○淳昌府使の書簡
淳昌府使李聖烈より閔泳駿に寄せたる書面の略に曰く四月三
四日頃東學黨は金溝泰仁の地方より退て扶安古阜等の地に向
ふ官兵之を逐ふて古阜井邑兩地の境界に至りしに東徙
山の嶮に據り官軍の進路を遮ぎりたり僧頭山は其形ち伏盤の
如く彼徙
內には束藁を置きて身を其裏に隱しつゝ發砲をなせり官軍の
陣彼と相距る僅に數弓而して地形稍下れり彼等は暗夜に乘じ
て頻りに官軍をその頭上より狙擊し死力を出して挑戰す官軍
本と烏兵の衆彼の急擊に遇ふて潰敗四散し殺害せらるゝもの
測り知るべからず衆心乖離し兵氣頓に沮喪す昇平日久しく兵
丁用をなさず誠に嘆ずべさなり目下彼徒數千に過きざるも恐
くは今後次第に增加せん且つ彼れら到るところ火を民家に放
ち民産を掠奪し民心洵洵老者は溝壑に顚し幼者は道路よ泣き
殆んど其行く所に迷う如何ぞ相率て盜賊たらざらんや全道幾
邑は業に已に空虛となれり若し猶ほ朝廷撫綏の法を立てずん
ば或は恐る智者もまた遂に功をなし難きを彼等は符籤を以て
人を誘ひ嘯呼して黨を聚め名を洋倭の擯斥に假り咎を守宰の
貪婪に託し以て黔首を欺く是れ蓋し一朝一夕の故に非るなり
此の徒王法に於て固より其罪惡を逭るべからざるも如何せん
兵力の恃むに足らざるを思ふて玆に至れば一回に於ては方伯
の任最も撰擇せざるべからざるなり貪虐の宰悉く懲治せざる
べからざるなり賦斂の弊全然矯正せざるべからざるなり然し
て後衆心慰むべきなり一面に於ては急に宣撫の特使を遣はし
之に臨むに兵を以てし之を諭すに義を以てし之を撫するに恩
を以てし而して彼遂に抗抵するあれば則ち天誅を加ふこと恐く
は事宜に合せん然して後兵衄ず賊魁捕獲すベきなり彼徒固と
窮寇急追すれば則ち其勢益益團結して解き難く緩漫なれば則
ち驕悍にして服せず其間尤も商量せざるべからざるなり加之
ならず軍器は掠奪せられて餘品なく賊再び席捲して來るの日
は我が此の列邑を如何せん云云と頗る悲憤慷慨的の文章なり
しといふ噫此の李聖烈の如き能く大勢に通するの名士たるに
恥さるの人なりとす