1月9日
井上公使の奏議 井上公使の渡
韓するや銳意熱心、朝鮮の獨立を扶植せんとし孜
孜怠る所なく曩には改革の要目二十ケ條を呈し着
着內政の改良を行はんことを勸告したり國王殿下
は之を嘉納したりと雖ども猶王妃一派の掣肘する
所となり井上公使が決して輕擧すべからずと奏言
し置きたるにも拘らず十一月二十八日突如として
內務、法務、工務、農商務の現任四協辨の轉任と
曾て閔氏に親しかりし韓耆東、李建昌、李容植三
人を協辨に新任したること官報に現れたり
玆に於て井上公使は直に書を總理大臣金宏集に贈
りて其勸告に背きしを責め翌廿九日金總理、金外
務、魚度支の三大臣を公使館に招き自分の朝鮮に
不信用なる事、朝鮮の將來望みなき事、改革要目
廿ケ條撤回の事を切言せり然るに三大臣は國王の
爲に辯じ雙方互に論議する所あり越えて三十日に
至り金總理は公使館に來り公使の意見を國王殿下
に奏上したる所、殿下は決して公使の忠言を信用
せざるに非ず二十條の綱目は必要なる者と認め斷
然決行の聖意なれば下附相成らずとの旨を傳へた
り
兎角する內十二月一日とはなりぬ其日の午後井上
公使は國王殿下の御召に依り直に參內したる處、
座には金總理、金外務、李內務、魚度支等の諸大
臣あり公使は此機失ふべからずとて面を正し言を
嚴にし協辨更迭の一事、最早大君主陛下が本使
を信用せざるを證するに餘りありとて公使が朝鮮
の爲め苦衷經營したることも朝鮮國王殿下の裏面
に伏在する一種の勢力の爲に障害され前途望みな
きこと等を侃侃として奏上に及びければ國王殿下
も決して自分の擅斷に出でたるに非ず金總理とも
相談し民間の氣受けをも探りて更迭新任を行ひた
るにて王妃等の干涉に非ることを辯じてけり然れ
ども井上公使は儼乎として動かず更に容を端し奏
上して曰く陛下之を深思せられよ言ふは易く行ふ
は難し終に行はれ難き事は寧ろ初より止むるに若
かず陛下常に改革を稱すれども十五年、十七年、
及び本年七月廿三日は如何、一に陛下の大御心に
出でたる決斷に非ずや而て成績何の見る所ぞ聞く
曾て袁世凱が李鴻章の密旨を受けて貴國に提議す
る所あるや貴國の崇敬する彼が如き者の提議すら
容納せず竊に人を北京に遣り有力なる某親王に賄
賂を贈り以て袁世凱を遠んとし袁世凱亦終に志
を達するを得ざりしと今本使の貴國に於ける袁世
凱の如き勢力ある者に非ず又信用ある者に非ず焉
んぞ其提議の採用せられて而して決行せらるゝを
得んや本使の愚直之を顧みずして敢て提議す徒ら
に世間の嗤笑を招かんのみ今に於て悔ふるも益な
しと雖ども而も事未だ幸に決行に及ばず願くは此
際彼の二十條の要綱▣下附あらんことを乞ふ本
使之より貴國に對する勸
誘の勞を止めんと國王殿下は之れ
を聞召して最と本意なく思ひ貴國の元勳たる卿が
我が▣に盡くすは朕の深く依賴する所、朕の臣民
と共に是非一▣の勞を取られよと申されける由、
然れども井上公使は此の意見一旦の卒爾より出で
たるに非らず千思萬考の結果なりとて押返し奏上
して曰く本使深く貴國の爲し難きを知る本使の力
及ぶ所に非らず陛下決行を仰せらるゝも本使之を
信ぜず今より以後毫末も貴國の內政に容喙せざる
べし陛下宜しく中宮なり大
院君なり閔氏なり東學黨
なり何人にても適當の者
と御謀議遊ばさるベし但
し本使を勸告の勞を辭す
ると同時に貴國政府に貸
す所の東學黨征討兵をも
引揚げ一兵だも貴國の爲
に力を致さゞらしむベし
斯の如くにして若し我國人が東學黨の爲めに殺害
さるゝか將た何等かの事により我邦の利益を損害
せらるゝことあらば貴政府のあらん限りは談判を
試ろみ貴政府の力如何ともする事能はずんば時
宜により問罪の師を差向
くる事もあるベし陛下之れを諒
せられよと聲色益益激し國王殿下は公使の
奏言を無情なりとて日韓兩國
輔車唇齒の關係を說き尙公使の再考を促し且つ何
處までも扶植の勞を取らんことを望ませらる井上
公使玆に至るも猶輕輕しく諾せず更に熱淚を濺い
で奏して曰く陛下決して他を怨むべからず貴國の
衰ふるは貴國自ら招く所にして我が忠告を容れざ
るの結果なり本使何ぞ貴國に無情ならんや本使は
熱誠を以て畢生の力を貴國の國事に盡さんとする
者なり然るに貴國却て之を忌避す本使貴國の弊根
を知らざる者なしと雖ども貴國にして狹量偏見、
本使を以て何か爲にする者の如く思惟して百方之
を遠けんとす本使誰と共にか胸襟を披いて貴國の
內政を議せんやサもあらばあれ本使は本使として
爲すべきの手段あり貴國の內情すら知らざる本使
ならば我 皇帝陛下特に本使を簡派するの要あら
んや本使誠心誠意、熱血を注いで貴國の爲に盡す
所あらんとすれば貴國人中却て益益本使を厭嫌す
る者あり終に暗殺等の手段に出るやも未だ知る可
らず然れども本使は斯くの如きことを恐れて所信
を變ずる者に非ず但御記臆あれ本
使害せらるゝの日を朝鮮
滅亡の日なりとと其威嚴容色、迅
雷の宮中に落ちしかとも思はるゝ有樣にて皆皆靜
まり返つて控へしが金總理何か國王殿下に耳語す
る所あり國王殿下は又もや公使に向て其決意を飜
されんことを望み公使は何處までも斯る難境に功
績を奏する能はざるを言ひ公使の面目にも關すと
て切に辭退し且つ廿條の要綱下附を乞ひ彼此の問
答果てしなかりしが井上公使は終に決心を
飜へし難し最早退出仕らん
別に奏上すべき事なけれ
ばとてヤオヲ起たんとする時國王殿下は强ひて
引留め金總理と共に內政改良を斷行ずベきこと及
び內廷の干涉を受けざるべき事を堅く申され是非
とも大業の補翼を望まれたるに付公使は金總理に
向ひ諸大臣とても善く內心に顧みられよ此改革が
果して圓滿に行はるゝと思ふか自ら三省して他を
忖度せられよと言ひしかば金總理は閣下の言御尤
千萬なり然れども予一旦決心す肉を殺ぎ血を流す
も辭せざらんとす此志を憐察して以て御助力を
乞ふと答へ夫より公使は朝鮮君心間の虛禮惡習慣
等を說き國王殿下も諫官の嚴正なりし昔時を語り
出で共に今日の弊風を慨し玉ひなどして最と殘り
惜げに別れたりとなん是より國王大
臣臍の緖を堅め井上公使
亦全幅の力を注いで翼贊
する事になれりと云ふ是れ則ち改
革の端緖なり
閔族の所在と王妃の使者 閔泳駿は閔泳純と共
に北京若くは天津地方に在りとの事にて王妃は金
宗源、玄興澤兩名を使者として砂金衣類等を贈ら
んとしたるに兩使は發途前政府の爲に捕へられた
りと云ふ尙閔炯植、閔丙奭等は忠淸道忠州近傍に
在りとの事なり