明德淨几
東學黨視察日記
海浦篤彌
▣なれは則ち變す天下の事物皆然らさるはなし
▣し夫れ時到り時機熟せは蟻穴も尙ほ且つ大堤
を決す其勢ひ遂に支ふ可らさるなり陳▣呼一呼
して秦國亂繼くに亡を以てする所以のもの何そ
▣く怪むに足らんや顧みれは朝鮮の國た▣政綱
上に紊れ民心下に離れ極衰極亡の▣ひ業に已に
成る宜哉道▣一たび義を古阜地方に唱ふるや上
下此れか爲めに周章狼狽し忽ちにして淸兵來り
忽ちにして日兵來る機一たび動けば將さに八道
の山河をして硝煙彈雨の裏に埋沒し去らんとす
此時に當りて道徒の一擧手一投足其▣する所至
大至重道徒の動靜豈に忽諸に▣す可んや是れ余
か自ら計らす敢て道徒視▣の在を受けて辭せさ
る所以なり
▣らず目下道徒の▣伏する所果して何れの處處
忠淸道淸州報恩の地古▣道徒衆しと▣く此地一
たび過ぐれは或は道徒の消息を知るの端あらん
而して後ち全羅道の東西南北を締斷▣絶せは庶
幾くは道徒の動靜を知悉するに足らん乎然らは
則ち豫め覺悟せざる可らさる▣あり曰く旅費の
缺乏曰く途▣の疾病曰く意外の災難是れなり
余か友近藤君賢吉醫士にして且つ劍客是れ余か
意中を語り强て君か同行を需めたる所以なり山
縣氏猪之助は永く近藤君の藥局に在り少しく朝
鮮語を解す一方に於て藥劑の調合をなさしめ他
方に於て寒暄の通舌をなさしめんが爲め又氏を
拉したり
七月初五拂曉藥籠を馬に馱し刀劍を肩に荷ひ三人
相携へて漢城を發し十一時四十分果川に着す果川
を去る半里淸人四名馬に乘りて來るに遇ふ其內二
名各銃刀二柄を携ふ想ふに牙山營より使命を帶ひ
て漢城に赴くものならんか午後一時四十分果川を
發し五時三十分水原に着し宿舍に投す
初六日朝六時三十分水原を發す未た▣程ならず▣か
騎兵六騎に邂逅す曰く昨七原より到ると曰く淸兵
天安に在りとの說あり未た信すへからすと曰く淸
兵上京の消息得て知るへからすと想ふに斥候たる
もの斯の如くにして可なる可きか七原と天安と
相去る甚た遠からず而かも此れを是れ確むる能は
ずして漫然歸途に就く抑抑何の心▣や余竊かに惑
ふ午後二時三十分振威に着し宋書房の宅に投宿す
淸兵天安にありとの說ありと雖亦未た信を措くに
足らず此日馬の雇ふへきものなく未明より東奔西
走して漸く之を得馱賃平日に三倍す
初七日午前五時二十分振威を發す淸兵の徵發に依
り牛馬の雇ふべきものなし卽ち荷夫一名を雇ふて
行く七原「ソーセー」を經間路を取り稷山の左側に
出て馬日の嶮峴を越に午後八時二十分木川を去る
半里程の處に宿す蓋し此の間道を取りたる所以の
ものは一は淸兵の會合を避け一は道程の近きを求
めたるものなり天熱し路險し擔夫進む能はず途中
更に擔夫壹名を雇ふ當日の艱想ひ見る可きなり
初八日午前四時五十分擔夫二名を雇ひ宿舍を發し
て木川に抵る韓人の蝟集するもの始めて問ふに漢
城騷亂の事を以てす且つ始めて招討使の傳令酒幕
壁上に貼付するを認めたり然れども問ふに道徒の
とを以てすれば皆な知らざるを以て答ふるのみ近
午滿天墨を撥して雨至る雨を冒して行く雨勢愈愈
甚し全身溺るるが如く泥中轉するもの屢次尙ほ勇
を鼓し擔夫を呵し午後四時錦江の支流東津江を涉
りて而して宿す水深く臍に到らざる僅かに三寸
初九日雨少しく霽る午前七時三十分宿舍を發し十
一時三十分淸洲に着す安着の報をなさんと欲して電
信局に到る線斷て果さす此行三人共に徒步し間間
藥を鬻て橫利を得ると雖とも途中人馬の賃銀日常
に三倍せしより囊中稍稍空乏を告ぐ此に於て余は
政廳に赴き吏員に迫り漸く銀貨五金を交換せしむ
道徒の動靜を探る終に得可らす只招討使の傳令到
る處に貼付するを見るのみ
初十日午前七時始めて漸く馬二頭を雇ひ淸洲を發
す峻嶺險▣層層疊疊相送りて相迎ふ午後六時報恩
に着し朴書房の宅に投す此日偶偶馬を雇ふて乘る
こと能はず三人相顧みて失笑す想ふに客年道徒此
地より起りて俗離山に據ると云ふ俗離山は此地を
去る僅がに三里偵察の方其宜きを得は或は道徒の
一斑を知悉するに足らんか願みれは余等漢城より
此地に至るの間一に藥商を以て名をなす若かす此
より日本道士と稱するに果せる哉韓人の相集まる
者竊かに告ぐるに東學先生の居處を以てす先生姓
は朴名は元七五南に住すと五南は報恩を去る僅か
に三里
十一日午前十時余導夫壹名を拉し朴元七を五南に
訪ふ至れは則ち壁墜ち窓壞れ主人旣に去て在らす
低回稍稍之を久ふす市民に就て其去處を問ふ皆知
らさるを以てす或は云ふ靑山に去ると未た信すへ
からす靑山は五南を去る二里乃ち匆匆日淸兵の來
意を書し倂せて道學諸士に通せんことを托して歸
る失望想ふへし此夜報恩を去る二里の處に東學先
生黃河一なるものあるを問く又稍稍意を强ふす
十二日午前七時余又導夫を拉し山を越にて黃河一
を訪ふ家門亦已に閉つ市人に就き密かに其轉住處
を探る至れは主人外に出てて在らす行く處を知ら
すと想ふに道徒の逮捕令所所の壁上に貼して飜飜
たり道徒中少しく名ある者皆な禍を怖れて難を避
くるものならんか導夫の語る所を聞けは此地邊周
擧て皆な東學徒のみ曩きに全羅道の道徒に共通し
たる者一旦歸村したるものありと雖とも逮捕令の
嚴なるより再ひ全羅道に向て去る如今家に在るも
の素と與に事を共にしたるものにあらず故に生に
聊じて業を營むのみ公若し相逢ふて相語らんとす
るも恐くは難からんど乃ち空しく歸る此日俗離山
に上らんとするの議あり其效なきを以て止む直ち
に全羅道に赴かんと欲し午後二時三十分報恩を發し
行くこと凡そ三里許「タードン」酒幕に投宿す
十三日午前五時宿舍を發し十一時沃川に着す擔夫
足痛み步む能はす官廳に乞ふて擔夫二名を雇ひ山
岳を踏むて全羅道に入り珍山を去る一里「ヨカン
ウオル」酒幕に投す時に午後八時三十分招討使巡邊
使の傳令到る處に貼付す道徒の動靜尙ほ且つ知悉
す或は云ふ全羅道の東南順天に屯集すと
十四日午前四時十分「ヨカンウオル」を發し午後
八時高山營內「サンクヂヨン」酒幕に宿す抑も路を
東南に取らずして却て故らに西南に向ひたる所以
のものは一は全州に入りて道徒の消息を探り一は
旅費の調達をなさんが爲めなり此日葉聶等が發せ
し所の令文所所に貼付するを▣む
十五日午前四時「サンクヂヨン」を發し十一時三十分
全州に着す將さに東門より入らんとす沁營の兵士
二十余名門戶を衛り余等の行路を遮りて曰く異邦
人の全州に入らんとするものあらは直ちに之を監
營に通すへしとの命あり暫時此處に休憩せられん
ことを乞ふと言辭極めて叮嚀卽ち待つを一時有余
旣にして旗手來り問ふに公文を携ふるや否やを以
てす余示すに路照を以てす彼れ字を解せす直ちに
首頷して余等を導き一客舍に送る旣にして又公文
を監營に示さんことを求む路照法式に合はす余竊
かに之を危み辭を授けて山縣氏を遣はす氏旗手と
共に歸り報して曰く外務衙門發する所の公文を携
帶するものにあらされは門內に出入するを許さす
と速かに門外に出らんことを勸む余百方辭柄を設
けて旗手を諭す旗手責の已れに及はんことを訴へ
て止ます余其爭ふの却て非なるを察し卽ち門を出
て行くこと壹里餘藪亭里張斗植の宅に宿す當時の
落膽眞に想見すへきなり斗植は藥を賣る者余等同
業の故を以て相親む竊かに道徒の消息を問ふ彼れ
聲を小にし語て曰く道徒の首魁姓は全名は明叔古
阜に生れ全州に住し才德兼備る全州の戰遁れて目
下全州以南に在りと云ふ其餘黨如今金溝に集ると
の說あり金溝に赴かは略ほ其確報を得る易らんと
金溝は此地を去る三里余等此に於て意氣稍稍振ふ
然れとも錢文全く盡く則ち斗植をして斡旋の勞を
取らしめ携ふる所の寒冷紗及剩す所の銀貨を售り
漸く征途の費金を調ふ
十六日群山に赴くを以て名となし辛ふして擔夫二
名を履ひ午前八時藪亭里を發し行くこと一里金溝
を過りて群山に向はんと欲し擔夫を諭して金溝に
向はしむ擔夫道を誤り午後五時六里程を步行して
漸く金溝に着す金溝を去る拾余町空屋軒を竝べ人
影寂として聲なし擔夫魂頻りに悸れ余等心竊かに
喜ぶ金溝に至れば果して䭾況常ならす縣監難を全
州に避け民人跡を四方に藏め空屋累累其市民の僅
かに在る者皆戰戰兢兢或は誤て憐を余等に乞ふも
のあり食を求むれとも飮食店なし宿を尋ぬれとも
旅籠屋なし其故を問へは則ち云ふ曩日道人三名殺
さる何者の爲す所を知らす道人大に之を憤り縣監
に追りて其死骸の引渡を請求せんとし不日大擧し
て此地に至るの說あり狀況故に斯の如しと▣して
道徒の會する所を問へは則ち此地より二三里の處
にありと日將さに暮れんとす足又甚た疲る旅宿を
求むるに如かすと乃ち土民を慰藉し且つ勸誘して
以て此地より二拾余丁豪農張榮昌の家に到り一泊
を乞ふ主人之を諾す遂に此家に宿す道徒の此地を
過くるもの槪ぬ此家に來り寢食をなして而して去
ると云ふ此を以て倉廩甚た豐かなりと雖も道徒毫
も危害を却へす謂つ可し多幸の人と性溫厚余等を
遇する殆んと至らさる所なし顧みれは余等二拾有
余日の間且つ食み且つ飮ふこと一日每に三回に下
らす其甘臭每に亦同しからす然れとも未た榮昌が
饗せし所の酒食の味美なるが如きあらず今に至て
尙ほ牙頰の香しきを覺ゆるのみ此夜榮昌と語り大
都所全明叔玉果に在り其餘黨此地を去る二里院坪
に在ることを聞く知る可し此夜余等が夢る所果し
て如何なることを
十七日故らに盛裝美服し午前八時眉を開て張氏の
宅を辭し腕な扼して院坪の地に向ふ行くこと二里
近午院坪に着す黃巾を頭に卷き火繩銃を肩にし來
る者に遇ふ余招て之を呼ひ都所の居る處を問ふ彼
喜て余等を導き行く路傍一小阜あり松樹蔭をなす
黃巾を纏ふ者紫巾を纏ふ者綠巾を纏ふ者大凡四五
十人皆な火繩銃を携へて左右に相錯綜す銃巾を纏
携せさる者又大凡百二三十余人前後に相往復す余
等一行到れは道路自ら開く其一段高き處に上り三
人傲然として中央に相鼎坐す先つ問ふに都所の誰
なるやを以てす傍ら人あり答て曰く都所は則ち彼
れと我のみ余乃ち筆を執りて書して曰く公等且ら
く座せ余等告くる所ありて千里を遠とせすして至
ると且つ命して左右を退けしむ彼唯唯命の如くす
旣にして余問ふに日淸兵の朝鮮に來る所以の意を
知るや否やを以てす彼等善く文字に熟せす躊躇し
て答へす余乃ち告けて曰く淸國夙に貴國を亡滅し
國王を廢黜して以て淸の一省となさんとするの意
あり公等一たび義を古阜地方に擧くるや以爲らく
此機乘すへしと袁統理世凱密かに閔惠堂泳駿を勸
誘威嚇して援兵を淸國に乞はしむ淸兵の來る實に
一は公等を殄殺し一は貴國を亡滅せんとするの意
に外ならす我國旣に公等の義擧を贊助し早く淸國
の野心を攪破す兄弟相援け唇齒相依るの故を以て
神兵數萬を漢城に送る蓋し公等と同心戮力一は以
て內政の釐革をなし一は以て外敵の討伐をなさん
とするのみ想ふに公等の意如何公等旣に輔國安民
を以て旗を樹つ知らす公等何を以て此に處せんと
するか彼漸く筆を執りて答へて曰く鄙等の此處に
會する所以のもの素と輔國安民の故のみ然れとも
事の大小輕重に論なく皆な大都所の命に是れ從ふ
公等若し告け且つ計る所あらば願くは大都所に逢
ふて而して之を語れと卽ち大都所の居る處を問ふ
卽今玉果に在りと云ふと雖も日日居處一ならず途
次市民に就て之を聞かば卽ち知ることを得べしと
彼等余の告くる所に對し一一答をなさずと雖も理
に服し義に感するの色現はれて彼等對語の中に在
り彼等とは何人▣趙元執及金允浩年齒共に未た四
十に至らす彼等は所謂金溝會所の都所卽ち統領に
して其他都察某省察某一砲某二砲某なるものあり
兵員一千人是れ金溝會所が統率する所なりと云ふ
擔夫四方より米麥を運び至る是れ徵發に係るもの
ならんか俵數凡そ三拾有余余等此れより南玉果に
赴かんとするの議に決し先つ午餐を喫せんとす都
所令を傳へ二三子をして余等を飮食店に導かしむ
食終るの後趙都所來りて送別の辭をなし午後二時
道人十余名に送られて院坪を出て七時泰仁を過き
一里「トクパツクリ」酒幕に投す
十八日午前五時「トクパックリ」を發して潭陽に向
ふ蓋し大都所光州に在りとの說あり潭陽に到らは
庶幾くは其實を確むるに足らんと途次道徒二十余
名昨和順を發し古阜に歸るものに遇ふ就て其故を
問ふ彼等曰く大都所の命によりて歸村するものな
りと命とは何そや曰く如今用ゆる處なし姑らく鄕
里に歸て定業を務めよ若し其用あらは更らに令を
傳ふへしと而して彼等の余等に對する極めて懇切
何故たるを解せす午後八時潭陽に着す泰仁より潭
陽に至るの間村落相續く而して土民槪ね道人たら
さるはなし「非道人不許入此門」の標札を門頭に
揭くるもの兩三家あり余等就て大都所の居處を問
且つ告くるに日淸兵の來意を以てす
十九日午前八時潭陽を發す大都所光州より去て南
平に在りと云ふ午後三時二十五分光州に着し拱北門
外を過きて南平に向ふ道徒の往來冠蓋相望む其往
くものは一は令を潭陽金溝に傳ふるもの一は故鄕
に歸りて農事を務むるもの其來るものは或は羅州
地方より或は和順地方より新に來りて大都所の護
衛をなすものなり午後八時二十分南平に着す聞く正
午大都所此地を去りて綾州に向ふと日已に暮て途
甚た近からす旅宿を求むれとも飯米なし卽ち道徒
に乞ふて之れか斡旋をなさしむるに加かすと道徒
相會する所に至れは何そ圖らん彼等は官廟を占領
して彼等の營所に充てんとは其會するもの凡そ二
百余名明朝綾州に向て去ると卽ち告くるに旅宿な
きを以てす彼等は喜て周旋の勞を取り酒饌を饗し
客室を與へ明朝同行を約して寢に就く
二十日午前九時道徒等と共に南平を發し午後一時
綾州に着す大都所果して綾州に在り官廳を以て本
營に充て人馬相絡繹す白木綿の幔幕は門外を圍み
令字縫付の旗幟を庭上に樹て威儀頗る隆なり卽ち
刺を通して面會を大都所に求む直ちに余等に與ふ
るに客室一間を以てす少焉して彼れより紙箋を贈
りて曰く
意はさうき貴國諸位大人陋地に稅す未た知らす
何に緣て遠路跋涉す之れか爲め代て良苦を問ふ
幸に憊なきや否や
余此が答をなして曰く
伏して貴問を受く感悚交交至る鄙等山を踰え水
を涉り千里を遠とせすして來る所以のものは卽
ち實に大都所全道士明叔先生に謁し少しく▣を
乞はんと欲するのみ
彼又書箋を贈りて曰く
全州接戰の際全大人丸に中る今は則ち嶺外の地
に在りて傷を治す曩きに貴國十四大人に向つて
贈問の時靈岩地居住金奉均等承答す
當時余竊かに思らく全明叔綾州に在りとのこと獨
り沿道の土民之を言ふのみならす綾州に在る所の
道徒皆な之を言ふ然り而して其答ふる所斯の如し
想ふに少しく戒心する所あらんか且つ十四大人と
は果して何人なるや漢城出發の際少しく聞く所あ
り必らすや當さに釜山より新に來るの人人ならん
余乃ち答へて曰く
全大人嶺外の地に在り識荊の榮を得る能はす遺
憾焉れより大なるはなし惟ふに貴所必らす當さ
に統領其人ある可し若し統領に謁するを得は幸
甚
少間ありて四五人の從者を伴ひ余等の前に進み來
るものあり年齒凡そ三十八九風采衆に卓越す彼れ
筆を執りて書して曰く
公等千里を遠とせすして來る知らす何を以て鄙
等に敎へんとするか願くは其詳かなるを聞くを
得ん
余先つ問ふに何人なるやを以てす答へて曰く金奉
均余乃ち書して曰く
伏して惟ふに大祖大王至聖明德允に文允に武命
を皇天に受け鼎を漢城に定む世世代代王子王孫
相嗣き玆に五百有余載其間世に盛衰あり時に隆
替ありと雖政紀紊亂して吏紙錢を貪り聚斂劇甚
にして民塗炭に苦む未た今日より甚しきはあら
さるなり夫れ天下は天下の天下なり一人の天下
にあらさるなり閔族久しく外戚の威を恃み永く
政權の柄を握り社稷の存亡を慮らす闔族の盛衰
を是れ憂ふ民人の日に疲弊するを顧みす私廩の
月に豐富ならさるを足れ患ふ賄賂上に行はれ盜
賊下に起る國家の亡びさるもの抑も幸のみ公等
深く玆に慨する所あり天に代りて一たび輔國安
民の義旗を古阜地方に樹つるや獨り貴國生民の
簟食壺漿して之れを迎ふるのみならす世界萬國
皆な之を欽仰す就中弊邦朝野と貴賤とに論なく
國民擧て之を謳歌翼贊して措かざるなり但夫れ
淸國獨り然らず夙に朝鮮の國勢を弱めんことを
是れ計る若し夫れ一旦風雲相會するの時あらは
卽ち將さに朝鮮を亡滅し國王を廢黜し朝鮮をし
て淸國の一省となし李中堂の義子李經芳を遣は
して其總督となさんとするの志あり以爲らく此
機乘すへしと李中堂密かに意を袁世凱に傳ふ袁
世凱李中堂い意を承け暗に奸臣閔惠堂泳駿と結
ひ泳駿をして遂に援兵を淸國に乞はしむ淸國宿
志の將さに成るに垂んとするを喜び猝かに兵士
三千餘名を牙山に送る此時に當り貴國の存亡機
一髮の間に在り弊邦素と義勇を以て天下に鳴る
況んや亦隣邦の他國に呑噬せらるるを視るに忍
ひんや卽ち直ちに神兵三萬餘を貴國に送る漢城
龍山揚華鎭萬里倉坡州松坡水原仁川釜山元山到
る處各各其要所を扼守す隊伍整齊號令嚴肅銃器
糧食共に兼ね備る沿道の士民仰て皆な風を望み
心を安せさるものなし眞に王者の師なり夫の淸
兵の如き兵に紀律なく令に威制なし猥りに牛馬
を掠奪し恣に婦女を姦淫す牙出の邊陬家に米麥
なく戶に鷄犬なし士民相怨み相▣ふの狀旣に公
等の知悉する所ならん所謂草竊の徒にあらずし
て何何や事態已に斯の如し苟も朝鮮の粟を食ふ
もの豈に傍觀坐視す可きの秋ならんや乃ち須ら
く半夜鷄を聽て起ち中流楫を擊て渡り內は奸臣
を黜けて以て王側を淸め外は敵兵を討して以て
國威を張らずんばあるべからず公等旣に輔國安
民を以て義擧を企つるは天下の共に深く知悉す
る所なり惟ふに必らす當さに令を四方に傳へ以
て再ひ土を捲て來る可きは亦天下の共に確く信
認する所なり然り而して未た其消息を得す此れ
鄙等の晝伏し夜行き山岳を踏み河川を涉りて而
して來る所以なり知らす公等の思ふ所果して如
何敢て示敎を乞ふ
彼れ筆を執りて答へて曰く
曩日貴國十四大人に遇ふの時公の敎ゆる所を以
て亦鄙等に敎ゆ惟ふに公等亦同義の人なるか
余曰く
弊邦の十四人鄙等其誰たるやを詳かにせす想ふ
に未た相知らさるの人ならん未た相知らさるの
人にして其陳ぶる所相同じ是れ弊邦の國論一定
の徵證にあらずして何ぞや且つ夫れ更らに一步
を進めて之を言はん乎我國實に此の好機に臨み
此幸運に乘し公等と相結ひ相計り內外相應して
以て一は內政の釐革をなし一は外敵の討伐をな
し社稷をして泰山の安きに置き生民をして永く
鼓腹擊壤の樂に饜かしめんと欲するのみ
彼れ曰く
弊邦何等の前惠ありて貴國弊邦の爲めに盡瘁す
る一に斯の如きや聞く貴國途を弊邦に假り淸國
を征せんとすと片片恰も雪の飛び來るが如し知
らす果して此の事あるなきか
余曰く
貴國と弊邦と其誼一日に非らす古より旣に兄弟
の國と稱す且つ夫れ貴國と弊邦と譬へは猶ほ唇
齒相依るが如し貴國の存亡引て弊邦の安危に關
し貴國の盛衰引て弊邦の隆替に係る前惠後酬何
の間あらんや弊邦途を貴國に假りて淸國を征せ
んとするの說あるが如き是れ三百餘年前の昔譚
のみ我兵貴國に來るの意以上已に陳述する所の
如き耳
彼曰く
謹て貴敎を承く鄙等素と農を業とする者出てて
は則ち來耟を執りて稼穡の業を務め人りては則
ち經術を講して義理の道を修む若し夫れ我か宗
社に害をなす者あれは肝腦地に塗ると雖とも止
ます公の敎ゆる所已に斯如し鄙何そ敢て疑はん
然りと雖とも若し公の心と公の筆と相協はさる
が如きあらば咫尺の間當さに血を濺くことを得
ベきのみ
余曰く
仄かに聞く貴邦人頗る猜疑心に富むと足下にし
て尙ほ且つ斯言あり余覺にす大息之を久ふする
のみ足下若し一點の疑ふ所あらば足下が爲さん
と欲する所をなせよ
彼曰く
靈犀相通し肝膽相許す尙ほ何の疑ふ所あらんや
但我に在りては時機未た到らす暫らく秋來の候
を竢て再ひ事を擧けんとす其時必らす當さに通
信の計をなすへし伏して乞ふ疑ふこと勿れ疑ふ
こと勿れ
余曰く
謹て貴示を承く余等亦當さに頭を伸べ踵を立て
て以て秋風馬嘶の時を俟つべし夫れ兵の勝敗は
名の順逆に由ると雖とも抑抑亦武器の銳鈍に關
すること至て大なり鄙貴兵携ふる所の銃砲を見
るに多くは是れ火繩銃のみ火繩銃は旣に腐朽に
雖し何れの國と雖とも之を川ひず足下若し更ら
に銃刀の用あらば直ちに當さに之を送呈すべし
如何
彼曰く
感甚矣感甚矣今若し貺る所の銃刀を領取せは則
ち恐らくは指目の煩あらん他日再擧を圖り其用
ゐる所の時を以て亦當さに通信すへし願くは其
時を以て惠投せよ如何
余奉均と對談する所殆んと數千言に度ると雖も其
槪要を摘記せは凡そ以上述ぶる所の如し奉均眉目
淸秀其擧止言動蓋し尋常一樣の將校にあらす余等
竊かに語りて曰く彼れ全明叔其人にあらすんば必
らす帷幕帳中の張子房ならんと後ち兵士の告くる
所よりて果して大都所全明叔たるを知る余等の宿
志初めて達す當日の快想ひ見る可きなり此日待遇
殆んと至らさる所なし夜に入れは端なく簫皷の音
嚠喨として幕中に相和す蓋し朝夕樂を奏せしめて
以て心を慰むるもの想ふに全明淑は業に已に全羅
道の封候たる懷あらん氣色一に何何揚揚たる
二十一日余又明叔と昨日の談を繼き問答五六回互
に通信の處を指示す明叔甚事あり今午東南の地に
向いて去ると想ふに明叔が斯の如く席暖かならす
突黔ならさる所のものは實に米錢の徵發に忙はし
きが故のみ余竊かに以爲らく余等一面識を以て彼
の全幅心を得る固と易きをにあらず彼旣に余等の
說く所に服するか如しと鄙と雖も意中尙ほ或は多
少の危疑心を抱く者あらん如かす先つ此より別れ
更に早く一籌を運さんにはと卽ち相共に別を告く
彼贐るに錢十五貫文を以てし且つ馬を出して余等
一行を送らんとす余等亦贈るに長短二刀銀貨三金
及藥劑二甁を以てす以て永久の交を結ぶ午前九時
頃明叔自ら門外に出てて兵を營外に閱す五十余人
を一隊となし五隊に分ち□字形に排列す巾を纏ひ
銃を荷ふの狀甚た笑ふ可しと雖とも司令に應して
進退をなし整然相紊れさるの心頗る愛すへき者あ
り繰練了る各各錢五百文を兵士に給す想ふに兵士
の給料ならんか朴永浩鄙萬石金某崔某文某等は皆
な明叔以下の將校なりと雖とも與に共に談すへき
の材にあらす其他都省察金炳赫省察三十二人あり
と云ふ午前十一時共に再會の約を結び馬に乘りて
綾州を發し去て羅州管內榮山に向ふ蓋し榮山より
韓舟に艤し木浦に出て滊船若くは我か漁舟に乘し
て以て仁川に至らんと欲するのみ別に臨み道徒よ
り諸托を受くるもの甚た多し其重なるものは則ち
日本刀六穴銃及蝙蝠傘の類のみ午後三時四十分榮
山に看す舟を尋ぬれとも得す此夜下痢甚た苦む
二十二日拂曉山縣氏を二里餘の處に派し舟を求めし
む漸くにして之を得正午榮山を發し午後二時電浦
に着す十時舟に乘り離別江を下るてと三里盧中に
泊す
二十三日雨甚し船中食ふに食物なく臥するに寢室な
し舟中の難陸上の難に勝ること一等
二十四日午前八時三十分漸く木浦に着す聞く再昨及昨
日を以て韓船數隻群山に向て出帆し餘す所僅かに
二隻共に是れ珍島行の船のみと當時余等の落膽眞
に叱喩すへからす囊裏の旅資將さに竭きんとし途
上の困勞日を逐ふて加ふ然れとも事已に玆に至り
て終に奈何ともすへからす乃ち共に一段の勇氣を
揮ひ陸行群山に向ふに決す直ちに擔夫壹名を雇ふ
て木浦を發し午後七時務安を去る半里廣石店に投
宿す
二十五日旅資缺乏の故を以て携帶品を三分して各各
其一を擔ひ午前四時廣石店を發し午後九時靈光を
過く道徒一百余人官廳に屯す余等一行を遮りて喃
喃尋ぬる所あり余等當日身體甚た勞れ日脚亦已に
落つ一一問に答ふるも煩しきを以て却て大に彼等
を叱咜す然れとを終に其功なし卽ち金講會所に於
て告くる所を以て又彼等に告げ漸く熱鬧卨中を遁
れて去り拱北門を出て半里一農家に宿す想ふに道
徒の余等を停る所以のものは蓋し外人の此地を過
くるものあらば必らす其通行の理由を尋問すへき
命を受くるものあるに似たり用意の周到なる寧ろ
賞すへきものあり都所に遇ふ其名を逸す道徒二千
余名ありと云ふ
二十六日午前五時農家を發し茂長を經午後九時興德
を去る一里「アルメアチヤン」酒幕に宿す途上道徒
七八名に遇ふ興德に屯集するもの更に凡そ二百余
名ありと云ふ
二十七日午前七時「アルメアチアン」を發し午後八時
扶安を過き半里余の處に宿す扶安興德共に道徒屯
集すと云ふと雖とも城內に入らさるを以て共數を
詳かにせす
二十八日午前二時四十分宿驛を發し萬頃を過き午後
四時群山に着す韓船の港內にある者帆檣林の如し
と雖とも一隻の以て仁川に航せんとするものなし
余等の心計實に玆に至りて全く盡くされとも天若
し余等を棄てずんば不日必らす與ふるに一舟を以
てせん加かす是れより默食靜臥して僥倖を萬一に
期せんにはと計らさりき黃昏一韓奴來り語て曰く
船錢の多寡により公等を仁川に送致すへしと其價
錢を問へは則ち六十貫文且つ喜び且つ驚く顧みれ
は囊底一文錢なし其價の高低を論すれは彼飄然と
して去らんとす乃ち意を決して之を雇ふ至り視れ
は實に眇乎たる一小舟相顧みて呆然少焉して共に
戲て曰く余等旣に福島中佐を凌駕す郡司大尉豈に
與みし難らんや笑ふて而して舟に乘る此夜苫席の
下に無何有の夢を結ふ
二十九日午前八時三十分小舟に櫓して群山を出帆し午
後二時忠淸道庇仁馬梁浦に泊す
三十日午前五時馬梁を發す八時遙かに軍艦六艘を
海霧糢糊の間に認む午後九時又軍艦二艘の間を過
く何れの軍艦たるを詳かにせす後ち八艘の軍艦共
に帝國軍艦たるを聞く十一時舟平薪に泊す聞く日
淸艦隊一大激戰ありしと余等少しも之を信せす此
日近藤君及余發熱甚た惱む
三十一日未明平薪を發し仁川沖に泊す途中淸人二
名島中に居るを聞くのみ熱發稍稍減す
八月一日午前六時余等滿腔の愉快と全身の勇氣と
を搭載して漸く舟は仁川帝國領事館の下に着す三
人相顧みて與に共に海陸の無難を祝し躍然として
身を旅宿水津方に投す問ふに我兵の消息を以てす
曰く二十三日我兵韓兵を敗り四十分にして王城を警
衛すと曰く二十五日我か艦隊淸國艦隊と牙山沖に於
て相戰ひ一艘を拿捕し二艘を沈沒せしむと曰く三十
日我兵成歡驛に於て淸兵と相挑み五時間にして牙
山營を陷入るると連戰連勝の報耳を衝て至る余覺
へす喟然として歎して曰く遂に孺子をして名を成
さしむるか嗚呼余等此行陸行百四十餘里海行七十
餘里日を閱すること二十有九日錢を費すこと一百
有余圓其の苦辛經營蓋し筆舌の能く悉くす所にぁ
らす會會問ふに道徒の動靜を以てする者あるも單
に一場の茶談に附し去るのみ勞して功なきもの孰
れか焉れより甚しきものあらんや知らず道徒が今
日に於けるの價値果して斯の如くなるへきか此日
水津方に宿す
二日午前十一時陸軍御用船釜山號に便乘を乞ひ午
後十時龍山に着し十一時漢城に入る滿天星斗夜沈
沈
余枕に凭り獨り自ら語て曰く我兵海陸の連勝喜
ぶ可きは則ち喜ぶへし未た狂して喜ぶ可きの時
にあらす朝鮮政府の革新可は則ち可なり未だ寸
時も心を緩ふす可きの秋にあらず聞く將卒勇に
誇り俗吏功に誇ると抑も何の心▣や對淸の事余
暫らく措て論せす若し夫れ朝鮮政府の革新は今
日果して如何の方針に由り如何の進步をなしつ
つあるやを知らす群小鼎を弄す餗を覆ゆさ▣る
もの古より絶て無くして稀に有る所なり惟ふに
新政府は道徒を友として當さに至大の利を見る
へきか若し之を敵となさば當さに至重の害を蒙
るに至らざるべきか之を敵とし之を友とす僅か
に擒縱一髮の間に在り知らず新政府が道徒に對
するの心算已に立や否や
義擧を企つるものは卽ち道人のみと是れ全羅道
通有の情識なり故に道人たらずんば義擧に加は
るを得ず所謂百有八顆の珠數を携ふるものにし
て始めて義擧宗の宗徒となるてとを得るのみ義
擧とは何そや輔國安民のみ語を代へて言はは則
ち民を濟ふに在り所謂濟民義所なる四字は卽ち
彼等が用ゆる所の印章なり故に民の害をなすも
のは皆な彼の敵なりとす敵一にして足らす敵の
敵あり敵の又敵あり彼等恐くは單に守令方伯の
黜陟を以て足れりとなすものに非らず隴を得て
蜀を望む是れ常情のみ且つ夫れ本澄まざれば流
淸からざるに於ておや彼等若し糧足り兵充つれ
は則ち當さに憾天動地の活劇を演するや得て計
るべからす今日に在りては余は彼等を以て彼等
自身に革新黨たるを得ると言はず然れとも余は
斷して言ふ尙ほ彼等をして革新黨たらしむるこ
とを得べしと全羅道全州を去る三里以南以西以
東は旣に大都所全明叔の命是れ從ふ者のみにあ
らずや忠淸道木川以南の地道學を奉するもの十
中八九或は多少性情の異なるありと雖とも旣に
今回相戮力する者ぁるより之を推定せげ今後與
に連絡を共にする得て難にあらず想ふに慶尙江
原亦多少の道人あらん彼等は稱して吾徒一百萬
人ありと云ふもの素と浮誇の辭に過ぎすと雖と
も道學を奉するもの日に日に新に加ふと云ふを
以て見れば其徒蓋し少小にあらさるなり
曩日羅州の牧使故なくして道人三十二人を殺害
す部下の者直ちに討て之を誅せんとす明叔之を
止む蓋し思らく農は國の本なり五六月の交は則
ち農事の尤も至要なる時節なり此際に當り若し
一旦兵を動かす濟民の意に戾るや大なり且つ糧
食を得るの法立たす加かす秋收の候を竢て事を
擧けんと此れ如今明叔が各邑を輪回し一方に於
ては金錢を徵發して以て他日の度支に備へ一方
に於ては隱德を施敷して以て百姓の聲望を收む
るに是れ汲汲たる所以なり顧みれは天下の形勢
全く豹變す知らす新政府に對する彼等の情感果
して如何
新政府の施設恰も坦坦水の流るるか如く行かば
則ち止む苟も民の意に觸れ民の心を害し竹槍席
旗の四方に起ることありとすれば恐くは道徒此
れか動機となることを豫め覺悟せざるべからざ
るなり知らす新政府の視る所果して如何暫らく
默して今後の成行を視ん時に起て窓を開けば半
天雲起り夜色暗憺
右 海浦篤彌手記