戰亂日記
(一) 旗揚 東學黨の積怨積忿已に年あり、何時かは其の念を晴さ 其勢 凡そ五百人
此軍中には十四五才位の少年も打交り居り皆徒步洗足 古阜郡は廿八の村落より成り土豪頗る多く土地肥沃 因に記す郡守趙秉甲は先年咸鏡道防穀令の事件に就 (二) 賊勢
此際直ちに應ずる村落旣に十有五 全軍一萬余人に及 首領三人あり 曰く 全明叔 曰く 全明叔は總大將にして鄭益瑞 金某は之れに佐たるな かくて一擧して郡守の城を陷れ勢大に振ひこゝに 金州の監營之を引受け戰ふに其勢ひ中中に猖獗にして 何を以つて如此非常の勢を博したるやを考ふるにこ 其一は 朝鮮は五百年にして革命あるべしとは嘗 其二は 東學黨の首領は本年僅に十四才なる一神 兎にも角にも朝鮮には一の新聞紙なきを以て浮說百出 曰く 東學軍には大將左大將右大將の三將あり 曰く 東學軍中に必ず外國人の參謀ありと何を以 東學黨の形勢かくのごとく日を逐ふて盛んにして日日 東學黨の勢たるその傳ふる所を以て半分以上虛說なり 東學黨の軍器 は多は後に全州の監營を陷れたる 兵食は乏しからず、東學黨の中には豪農紳商と呼 東學黨に降りたる官軍の多數は米佛國の新式なる 軍中に 白巾隊なる一隊あり 或は呼んで白薔薇 東學黨の一軍の勢かくのごとく吾人は今や此軍を 東 (三) 日を逐ふて益益猖獗
かくて東學軍の勢全く强く 連戰連勝宛がら猛虎の檻 朝鮮仁川發(五月十一日) 全羅 忠淸の民亂は實に 同仁川發(同十六日) 平安道にも暴徒起り其勢甚だ 同仁川發(同十二日) 全羅道古阜の騷亂と同時に起 ○西學黨も復た起る 忠淸各處に蜂起せ 金海府 慶尙道金海府下の民大凡八千俄に大擧して 全羅道古阜以下興德羅州恭仁高敞扶安等諸聯合の大 出兵征討に決し
洪兵使在義今改ためて啓薰といふ(昨年東學黨蜂起 附して記す八道すでにかき亂れたるを以て當初獻陵及 以上述べ來りたる如く 今や東學軍の総勢五六萬の上 各州邑の小吏志を當世に得ざるもの日にその勢を 兵糧の如きは任意に涼め去るべく
前日黨人と交好からざりしものゝ家は皆掠め去 又黨人の小頭領槪ね此各州邑小吏の亡命なるを以て各 一に曰く 叩に人を傷け物を害ふなかれ
二に曰く 忠孝兩全世を濟ひ民を安んず
三に曰く 洋倭を逐滅して聖道を澄淸す
四に曰く 兵を驅りて京に入り盡く權貴を滅ぼ 要するに前に述べたる主眼とする所と大同のみ
その勢かくの如くして討手に進みたる各營官兵も皆諸 今左に全羅 忠淸 兩監司竝び征討使等より發したる (十四日忠淸道監司發) 官軍振はず賊徒數千各處に (同時全羅道監司發) 賊徒井邑に於て大に官軍を破 (同日招討使發) 完營の右領官李璟鎬 手兵を率ゐ (同日全羅道監司發) 羅州の牧使閔種烈事故ありて (四) 連戰連勝
東學黨の勢益益猛烈を極め風に乘じて野に火を放ちた (五月二十二日京城發) に曰く東學黨の巨魁 羅州 (五月二十七日京城發) 去る五月二十五日東學軍の (五月二十九日釜山發) (今曉郡山島古阜の沖)に於 (五月二十六日釜山發) 去る五月十三日正午洪招討 (同日同所發) 賊徒數千名 南の方羅州に向ふ 監 (同月同所發) 褊將元世祿の行衛知れず さきに招 (韓曆四月十二日慶尙道監司發電) 先に京軍銃裝し 五月十五日東軍の將徐云蓋なるもの一書を慶尙道咸 東徒また嶺南を犯さんとする色あり 縣吏等狼狽し (五月廿六日釜山發) 領官以下死亡百十四名あり、 (十三日招討使發電) 元世祿昨日無事歸陣 李斗黃 (十五日同暗電) 東軍萬余人靈光郡に屯集す 五里 (同日全羅道監司暗電) 東軍の一隊萬余人靈光を襲 (五月廿日韓曆四月十六日) 官船漢陽號(利運社の 日本人等を毆打し 仁川港委員金德容等數名を捕縛したり 漢陽號 空 さきに賊兵に通じて誅戮されたる金世豊の子壻弟姪 其書の略に曰く 方今の事務坐して死を待つべから 東學黨連戰連勝してその勢の熾なること以上に記す所を (六月同日午后京城發)に曰く 官軍又全州砥山に大 (五) 日本公使の派遣
朝鮮の內亂東學黨の勢力漸漸猖獗を極め終に全羅一道 尙此一行の出發の摸樣を聞くに陸奧外務大臣▣林次官 かくて汽笛一聲橫須賀に向け出發しそこより軍艦八重 (六) 韓廷の政略
今回の內亂につきては韓廷の喫驚したることその幾度な 其要に云く今や東徒の猛勢不測或は皷行北上の患なし 外兵借用の議左の一言を以て見事に排斥せられたる以 外兵借用の妄議は全く排除せられ招討軍新に擧げらる かくて新任の監守をして各處を㢠り撫慰せしむ
○國王の下し賜へたる敎示を見るに左の 一 古阜の郡守趙秉甲は格を俱し拿し來つて南 一 其以外の地方の守令と雖貪虐なるものは 一 大臣以下末官に至るまで此板蕩の時に當り 一 全羅監守は特に越棒の典を施して可なり 一 逃走せる各守令は罪の輕重を論じて其處治 朝鮮政府より亂民を慰撫する訓令左之如し
東學之徒軍勢を合して靈光に聚りたるに付招討使 (七) 各國の進發
英國艦隊五艘 長崎に淀泊中なりしが直ちに橫濱へ進 支那米國其他の軍艦仁川に集り 支那兵千五百人 上陸したり 露西亞兵もまた上陸したりなんと聞く 又この他に淸 此支那兵數一萬といふことにつきては論評區區なり 支那兵一萬を出すとの噂なるも諸說區區として或は眞 淸國全權公使袁世凱氏の策
朝鮮政府は東學黨變亂に就き今度淸國に向て援兵を請 露國の出兵
淸國が朝鮮國に向て出兵すると共に露國も亦同國に向 (八) 日本帝國の出師
六月九日の讀賣新聞特に陸軍省の允許を得たりとて揭 (九) 京軍と東軍との槪勢
曩に發したる招討軍なるものは其本旨 按撫するにあ 抑も今回の戰の起りは古阜にありて東徒は暫く此地 (十) 全州の陷落 (槪勢の續)
去る程に招討使は長城に入りたる東軍を追ふの途 兎 全州陷落に前後して左の一報あり全州の敗報と參照な 五月廿九日法聖發の通信によれば官賊兩軍曾來の動靜 (十一) 淸兵の擧動
先に淸兵一千五百人(軍隊三衛)忠淸道牙山に上陸した 淸國より韓國派遣の淸兵將校士官は多くは彼の馬賊の 淸國は更に三衛は派遣する筈なるも未だ出兵の摸樣な 淸國軍艦は警備船四艘にして皆仁川及び牙山の近傍に (九日仁川發電)淸兵千人馬山に來ると
(十二) 日本軍京城に入る
六月九日を以て出發したる我國の陸軍兵は同十二日仁 その入京の盛況を記さんに軍隊の大旗を眞先に飜し隊 是と同時に海軍兵は京城を引揚げ各所屬の軍艦に乘込 (十三) 李鴻章の狼狽
我日本兵は最も迅速に最も敏活に京城に乘込みしを以 李伯 袁世凱の報を得るや否や直ちに手兵を點檢して (十四) 載兵船の歸朝
さきに我軍勢を戴せて仁川に赴きし和歌浦丸は十六日 (十五) 日本出師の增加
十四日宇品港を發し廣島の現役兵豫備兵幾于肥後丸に (十六) 在韓淸兵の擧動
(其一) 牙山屯在の淸兵の數
淸國陸軍は三衛兵(千五百人)なりと言傳へしが精確な (其二) 淸兵未だ京城に入らず
牙山屯在の淸兵京城に乘込みしと傳ふるものあるも (其三) 淸兵の一隊江州に向ふ
十三日一隊五百人許(一衛兵ならん)牙山を距る十里余 (其四) 牙山淸兵の亂暴
牙山屯在の淸兵は同地方の監司に命令して民家より糧 (十七) 開戰準備之風說
先きに淸國は牙山に兵を出したるまゝ 日本出兵の通 招商局の滊船は船籍を日耳曼に移 去る十七年淸國政府は佛國と事端を搆へ宣戰の時招商 (十八) 大鳥公使日本兵徹去 請求 淸國公使袁世凱及び韓廷より日本兵撤去の請求ありた
んものと時を窺ふ矢先釜山を距る七十里許、全羅道の
古阜となんいふ所の郡守趙秉甲なるもの昨秋古阜地方
は非常の豐作なりしにも拘はらず俄に防穀令を布き而
して己の親族をして米幾千石となく買集めしめ奇利を
博せしめ加之租米徵收の際非常手段を以つて虐政を
檀にせり已に昨冬十月の如きも此暴官に向つて一揆
あらんとせしことなれば最早堪え得ず此日を以て 東學
黨東津の津頭に勢揃をなしぬ
して郡守趙秉甲の城門に押寄せ無二無三にその寢所を
衝かんとせり、趙秉甲逸早くも之を偵知し單身遁れ去
りて郡下の名族鄭某にたよりこゝにて服裝を變じて古
阜の次邑井邑となん呼ぶ所に逃れ去りぬ、遂に全州の
監營に投じ監司に謀りて兵一千人を借り亂民を鎭めん
とせしが監司之を肯はず 取敢ず朝廷に急報して其指
揮を待ちける
にして農産物に富み茁浦 鹽所 東津 沙浦の四港
に積出し仁川や釜山浦とこそ交通なき地なれ朝鮮八
道中樞要の場所なり
き其名を知られし趙秉式の甥なりといふ
びける
鄭益瑞 曰く 金某
り
目ざす郡守のあらざるを知り直ちに進んで金州の監營
を攻む 同時に此擧を傳へ應援するもの各所に起り瞬
時にして全州忠淸の二道皆戰亂を見ざるの地なきに至
れり
當るべくもなしかゝりければ東學黨の軍勢日一日より
增加し來り此處を陷れ彼處を落し連戰連勝して行く
所敵なきが如くなりき
れには訛傳迷信なんとの分子大に之を助けたるものゝ
如し
て國內に流布したることにして本年は李氏世を取り
てより正に第五百○三年なり 頑迷なる韓人の信
心 韓廷の狼狽知るべきなり
童なり姓を李といへ金といへ傳ふる所區區たり而
してその少年神術を行へ百戰百勝すと此少年一
度白旗を振るときは彈矢皆中らずと
その何れか眞なるや容易に信ずべからざるなり
て軍事を總ぶる由なるもその誰と名くべきやは未
だ知るべからず 前に記したる名稱の他に 鄭道
令 徐蕙角 崔大雄 といふ三つの名ありと雖も
想ふに皆想像上の人物に過ざるべしといふ
て之を謂ふか 軍令嚴明にして作戰の法大に觀る
べき所あること中中韓人の企にあらざる所ありと
其何の人なるかと問へば何國の人なるや知らず
にその軍勢を增し來るものから各所の地方官長は大
に怖ぢ畏れる餘り誇大の言を搆へ今にも陷らんとする
か已に破れしかの如き早打を飛ばして援兵を乞ふて數
數中央政府を驚かしむ是れ第一に訛言浮說の百出して
吾人をして何が眞なるや僞りなるや判別に苦ましむる
所以なりとす
とするもその勢力仲仲に盛んなることは眞實なり
時に掠奪したるものなり 全州の監營に備へ付あ
りたる鉃砲の數は僅に一千余挺なりと雖も後官軍
の降兵は皆鉃砲を所持し居るなり
はるゝ者少からず旦つ武威を恐れて降りしものま
たは只給與するに米麥を以てするを以て彼等は更
に兵糧には差支なし
兵式を練習し多少軍隊の組式進行等に熟くし居る
を以て進退は頗る快活なる風を有せり
軍といふ 隊衆一同白巾を以て頭を覆ふ此隊は實
に同軍の中堅にして軍中第一の强兵なり
學軍と呼ぶと雖も全軍すべて東學黨に非らず 之に三
種の兵あり、第一には 主謀者 東學黨 投入者 農
民 三に官吏の退職せるものなり 皆烏合の勢なりと
雖ども侮るべき小敵にあらず 朝鮮の官兵とても急に
操練をなすが如き不熟練なる兵にして烏合の兵と左程
大差あることなきなり
を脫したるものゝ如くなりしがそれよりおよそ三旬を
經過してはいよいよ猛く 遂に宇內をして默視すること
能はざるにいたらしめたり
恐るべき勢力となり 全州の監司は之を鎭撫すること
能はず爲めに政府は洪在喜(正領官我國の佐官に相
當す) に命じ兵五百を引率して明日頃仁川より海路
出發の筈なり□と
猖獗なり□と
りたりし忠淸道の東學軍も勢銳く今や已に淸州は
彼等の爲に圍まれ州の兵使は之を鎭撫せんと勉むる
も制令毫も行はれず此旨啓聞に達せしかば早速先頃
まで巨文島の僉使たりし趙義聞なる人を拔擢し淸州
の營將に任せられ氏は命を奉じて出發したりと
りと
府城を襲ひ府使を追放し屬史を禁獄し以て觀察官の
明判を乞はんとす□と
民亂はさきに宣撫使を派して曉諭退散せしめんとせ
しも毫も服從の色なきのみか遂に古阜の縣官を捕へ
て之を火殺したるなどその兇暴は極點に達したるを
以て流石に因循なる政府も之に呆れ果て最早撫諭す
るも效なきを認め遂に
の時兵を率ゐて忠州まで出張せし人)を兩征討使
となし親軍壯衛營の軍八百人を發す 此行大砲二門
彈藥六十余萬發を備へ仁川より 支那軍鑑平遠號に
三百人を戴せ 四百人を轉運署汽船瘡龍號に戴せ殘
り一百人を漢陽號に戴せ五月八日午后三時頃三艦前
后して仁川を拔錨し忠淸道に向ふ
び仁陵の行幸は 韓曆四月三日の恒例なるも當分見合
せとなりしといふ
に達し 各州各部に隱現出沒し 聚散常なきが如くな
るも勢なかなかに猛烈なり
增し材を抱いて用ゐられざる者武を學んで體肉の肥
ゆるを歎ずるもの皆走りて賊に黨し小頭領となる
故に
らる
地の鄕軍と通ずるの便あり且つその職權を弄して鄕軍
を左右し從はしむることさへあり、黨人の用ゆる軍器は
前に述べしごとく全州を陷れし時に鐵砲を得たるもの
なるが大抵は長槍 太刀を携ふ 中には鳥銃を携へた
るものあり黨人の目印には
黃巾と黃旗、
にてすべて黃なる衣をつけ黃なる巾を頭に卷き 黃な
る旗を用ゆ 前に述べし白巾隊は之に對したる列隊の
目印なり 軍令四ケ條ばかりあり
し大に紀綱を立て名分を定め以て聖訓に從がはん
と
共に敗れ走り最早支ふる能はず又敢て進むの勇氣なし
全羅忠淸兩道の監司皆狀を具して急を京に報じますま
す討滅の軍を派遣せられんことを待てり、而して賊軍の
至る所皆郡司縣令府使牧使すべて放逐せらる
十三日以后の重なる報知を見るに
屯集して各邑を侵略す 吏民を招募すること益益多く
之に應するもの益益多し 烏合の兵とはいへ官軍甚
はだ僅かにして衆寡敵すべくもなし現在調發したる
兵僅僅二百名 如何とも詮術なし速かに充分の指揮
を乞ふ 事若し延引せば賊徒益益蔓延すべし
る後更に古阜三巨里に向て屯集す各邑之に應ずる者
雲霞の如く招討使之に當るべき氣力なし 本日まで
に官府の軍器を奪はれたる所十余ケ所 官吏の放逐
されし處十三邑 殺害されたる所四邑
て賊軍と戰かひしが逐に敗れて之に死す完伯爲めに
喪を治む
屬吏の重なるものを殺したるよりその同僚等大に
之を怒りその官宅に亂入し其一家族はいふまでもな
く婢僕に至るまで悉く殺さる牧使逃れ去る 扶安近
傍十三邑の守令皆逃れて松監營に入る 賊徒虛に乘
じて軍器錢穀を奪ひ去る
るが如くなり
光陽 扶安 興德 高敞 及び高陽等を服從せしめ
その一隊八千餘人益山の一戰に官軍を破り北るを逐
ふて京畿を衝んとする勢あり と
主將鄭歌 地雷火を以て官兵を大に南湖に破り 官
兵死するもの二百餘人生擒るゝもの三十二人▣東軍
勝に乘じ其兵器糧餉を奪ひ寶城に據る▣兵威益益振
ふ▣官兵糧餉到らず爲に民家を襲ふて錢穀を掠む
て韓船二隻 東軍の襲擊に遭ひ米豆合せて三百餘石
を掠奪せらたり
使、褊將元世祿を遣はし京軍を牽ゐて全州を距る五
里許なる車馬山下に陣し砲を放たしむ是れたゞ威を
示さん とするのみ 招討使は兩湖の賊勢中中に猛
烈なるを以て容易に動かず (韓曆四月十日招討使
發電)
司急に諸牧使及び近邑に發關して守衛を嚴にせんと
するも諸邑空官多し (韓曆四月十三日監司發電)
討使元氏をして賊勢を窺はしめしが元氏の軍途に賊
徒千餘人に逢ひ敗れて行く所を知らずなれりその配
下五十餘名一も見當らず 京軍爲めに震駭す
て京城を出づるもの實に七百人(八百人と稱す) 群
山上陸後日日逃走して今や餘す處四百七十人 而ふ
して逃走未だ已まず と噫何ぞ朝鮮軍の精ならざる
や
陽の 地方官長に移して曰く本月十五日 (我五月十
九日) 我軍咸陽に向ふ汝充分準備して待つべし然
らずんば秋水忽ち汝が首に落ちん云云と
急に要害を堅め之に備ふ
軍器は悉く東軍の奪ふところとなり今は詮方なし
▣未だ襲擊を受けざる黃土山の如きは公穀公錢を支
出して防禦に怠なし
等に命じ二隊を卒ゐて 金溝 泰仁 高敞 興德
等の地に向はしむ
にして伏兵あり 三十里にして先鋒軍二千五百余名
あり賊山野に滿つ四方の良民皆卒ゐて賊に投じ、官
軍の急を報ずるもの日に多し
ふ、郡守閔泳壽 舟を浮べて七山津に避く賊兵勝に
乘じて城內に闖入し軍器火藥を奪ひ府庫を封じ四門
を鎖して出入を許さず 賊兵之に據りて固守するの
意ならん
小滊船) 貢米積込みの爲め四月十三日靈光九岫浦に
到り東徒數萬 法聖 九岫の兩山腹に據り大に戰ひ
官船を遮り―船板を破碎し舟子竝びに乘組居たる
しく群山に引返せり
等十一名は全州南門樓に揭書し逃れて賊に投ず
ず近者所謂執權大臣なる皆閔を以て姓とし終夜滿腹
私慾之れ營む嗚呼此民を奈何せん 所謂招討使なる
もの無識怯懦逡巡兵を進めず而して猥りに質良有功
の士を殺す是れ乃ち名を釣り邪を飾るもの、久しか
らずして必ず毒刑を受けん知らずや三歲の後國は俄
(露西亞)に歸し人は洋に化することを 東道の大將之
を憂ひ義兵を擧げて以て民生を安んず云云と
以て察するを得べしかくて官軍の將士多くは打死し兵
士の斃るゝこと數を知らず 全州は殆と東軍の略取する
所となり電報通せず 東軍勝に乘じて京城を距る陸路
二十六里の處まで迫り行けり 朝鮮政府狼狽して更に
六百の兵を派遣せり (六月三日正午仁川發)
敗し副將以下死する者二百余人 東軍 洪州石城を
占據し將に京畿に進まんとす 依て朝鮮政府は更に
五百の兵を發し泰安の衝路を扼せり
を陷れ進んで石城を追擊し今や將に京城に攻入らんず
勢ひなれば我日本帝國は大鳥駐韓公使を派遣せしむる
こととなり六月五日午前十一時四十五分新橋發の汽車に
て出發せられたり、其一行には本野外務參事官に警視
廳巡査二十名高崎警部引卒して之に隨行せりといふ
外務省高等官 及び朝鮮公使等は何れも新橋まで見送
りたり
山號に塔じ直航せられたりといふ
るを知らずその第一は昨年の東徒と同じきのみと思ひ
しことなり乃ち昨年の暴動は一片の綸旨を魚允中の按撫
によりて容易く解散したれば今度もその例によらんと
せしも其手は參らず 此手段效能なきも八百の征討使
もし到らば烏合の徒は散ずべしと思ひしもいつかない
かな却つて反動するのみ西洋式を以て操練したる隊伍
齊整たる軍勢は百人以上脫し去れり豈狼狽せざるを得
んや 是に於て外兵借用の議起る 曰く外兵を借らば
一も二もなく鎭撫すべしと 外兵とはさしつめ支那兵
なるべし 然れども韓廷如何に暗冥なるも一人の活眼
者なからんや左の反論によりて排斥せられたり
とすべからず最も痛悶に堪へたりと雖も然れども內亂
を鎭壓するに外兵を以てせんは啻に自主自護の大旨に
背くのみならず偶ま以て外國干涉の端を開き其後患言
ふ可からざるものあり殊に淸日孰れの兵を借らんとす
るも天津條約の現存を奈何せん若し之を破らしめんか
兩國の爭論は乍ちに開けて八路を擧げて淸日交鋒の修
羅場たらしむるが如き大事に至らんも亦計るべからず
我國の無事玆に十年なるも畢竟兩國條約の賜と云はざ
るべからず之れを問はずして漫に外兵借用を言ふ亦た
思はざるの甚だしきものなれば自今以後斷して之を口
にすること勿れ云云
上は更に出師の他なしと愈愈征討軍を增發するに決し
江華留守兼海軍總制使閔應植は去る十八日江華に下り
同所の營兵五百を徵發し同營の中軍徐炳薰を以て之れ
が總將たらしめ彈藥四十餘萬發を準備し閔應植は見送
り旁旁同伴にて去る廿一日來仁、海上の食用として麪
包一千斤を大佛ホテルより買ひ入れ雨天にて石灰積込
みに手間取りたる爲め翌二十二日午後五時朝鮮汽船顯
益號及び海龍號にて全羅道に向ひ早速上陸し全州監營
に到り待ち設け居る洪招討使の軍と合する筈なりと云
ふ
然れど國王の意は按撫にあつて討伐にあらずたゞに按
撫の意なるにあらずむしろ一進して懷柔の實を施さん
と全羅道の監司を交迭するを第一とし兩湖の大小地方
官を改撰しそれらの失政と認むるものを處罰すると同
時に昨年の例の如く綸旨を出し先敎後刑の意にして何
事も之を免し改めたる時と敢てせず再三反覆して尙改
めざる上は討罰に決すべしとて金鶴鎭なるものを新た
に全羅監司に任じ前官金文鉉を廢しける
如し
關に囚せよ
一一之が罪を論じ以て民心を定めん
何ぞ垂手傍觀すべけんや特に輔國安民の策
を猷じて可り
(罰捧)
をなすべし
則ち京軍に領し過日旣に其地に向ひ今や將に一大
決戰を開かんとしたる折綸旨忽ち下りたれば暫く
鋒を斂めて其綸旨則ち完伯(全羅監司)を罷黜し古
阜の郡守趙を捕へ來り以て尉撫の意を示めされた
るを布告す而かも爾後尙ほ歸順ぜざるものあるに
於ては已むを得ず將さに京軍を以て討滅壓殺せん
云云と
行すべかりしを俄に變じて朝鮮國內亂の報を得て馳せ
て之に赴けり
と六月七日午后一時三十分仁川より急電ありき
國政府は朝鮮政府の依囑に應じ援兵一萬を朝鮮へ派遣
することに決し先づ第一回の出兵として李鴻章氏の率ゆ
る洋式訓練の精兵三千を威海衛 太古の兩地より出發
せしめ已に一半は仁川に一半は牙山(京城を去る僅に
十八里廿四町忠淸道の海岸にあり)に上陸したるよし
いひ傳ふ
朝鮮派遣の淸兵司令官は李鴻章の手兵參謀長珂氏にし
て六十才以上の老將なりといふ
といへ或は虛なりといへ何れか是なるやを知らず今
こゝに同國の兵制に通曉せる某官人の說に依れば支那
政府が今回韓國の請求に依り出兵せしむるは事實なる
べきも其兵數一萬人とは少しく誇大に過るの感あり好
し仮令一萬人とするも其正數は六七千位の兵數と見て
大差なかるべし元來李鴻章監督の下にある軍隊は槪ね
歐羅巴風に訓練し其銃器の如きも總て新しきものを用
ひ軍規頗る嚴肅なるが如しと雖之が將官たる者は常に
定員の內幾何を減じて其費額を減ずるの弊あり譬へば
一大隊六百人とするも其實數は常に三百八九十乃至四
百人位を以て普通とするが如きは敢て珍しからざるこ
となれば一萬の兵を出すとするも其正數は六七千位と
見て大差なかるべしと
ひしとのことなるが此の援兵を請ふに至りしは全く袁
世凱氏の獻策に出で氏が國王殿下に內謁して此の援兵
の事を獻議したるものならんといふものあり果して左
るにや
て出兵したりとの噂あるが露國が果して朝鮮に軍隊を
出したりとせば其兵士は定めて浦鹽斯德港近地に屯在
する陸兵なるべし此の浦鹽斯德港近傍に屯在する露國
の兵數は一萬五六千に下らず又た同港に碇泊する艦隊
は常備艦隊十二隻より組織し此の外義勇艦隊六隻あり
て此十八隻の軍艦は常に同港近海に出沒し一朝事ある
ときは立所に集合することを得るものなれば今回露國
が朝鮮に出兵したりとせば此の浦鹽斯德近地に屯在す
る陸軍軍隊中より派遣したるものならんと同國の形勢
に精通せる人は語れり
げたるを見るに
東學黨の勢益益猖獗を極め同國政府の力能く
之を鎭壓し得ざるの狀況に迫れるため同國に在
る本邦公使館領事館及び國民保護の爲め軍隊を
派遣す
依て我政府は右出兵の事を支那政府へ知照あり
支那政府よりも朝鮮政府へ知照ありたり
と而して此派遣せらるゝ軍隊は第四五師團兵を以て組
織せられたる混成旅團兵なるよしにて
六月九日 廣島縣下宇品港より我運送船にて出
發したるよし
尙ほ詳細なることは日程を追ふて記すべし
るを以て敢て戰を好まず只完營近傍に屯集するものを
遠卷にして追拂ふのみたまたま戰ひしことあるも巡羅又
は斥候などの途に偶然と出遇たるまゝ發したる小せり
あひのみ 是まで互に勝敗ありしは監司との戰のみ
なりと知るべし而して一局部一個所の勝敗によらず大
體より考ふれば以て兩軍の大勢を窺ふを得べし
を根據として其近傍なる金頃 萬頃 金講 泰仁等
の間に出沒せしが招討軍の一隊全州を出でゝ井邑に
進むに及び東學軍は茂長に退ぞきたり 次第に官兵
そのあとを追ふ 而して靈光に至り東軍三分し一は
靈光に止り一は咸平に一は務安に引揚たり 招討軍
尙追擊せしが五月廿二日顯益 海龍に乘じて仁川を
發したる紅華の軍隊木浦より上陸して敵の前路に出
づ招討軍その尾を收む而て夾擊せんとする略なりし
か東軍早くも之を察し三分屯營の兵を合し長驅して
羅州を越え長城に入る
角に招討使は兵員の不足なるため一關文を發して近傍
より臨時に各邑各里より三四十人宛を召募せしが或日
百五十人余の民兵一隊陣門に來たり先に招討使の發し
たる關文を示し召募に應じたる由を白す 何の疑ふこと
もなくその義を賞し手厚く取扱へその儘隊中に編入す
かくて軍を進め長城の近傍月坪に至り東徒に出逢開
戰中 百五十人の民兵二手に分れ 左右より急に夾擊
す 此一瞬間に一齊に鬨を上げて三方より打てかゝる
に京軍 大敗し全軍潰裂人馬踏藉算を亂して斃れたる
もの凡そ四百余人 殘兵もまた殆と盡く逃去りたり
東軍勝に乘じて進擊し難無午后 該營を乘取此百五
十人は民兵に非ず東軍にして關文を僞造したる者▣
全州陷落の飛報中央政府に達せし時恰も此敗報には關
係なく仁川府總制營の兵士七十余名貢米警護として將
に發せんとせし所なりしが政府より急電を以て出帆を
見合せしむ且次電を以て今日中麪包三千斤を製造せし
むかくて翌六月二日平壤の兵六百人を蒼龍號にて南道
に向はしむ
さば此數日間の光景を知るに便よからん
を見るに官軍は靈光に假營を設け賊軍は長城の傍なる
山腹に占據し唯兩軍相互に擧動を窺ふ而已なりしが官
軍は兵を二隊に組織し一隊は二百名に大砲二門を備へ
高弊を經て又一隊は五十名に大砲二門を備へ森溪を經
ていづれも賊陣を目指し出發せしは五月廿七日午前四
時頃ろなり同午後六時頃ろ長城に着す賊軍は其の數漸
く百名に過ぎず甚はだ虛あるが如し官賊陣を隔つること
僅に三四丁相互に銃擊を始めたるに賊兵は次第次第に
多數となり殊に又左右兩方より伏兵蹶起し其人員數千
に達し其勢ひ破竹の如く官兵は僅僅一時間を經ざるに
業に已に大敗し砲兵士官一名は生擒せられ尙ほ大砲六
門を橫奪せられ死傷者實に百數十人の多きに達せりと
云ふ
る由なりしが仁川發(九日)の報によれば依然と動かず
同地に屯營しありと
內亂を追討せしものなりといふ
しといふ
あり 艦隊は芝罘近傍に常備艦隊徘徊し居れり
川に上陸し二分して一は仁川在留日本人保護の爲同港
に駐まり他の
一千二百名
十四日京城に向つて進軍し我海兵のさきに在留人民を
保護しありしに代る 其駐在所は 日本公使館近▣洞
筆洞の居留民國を以て之に充てたり 大島旅團長を始
め將校は公使館內に止宿せらる
伍齊齊堂堂步趨肅肅として直ちに京城にいるその有樣
文祿の昔を偲ばしめたり 朝鮮の人民は我勇壯なる軍
隊を見ばやとてと道路を夾さんで之を觀る皆恐怖震慄
したるものゝ如し 在留の本邦人は喜び勇みて京城の
郊外に出迎へたり 殊に淸兵倂各國の兵に先んじて入
京せしを喜こび居れり
みたり
て淸國公使袁世凱は大に狼狽し直に本國李伯の許へ電
報を發して更に出兵を請求しければ此袁世凱の狼狽忽
ち李伯に傳へたり 何が故にかく狼狽せしかを尋ぬる
に去十七年の亂に淸國は二千余の兵を派遣せしも日本
よりは僅に一百余の兵を派遣するに止まりければ今回
も決して多數の兵を出すことはなかるべしと思ひきや意
外に多きを以てなり且つ直ちに京城に入ると聞を以て
なり
出兵 準備をなしたり
午前一時三十分朝鮮より馬關に附着したりその報ずる
所によれば日本兵は無事に十二日午后二時四十分より
四時半までに上陸を畢り
て朝鮮へ遣されたり
る調査によれば四衛兵(二千人されど一衛兵五百人以
上のものもあり又た以下のものもありと)卽ち總數二
千百人なり
十三日までは確かに入京せずといふ
の江州に向ふ 入京の說蓋是等の誤ならん
食中馬は固より金錢に至るまでを徵收し頗る亂暴を働
き居る由にて韓人大に嫌忌し居るよし十八日の通信に
見えたり
知に接したるも只十六艘の軍艦を派遣する準備せしと
の風說ありしのみにて其擧動頗る不分明なりしが十九
日を以て海上よりの電報に左のことあり
すべしとの噂あり
局の滊船を米國の船藉に移したりといへば或は是れ開
戰の一着なるかといふ
の抱絶
るに大鳥公使慨然として斷然拒絶したりと昨廿日の通
信に見ゆ