虎棲める智異山の靈境
美人の仙容、猶ほ髣髴として遙かに一行の眸中に腕映せる間に、酒壺は旣に業に呑
み盡したるも、好飮者獨り之を捨つるに忍びざる情あるものゝ如く、依然として壺
底の餘滴を嘗め、舌皷を鳴らして悅び居れり、醉來快然、一行の勇氣益益發動して脚
力益益盛なり。旣にして地は次第に全羅の分水嶺に近づきで一步は漸漸一步よ
り高きを覺ゆ、道の左傍に一條の急湍あり、波浪滔滔天際より湧き來つて、逆まに東
南に向つて流れ、水聲騷然長夜の雨の如し、湍を隔てゝ一帶の山脈あり、連峯長く、南
北に延亘し、所所奇岩怪岩の峻立して天を磨せんとするもの恰も是れ虎躍り龍飛
ぶの勢あり、更に半腹を望めば、雨霧烟の如く纏結して搖曳し、山色凄然、怒るが如く
愁ふるが如き中、一道の靈氣、颯として四邊に逬るを見る、所謂る朝鮮八名山の隨一
虎の棲むてふ全羅の智異山とは卽ち是れ也。智異の名は固より山と共に天下に
高し嚮きには關屋斧太郞、其與人と共に一度び此山中を跋涉し、其各奄寺を尋訪し
美尼が己の兒女を養育するを見るに及んで、卒然大驚、深く敎園の荒廢を歎じたる
ことあり、顧ふに時代遷移して靈境化俗し、古道亦漸く湮滅に歸するを免れざる歟
一行山に對し、今古を俯仰して感慨太だ多し