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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
大阪每日新聞 대판매일신문
  • 기사명
    明治28年(1895) 1月 6日
  • 이미지
    prd_0137_111 ~ prd_0137_114 (299 ~ 302쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년 12월 11일
일러두기

1月6日

孝浦の戰 利仁の兵已に解け歸つて白
樂院の兵と合し駐守して夜を經たるに是夜賊酋已
に敬川に至り終夜砲を鳴らし唯唯雷の如し平明錦
江津の船客來り告げて曰く孝浦留陣の兵曉天月に 乘じて江を渡り去り日本の小尉屢屢蹈留るべきを
云ふと雖ども期ありて留るべくもあらず人心恟恟
として訛言百出住民居に安んぜず辰刻賊兵大に至
り孝浦の備なきを知るや無人の境に入るが如し是
に於て官軍の將成夏永外二名孝浦の後嶺最も高き
處に登り俯瞰して砲擊せしかば賊銳少しく挫け乍
ち進み又乍ち退く辰より酉に至り丸飛び烟漲り相
持して未だ決せず時に舒川の郡守急を官軍の先鋒
に告げしかば先鋒急行して之を援け軍勢大に奮ふ
而して官軍の別將洪運爕は孝浦の東北二十里(韓
程)大橋に屯する賊を敗て歸る賊軍大に狼狽し走
て南匪に聚る時に日本の大尉森尾氏亦百餘の兵を
率て本府に至り遙に聲援を爲す是夜賊壘火光相映
じ數十里の間人山人海の如く其數幾萬なるを知ら
ず官軍乃ち軍路を定め洪具所領の兵を分送して牛
金峙を守らしめ二十五日森尾大尉は熊峙に上る時
に賊將日本軍を目掛けて直に攻勢を張る日兵及び
官軍は之を見て盛んに砲擊を爲し同時に咄喊す聲
山谷に振ふ血戰數時死傷甚だ多し賊遂に退て故壘
に屯す其退くや連りに砲を發し進まんと欲するの
勢を示し賊將▣に兵を拾收し登山して去る森尾大
尉之を見て曰く彼も稍亦兵を知る者かと是より賊
勢大に衰へ官軍追擊諸城を回復す賊の丸に中て斃
るもの山谷の間に狼藉たり是役日本兵傷者僅に一
人斥候流丸に當て右▣を傷けたるもの一人官軍の
將李基東最も功勞ありしと云ふ

牛金之師 廿五日の夜賊敗走す官軍四
たび偵騎を發す然も杳然として蹤なし居ること數
日恩津より來るものあり告げて曰く賊兵復た論山
に集り餘黨を招集し竝に援を入據完山の金介男に
乞ひ力を合せて再擧を計ると越えて數日偵騎連り
に報じて曰く賊兵漸く魯城及び公州敬川に向ひ山
に登り米を運び竝に砲臺を設くと此の時營下留る
所の兵僅かに統衛一小隊と經理四小隊とあるのみ
一日先鋒日兵と議し兵を分て三となし一は阪峙に
一は利仁に一は營下に住し二日每に隊を換へて輪
回する手筈となす六日阪峙駐防の具相祖、利仁駐
防の成夏永等竝に報じて曰く賊勢漸く迫り孤軍を
以て分住すべからずと先鋒乃ち兩處の兵を營下に 還り集らしむ然るに利仁の兵未だ陣を回すに及ば
ざる內賊の圍む所となる利仁の地勢たる三面皆山
にして只一面を開きしのみ賊は大▣山上に登り一
時に火を擧げ轉瞬の間に一坐の火城と成す官兵砲
を放つて環り攻め賊を殺す無數官兵も亦た一人を
傷けらる乃ち砲を止むる數刻天暗く雨冷かなるに
乘じて平原の一路より潛かに退却せんとしたるに
平明に及び賊之れを覺る時に日本の大尉森尾氏は
夜に乘じて牛金の最高處に登り留屯し統衛隊官吳
昌成は金鶴洞に經理領官具相祖は陵峙に統衛領官
張容鎭は烽臺に屯す成夏永は利仁より脫し歸りて
牛金に屯す時に白樂院は利仁に在り殿りして未だ
歸らず諸將大に之を憂ひ援を送らんと欲するも防
守緊▣にして兵を分つの邊まあらず然るに白樂院
漸く夜深に至り圍を脫して至るを以て一軍大に喜
び牛金の大蹲峰に屯せしむ營將李基東は周峰(卽
凰凰山の後峰)に屯す賊兵三面より來攻む首尾八
里に亘る常山の蛇の如し之を擊てば則ち孝浦能峙
各處蠢動して直入の勢を作し而して其意常に牛金
を攻むるに在り左れども牛金の守り嚴なるを知る
を以て轉じて周峰に向ふ大蹲の兵擊て之を却け周
峰の兵も亦砲を鳴らして相應す賊乃ち牛金に向て
戰を開きたり官軍の將成夏永獨り其衝に當るも勢
支ふべからず日本兵及び官兵乃ち軍を分て牛金大
蹲の間に至り山脊に羅立し一時齊しく發砲し後ち
身を山脊に隱す賊嶺を踰えんと欲すれば則ち又脊
に登り齊しく發す是の如くするもの四五十次積尸
山間に累累たり賊窘究し退いて對面稍稍遙き岸上
に據り以て山脊の放丸を避く官兵乃ち山を下り小
岡を以て障となし潛伏して發砲し對岸の賊に向ふ
賊乃ち進んで搏んと欲すれば則ち又山脊の丸を畏
れ遂に壘を棄て奔る官兵大呼之を遂ふ其大砲軍器
旗幟六十餘竿を收む時に森尾大尉の經理兵五十人
と追ふて數里に至るも賊は已に遠く逃れて及ばず
是役や官兵士卒各一人を傷くるのみ牛金一面の賊
退くと雖も而も南東に在る諸峰結陣の賊尙ほ屹然
として動かず▣彈丸到らざるの處に在るを以て官
軍と應砲して相守るのみ賊又書を掛けて罵嘲す九
日官軍謀を設け能峙駐防の兵其號衣を脫し巾を以
て頭を包み攀援して登る賊同類と認めて疑はず面 前に至るに及んて驀地に聲を揚げ彈丸雨發す賊乃
ち驚散し大砲及び鉛丸數萬顆を遺棄す各峰據守の
賊亦稍稍散じ去る乃ち防を撤して兵を休め只土兵
に命じて駐守瞭望せしむ李斗璜は黃州より赴援し
たるも賊の已に退くを聞くや利仁に留り犄角の勢
ひを爲すと云ふ

沃川地方の剿賊 巡撫營の草記中先鋒の將李圭
泰の報ずる所を見るに十二月三日敎導所領官李軫
鎬、牒呈內隊官李謙濟兵一隊を率ゐて日兵と靑山
より轉して沃川等の地に向ふ數萬の匪類に逢ひ之
を殺すこと三百名、生擒五十、其內首魁徐道弼等九漢
を砲殺し接司李晩學等三漢を牢に囚へ本陣の三十
八漢は脅かされて加擔したるものなるを以て曉諭
して歸化せしむ奪ふ所の軍物は後患の恐れあるを
以て悉く破碎鎔化したりとあり

東學黨 至る所に殘暴奪掠を恣にし無辜の良
民を賊害せし忠淸道の東學黨は時時其詳況を通
信したるが如く我森尾陸軍大尉の率うる四中隊(
此の四中隊は京城守備隊より三中隊仁川守備隊よ
り一中隊)の天兵の爲め到る所に散散に打惱まさ
れ最早其戰鬪力を失ひ全く全羅道に逃げ込みたり
と云ふ尤も忠淸全羅兩道彼等鼠賊輩已に良民の糧
食を食ひ盡したるにより今日に於ては掠むへき糧
食なく自然消滅の外なかるべしと云ふ

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