征倭大總督の碑を粉碎せんとす
雲峰縣官の一行を歡迎せるは、顧ふに是れ敬遠主義を用ゐて鄕邑の無事を計れる
ものなるべし、彼等は詳く一行の沿道を破壤し來れる實情を知る然れども高原の
士民は由來天資極めて健剛なり、必ずしも逸を以て一行の勞を邀擊し得ざる迄に
臆病ならず、彼等は日後に於て能く五十六州を席卷し來れる東學黨の大軍を打破
せり、何如んぞ少數の一行に對し、避易して戰を交へ得ざる事あらんや、彼等が當時
敬遠主義を取るに至りたるは、誠に一行に對する天佑と稱せざるべからず、一行は
固より彼等を破つて容易に血路を開くを得べし、去れど之が爲めに蒙むる所の前
程の障害は恐く一行をして竟に其建功の期日を誤らしめしならん、雲峰に事なか
りしは卽ち一行の前途に希望洋洋たるを證する者なり。一行の想像は斯の如し
而して其次日、七月六日の早朝を以て相祝して南原府に向ふ、行くこと殆ど里許、忽
ちにして女院峴に至る、坂路極めて嶮惡、急斜直下して一里の餘に及べり、其行步の
困難なる、日前曾て斯の如きを見ずと云ふ、坂路の將に盡んとする所右側四五丈に
餘れる大怪岩上に題せる大朱字あり、征倭都督何某と深刻す、行中の數人之を見て
圖らず其脚を留めたり、皆云ふ、曩時吾同人は釜山永嘉臺の題詠重關呑日正東開の
詩句に就て、其兵馬節度使を詰責し、次で水營に於て太閤、淸正、行長、の磔刑せる三石
像に對して其水軍統制使を辯難せることあり、蠻人を畏服せしむると否とは其機
實に微妙の邊より發す、吾黨何如ぞ此征倭の二字を見脫がすを得ん、乞ふ且つダイ
ナマイトを以て之を紛碎し去らんと。是に於て大聲馬夫を呼ぶもの十數回、馬夫
終に至らず、蓋し此日馱馬最も進んで先頭に在り、之を追ふも竟に及ぶこと無き也、
嗚呼遺憾、征倭の二字夫れ何の日か磨滅するを得ん、之を恨むもの豈に獨り天佑俠
のみならんや