1月26日
東學黨 全羅の東學黨は已に敗滅に歸せんとし
最早鼠賊の再燃もなきかと思ひの外又もや黃海道
の一隅、黃州附近に蜂起したり依て我京城守備隊
より半中隊と巡査十六名、韓兵五十名右討伐の爲
め昨十五日發途せり
韓王大に租稅を免ず 東學黨大
に劫掠を行ふてより良民の其害を受くるもの夥し
く父子相見ず兄弟妻子離散するの慘況を呈したり
依て韓王大に租稅を免じ本日官報を以て左の
通り告示したり
總理大臣謹んで奏す 向きに關西の宣諭使趙熙
一の狀請に依り亂を經たるの諸邑に於ける今明
年の公納錢中十五萬兩を許除せられたり今伏し
て平安監司金晩植の狀本を見るに「前下の處分
の爲めに居民實に感頌萬萬に堪へざる色あり然
るに此の免稅の外今年の未納錢十九萬一百五十
六兩一錢明春に納上すべき筈なりと云ふ然れど
も七月以前臣(金晩植)交任するの際前の道臣在
任の時民之を捧げたるの數を臣に傳授せず又文
書の査探すべきなし要するに各邑未だ收めざる
の數は只八萬五千餘兩に過ぎず先の道臣の引繼
ぎは蓋し信憑する所なし依て上陳の十九萬一百
五十六兩一錢は特に全數蕩盡したる者と見做し
又其各邑より收むべき八萬五千餘兩は貧富を酌
量して之を施與し以て兆民の望みに副はん一と
あり臣此の上陳を見熟ら惟みるに關西の劫掠殊
に甚しく民捧げんとするも公錢なし宜しく之を
許して亂後の生靈をして還集して業に安んぜし
むる如何
韓王之を許す
又總理大臣、內務大臣、度支大臣奏す 湖西の慰 韓王之を許す
此好漢瞑すべし 東學黨の强迫に逢ひ其猛
撫使朴齊寬の上陳に依れば則ち匪擾の爲め蕩殘
せられたるもの邑として然らざるなし其中槐山
の一郡最も甚しと爲す向きには錢一萬兩を下し
本道監より分給せられ民情胥て悅べり且つ先に
本道監より分給せられ民情胥て悅べり且つ先に
該邑の倉穀一百石を發して分賑せられたる後、
屋舍悉く破損せられたるも民に修繕の力なし
蓋し燃燒に逢ひし戶數五百戶となす今每戶五間
を以て度とすれば則ち工役の費錢一萬八千七百
五十兩と擬議するを得べし而して該邑の反別總
計一千三百結あり今若し當年の租稅を折半蕩滅
して之を貸與し以て家屋修繕の資となし其不足
の分は豫て公舍修繕の費中より支出して修理を
加へしめ且つ發賑して米一百石を還し二年間は
總て其儘に据ゑ置き而る後取立つる事とせは可
ならん云云となり臣等惟みるに右撫使の陳ずる
所寔に矜悶と爲す依て右上陳の次第に基づき
許施を爲し各邑をして籌劃宜しきを得せしめ難
民をして各各結構尊接の地を得せしめば何如
威を恐れ雷同附和して勢援を爲したるもの滔滔皆
然るに獨り毅然として其節を守り遂に賊難に罹り
忠死を遂げたる好漢あり前の瑞山郡守朴錠基則ち
是なり氏は先に東賊の難に逢ひ毫も避けず手づか
ら諸賊を斬り四五丸に中るも顔色變ぜず罵て口を
絶たず終に潔き死を遂げたり韓王之を聞き大に哀
み本日「義膽烈魂有足風勵一時」と賞して軍務參議
を贈らる嗚呼此の好漢以て地下に瞑すべし