○征討軍の出發
古阜郡に於る暴民に東學派の合同ありしより勢焰愈愈强大に
趣き四方の黨與爭て之を集り加はるもの引きも切れず監司は
殺され郡守は追はれ所屬の軍庫は掠奪せられ兵器武具は分捕
せられ今や一層の勢力を以て東上せんとする摸樣なれば到底
全羅地方の兵員のみにては鎭定のほど覺束なしとの地方官よ
りの日日の注進に接し始めて事態の穩ならざるを知り然らば
兎にも角にもとの廟議にて▣▣征討の師を下すことに決し洪
啓薰を征討軍の總督とし八百の親軍を發し利運社の蒼鴻海龍
の二韓船及淸國の軍艦平遠號を借入れて右の三船に分載せし
め麪包千斤野戰砲四門彈藥四百函を備へ韓曆四月八日を以て
全羅道に向はしめたり尙ほまた此の海路出兵の外親軍營二百
人許り陸路水原府を經て出發せしめたりといふ今ま朝鮮國に
於る兵卒の有樣を見れば舊式に據て訓鍊せられたるの兵隊は
諸道諸府縣に在住し何萬人と揚言するも其實微微たるものに
して火繩筒刀劍等を使用し殆と戰時の用に堪へざるものゝみ
にして又新式卽洋式によりて訓鍊すと稱するのものも其數僅
に四五千に止まり「スナイドル」の小銃を用ゆと雖も是れ亦偸安
姑息錢を愛し死を惜むの武官果して此騷亂を鎭定するに足る
や呑やは大に懸心に堪へざる所なり