1月12日
東學黨の亂は一美人に起因す 朝鮮の東
學黨は例年春夏の交に蜂起し其口實とする處は朝
鮮の無事太平を計には西洋人と日本人とを退去せ
しむるにあり畢竟朝鮮人民の困むは全く洋和の輩
が奸計を逞して民の膏血を校に外ならずと喝道し
て徒黨を職業するを常とせしに昨明治廿七年の春
蜂起して遂に暗澹たる妖雲東洋の全局面を掩ふの
今日あるに至らしめたる東學黨は不思議にも洋和
排斥は第二として第一に國家の奸惡を誅鋤すべし
と叫び當時の權勢家閔族を憎む事甚しく却て日本
人などは頗る親密の觀を呈し現に田中某氏の如き
は其一人に加はりたりとの噂さへありしは世人の
知る所なるが何故に昨年の東學黨に限りかゝる豹
變をなせしやは誰知る者もなかりしに昨今に至り
てはじめて其原因は全く一美人より起りたるもの
なる事明白となれり其仔細如何にと尋ぬるに當國
京城を距る三十里ばかり忠淸道の片田舍に閔成圭
と云へる人あり掌中の珠とも見るべき娘一人芳紀
を問へば靑春二九眉に打烟むる柳句やかに唇にほ
ほ笑む花鮮やかなりこれ此絶世の佳人として許さ
れたる艶名かくれなくいつしかに時の大宰相閔泳
駿の耳に入り左らば召せとて直に成圭親子を呼寄
せたるに正しく聞きしにまさる妖顔に心も醉はん
ばかり權威を嵩に有無を云はせず娘を容れて妾と
せんとしたるが此國の俗として同姓相娶るを非常
の恥辱とすれば成圭はにべもなく謝絶して其意に
應ぜざりしが暴惡殘暴の泳駿如何で其まゝに宥す
べきや足を揚げて其場に成圭を蹴倒し娘を擁して
强て枕席に侍せしめたり最愛の娘をかく情なき境
遇に陷れたる成圭の怨恨殆ど骨髓に徹し如何にも
して此恨みを晴らさんものと終に策を設けて泳駿
の毒手より娘を奪ひかへしたるは昨二十七年の三
月頃なりしが追手のかゝらん事を怖れて道なき道
を踏分けさやぐ木の葉の音にも肝を寒やし南漢山
を越え忠淸道に赴かんとする折に非常の困難に遭
遇しほとほと凍餓の苦境に陷りたるを助けし人は
老谷洞の延永達と云ふ者にて親子をわが家に伴な
ひかへり泳駿の非道親子の不運これを見あれを聞
くにつけ憤慨の念禁じ難くやがて此人巨魁となり
漢廷君側の惡を淸めんと聲言して徒黨を嘯集した
れば扨こそ昨年の東學黨が奸を▣くと第一に呼號
したる次第なれ此折はたゞの一個人に過ぎざる延
永達は畢竟一時の情に激されて其宣言を立派には
したるものゝ元來一個の無賴漢に過ぎざればやが
て恩を衣せて窈窕花の如き佳人を妾となし寵愛斜
めならざれども其親の成圭を遇する事奴隷よりも
酷しく忍ぶべからざる殘暴を加ふる事度重なり
たるが此時はこれ東學黨が八道を震撼して果はわ
が軍の出征を見るに至れる時なりしかば成圭は隙
をうかゞひ延永達の陣を脫し日本の兵營に投じ隊
長田中中尉に面し具さに自己の經歷を述べ倂せて
娘を助け出されん事を懇請し此請願にして聞かれ
なば賊將延永達の潛伏所へ案內せんと申出でたれ
ば中尉はこれを諾し直に兵を送りて利川の賊巢を
衝かしめ難なく巨魁十數人を擒にし永達をも引立
てかへり直に刑に行はれたり此時賊中より救ひ出
されたる佳人は親成圭と共に日本兵營內に保護さ
れつゝありしに美人多くは淫なるの譬に洩れずや
がて日本兵營中の通辨漢人某と▣を踰え香を偸み
て人知らぬ快樂に耽る事を聞きて中尉は大に怒り
かゝる恥を知らぬ者を養ふて何にせん何れへなり
とも立去れとて親子竝に通辯ともども放逐したる
は四五日前の事なりしと田中中尉の直話なり美人
末路の憐むべきは暫らく置き兎にもかくにも此一
婦人の事東學黨蜂起の一因となりたるは實に悲む
べき事ならずや