖獗にして追追京
城に追るの傾きありと云へぼ京城に在る日本人民
保護のこと又た貴政府の保護に任じて安んずる能
はず我が政府が兵士を入京せしむるの本意は日本
居留民保護の上に於て萬已むを得ざるなれば其入
京を中止する能はず然れども朝鮮の民亂全く靖平
に歸し支那兵又た歸國するに至らば日本も永く兵
士を留めざるべしと李協辦意を達する能はざるも
大鳥公使の談話を聞いては敢へて陳辯すべきやう
なきを以て早早歸來せり朝鮮政府が偏に憂慮せし
は日本兵は朝鮮政府を攻擊するに非らざる乎との
一事にして浮說紛紛底止する處を知らず就中其有
力なるものは
日本兵東學黨を援けて朝鮮政府を攻擊するなる
べし日本公使館には大鳥公使の同伴せし朴泳孝
來着し居りたる由なれば日本政府の兵士を入京
せしめしは金玉均の復讐を遂ぐるの目的なり
此等の浮說は韓廷有力者の間に於て一時最も喧傳
せし所なりしも大鳥公使來着の後其談話を聞いて
漸く浮說なるを悟り數日を經るに從ひ消滅せしと
雖ども其驚愕の情は一時頗ぶる非常なりしと云ふ
日兵撤回の申込 大鳥公使去十
日海軍陸戰隊一大隊を引率して入京するの翌十一
日外務督辨趙秉稷は我が日本公使館を訪ふて大鳥
公使に面會し日本兵の撤回を請へり其言ふ所に依
れば全羅道の民亂も一時は中中猖獗なりしも近日
我が招討軍大に勝利を得て已に全州を恢復せし形
勢なれば南道のこと最早憂ふべきなし依て牙山に
上陸せし支那援兵にも戰地に向ふて進行するを見
合せ貰ひたる程なれば日本兵士も早く撤回せられ
たし云云との意なりしかば大鳥公使は前日李協辨
に談話したる要旨を語り尙ほ督辨に答へて曰へら
く東學黨は一種烏合の亂民のみ朝鮮政府にして之
れを鎭撫する能はずして援を支那政府に請ひしは
寧ろ大早計なりと言はざるを得ず我が政府は朝鮮
の獨立を保護するに於ては隣交の誼として盡す可
きのみならず其危急を默過する者に非らず、日本
兵撤回の事も愈民亂靖平に歸したるを認め又支那
兵撤回の▣に至らば敢へて躊躇せざるべきも今日
の勢ひにては直ちに撤回するを得ず云云と其後韓
廷に於ては閔泳煥(吏曹判書)其他の人を屢屢日
本公使館に到らしめ頻りに日本兵撤回のことを懇
請し居ると云ふ
袁世凱と大鳥公使 大鳥公使
は去る十二日を以て袁世凱を訪ひ談話數刻にして
歸館し翌十三日、十五日の兩日は袁世凱日本公使
館に來訪したるが其の談話する處は祕中の祕に屬
し敢へて聞くを得ずと雖ども或る筋の淸國人の話
せる所に據りて其一班を窺ふに蓋し左の如きもの
ならんと云ふ
支那兵も決して京城に入れざる可く且つ牙山の
兵士も引揚ぐ可ければ日本兵も京城を撤回せら
れたし(袁世凱が大鳥公使に談ぜし所)
日本兵士已に入京せしものは貴說に依り暫らく
滯在せしめらるべしと雖ども未だ入京せざるの
兵士は其入京を見合せられなば支那も亦兵士を
京城に入れざるべし(袁が第二回目の談話)
斯る申し込を爲したりとせば大鳥公使果して如何
の確答を爲せし乎事祕密に屬すと雖ども其後仁川
に着せし兵士五千餘名は入京を見合せ居るを以て
察すれば或は何等かの○○あるにはあらざる乎過
日杉村書記官の仁川に赴きしは○○○○○○○○
○○○○○○使命を帶びたりと傳ふ果して然るか
袁世凱の苦心 韓廷が外兵借用の
ことを決行する能はざるや閔泳駿を敎唆して遂に
支那兵の援軍を出さしむるに至りたる袁世凱も今
や殆んど兵士の處置に就て進退谷まり居れりと云
ふ乞ふ少しく其事情を述べん乎
(一)袁世凱が支那兵二千餘人を牙山地方に派遣す
るや未だ全數の兵丁上陸を爲さゞるの間に日本
兵は京城に入れり之れ袁が案外とせし所にして
且つ大鳥公使は斷乎として日本兵は支那兵撤回
するに非らざれば京城を去らざる可きを確答せ
り是れ袁が苦心の一
(二)袁は自國政府に對し出兵派遣の得策なるを懇
請したるに其兵丁を直ちに撤回するは本國政府
に對して申譯の立たざる所あり之袁が苦心の二
(三)牙山に屯營せる支那兵は進んで戰地に向ふ能
はず袁の命に依り空しく牙山地方に野營するの
みにて且つ同地方の人民は追追他方へ逃去るを
以て不便云ふ斗りなく頻りと苦情を袁に訴へ歸
國する乎進軍する乎の二途其一に出でんことを
請求す之れ袁が苦心の三
(四)韓廷は東學黨稍や鎭定の傾きあるを以て支那
兵の進軍を見合せられたき旨懇請して已まず若
し支那兵進軍せば日本兵續續入京すべきの恐れ
あるを以てなり之れ袁が苦心の四
(五)支那兵の派遣せしを以て日本兵も續續入京す
るに至り尙ほ露國も出兵を韓廷に迫るのみなら
ず動もすれば露國政府暗に漁夫の利を占めんと
するの傾きあり(日本支那兩國兵を撤回せしむ
るには我が露兵を入京せしむるの議を主張する
を以て得策とす云云との意を韓廷有力者に吹込
みたる由なれば露は此機を利用して大に信を韓
廷に得んとする者の如し)之れ袁が苦心の五
(六)露國を除くの外佛國、獨國も亦支那兵派遣に
就て苦情を韓廷に申込む之れ袁が苦心の六
援兵派遣以て恩を韓廷に賣り明治十七年以來の失
策を挽回し以て朝鮮政府を左右せんと計畫せしこ
とも日本政府の機敏なる出兵と共に又又失策の種
とならんと李鴻章に對しては申譯なき始末となる
小策士の失態憫察するに餘あり
各國公使の力を借らん
內務協辨リゼンドルは閔泳駿等の爲め忠義を盡さ
んとて目下頻りに各國公使を訪問して運動し居る
由なるが同人の主眼とする所は各國公使の力を借
りて日本支那の兩國兵を撤回せしめんとするに在
りて露國代理公使佛國代理公使等との間には何等
か結托せしと傳ふ露佛が韓廷に出兵を申込みしも
亦た察し難きにあらず
支那兵再び牙山に上陸す 曩きに支那兵千五百
牙山に上陸せりとは去九日我が帝國軍艦筑紫の仁
川に齎らせし報なりしが翌十日再び支那兵の動靜
視察の爲め忠淸道に向ひたる帝國軍艦大和が探知
したる所なりと云ふを聞くに牙山浦より十二哩許
り手前なる防登に支那軍艦一隻(艦名不明)碇泊し
招商局滊船海定、海安の二隻より支那兵千餘人
をボートにて上陸せしめたる由而して其兵士は十
一日より十二日の二日間を以て上陸せしめ終りた
りと云ふ然らば前回の牙山に上陸せし兵士と合す
れば二千名位ひ牙山近傍に上陸せしなり其他の場
所より上陸せしものを加ふるときは二千五六百に
も上りしならん最も我が公使館に達せし報に依れ
ば支那兵は總數二千百人上陸し居れりと云ふ孰れ
か眞なるを知らず
仁川港の碇泊軍艦 目下仁川港碇泊の軍艦は左
の如し
帝國軍艦 松嶋 千代田 高雄 筑紫 赤城
大和 八重山 吉野
米國軍艦 バルチモア(旗艦)
魯國軍艦 コレエツ
佛國軍艦 インコンスタン
英國軍艦 マーキユリー
淸國軍艦 三隻
合計 十五隻
日本郵船會社御用船 兵士五千六百人を搭載し
來りたる日本郵船會社滊船は仙臺丸、酒田丸、田
子の浦丸、近江丸、山城丸の五艘なり