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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
朝鮮暴動實記 조선폭동실기
  • 기사명
    朝鮮暴動實記 (高橋友太郎 編, 1894.6)
  • 이미지
    prd_0147_001 ~ prd_0147_008 (199 ~ 206쪽) 이미지
  • 날짜
일러두기

朝鮮暴動實記

朝鮮暴動實記

緖言

本篇は一朝雞林の亂作るや特に通信者を該地に派し夫々報
導せしめたれば今や其材料凡に山をなし倒底悉く小冊誌
に記載する能はず故に其社會に直接影響を及ぼし忽緖に
付す可からざる緊要の報導のみを揭載する縡にはなしぬ幸
に其粗なるを咎る勿れ 編者識す

今回朝鮮の擾亂に關し或る確信すべき向より接手したる報道
に據り其擾亂の起因を左に列記す

古阜の地勢 古阜郡は廿八村落より成り土豪多し土地肥沃
にして農産物に富み茁浦、鹽所、東津、沙浦の四港に積出し仁
川、釜山との關係極めて薄き土地柄なれと八道中一の樞要な
る箇所なり

古阜の郡守 姓は趙、名は秉甲と稱し夫の咸鏡道防穀令の
▣▣▣きて其名を知られし趙秉式の甥なり

▣▣▣失政 昨秋古阜地方は豐作なりしに秉甲は俄かに令
して防穀令を布けり而して自から親近の者に命して米幾千石
を買收せしめ▣利を博せじこと計るべからず且租米徵收に際
し虐政を擅にせり然れば十月の頃には旣に民心の動かんと
す▣▣ありたり

東津江▣の蜂起 韓曆甲午正月十日(我二月十五日)の事な
りき鷄鳴東津の滸に勢揃をなしたるもの五百ありたり各各竹
槍を携へ白巾を頭に纏ひ年齡十四五歲と思いき少年首領を始
め部下皆徒步跣足にて郡守の城門に闖入し其寢所を衝かんと
したり

趙秉甲の遁亡 是より先秉甲は其危難に瀕せるを偵知し單
身遁亡して鄭某の許に寄り其救護を求む某は郡下の名族なり
斯くて秉甲は服裝を變じて井邑に逃れ遂に全州監營(完營)に
投じたり秉甲監司に謀り一千の兵を借りて亂民を鎭壓せんと
す監司肯んぜず直に之を韓廷に報じて其指揮を待てり此際亂
民に加盟せし村落旣に十有五、全軍一萬餘に及びなり

亂民の三首領 曰く全明叔曰く鄭益瑞曰く金某(三人の姓
名に疑ひあり姑く之を存す)而して明叔最上位に居り鄭、金
の二名は之に佐たるものゝ如しといふ

●京城の兵備 京城には米國軍官二名の敎練に成れる洋式
常備兵五千人あり內二聯隊はレミントンライフルを携帶し別
にガフトリン砲とクロツブ砲一門を備ふる砲兵隊ありと云ふ

●朝鮮の武官制度 朝鮮の官制は東西兩班に分ち東班を文
官とし西班を武官とし文官を主として武官は之に附▣せるも
のゝ如し兩班共に位階を正從九品に分ち西班には又陸軍水
軍の目あり兵馬節度は我師團長、水軍統禦使は我鎭守府司令
官とも云はるべきものとす而して皆文官なる八道の觀察使の
兼職としあるより觀察使は一道に於ける兵馬の實權を握れる
なり一道に水陸を合せ平均六七十人の將校、千人の兵卒(全
國に凡そ一萬人)ありと稱するも皆儀式上の官制人員にして
信憑するに足らず又軍用船は戰船、防船、兵船、同候船等類
を分ち全羅道には合計二百二十三隻を有するも是亦木片を以 て釘に代用し板を組合せたるものにて幾ど使役に堪へざる觀
ありと云ふ今日朝鮮の內亂に際し其兵備の一端を▣ぐれば此
の如し

●東學黨京城に入るの進路 同黨の京城に入らんとする進
路なりと云ふを聞くに石城より公州(忠淸道の首府にして監
司の居る所、監營あり兵士四五名駐屯す)に出で錦江を渡り
溫陽、豊城、天安、稷山、振威、水源(舊王都)龍仁、果川、始興の
各鄙邑を經て漢江の岸に出で麻浦或は龍山を渡り直は南大門
に向ふの道を取るより外に便路なしと云へり然れば曾て報ぜ
し如く官兵は此街道筋なる天安に於て東軍の侵入を防禦ぜん
とする者なりといへり

●東學黨大將の號令 東學黨の大將なりと云ふ李氏は此程
各部隊長に對し訓令する所あり今其十二條の軍號なるものを
聞くに左の如し

降者は▣▣▣ 順者は敬服し 困者は救濟し 飢者は之に饋り 貪者は之を追ひ 奸猾は之を息め
貧者は賑恤し 病者は給藥し 不忠は之を除き 不幸は之を刑す

右の條條は吾儕の根本なれば若し此命に遠ふ者あらば之を地
獄に囚すと云ふ

●老將軍 賊徒中一の老將軍あり姓は朴にして齡八十七初
め靈嚴郡に於て子弟の敎育を職とし郡民の敬重一方ならざり
しが郡守閔民の虐政日に甚だしく或は人の妻を犯し又は妙齡
の女を奪つて妾となし無名の稅を課し無辜を殺す等其の狂暴
至らざる無く民の疾苦默視すべからざるより朴は一日誠意を
盡して閔に匪政の改良を勸めたれども閔は之を肯ばざるのみ
ならず却て痛く朴氏を辱かしめたるより氏は勃然として郡守
の廳を去り家に歸らずして先づ郡民を集め郡守と問答の始未
を報じ是より爲すべき策如何と協議したるが、事玆に至ては
最早穩和の手段を取るの要無しとの說多く結局兵を擧げて郡
守を殺し終に現政府を計滅して更に良政府を組織するに如か
ずと爲し朴自ら將として直に一撥を起し郡廳に迫りて閔を捕
へ寸斷して軍神を祭り夫より接近せる各地を打靡け終に東學
黨と結托して出沒變幻極まり無く今は一方の大將となり▣策
して當らざる無く戰つて勝たざる無く驍名四方に森けり

●若將軍 賊中一箇の少年將軍あり姓は張にして年僅かに
十四、光陽の産にして其父は固と相當の官職に在りし者の由
なれども意見現朝に容れられず曾て暴虐は亡國の素なりとて
痛く上官を爭▣罪を得て刑獄に投せられ悲憤の餘り頓死せし
者なるが其子張は能く父志を繼ぎ鄕黨を集めて亂を起し是亦
今は東學派一部の將として勇名全道に高く到る所衆人の尊敬
を受居れり

●鬼神賊中に在り 賊中一人の猛將あり官の諸軍之を呼ん
で鬼神と爲す、彼は翼無くして能く天に翔る者か到る所の戰
として出陣せざる事とては殆んど無く彼は最も射擊に長じ屢
屢敵の隊將を殺すのみならす動もすれば銃砲弓矢を手緩るし
とし大刀を打振て敵陣を侵し當るに任せて斬到し忽ちにして
死屍堆を爲さしむ故を以て彼の過る所敵ある事無し鬼神の名
決して其故無きに非すと云べし而して該猛將の事に付官事內 に流布せる風說中には最も驚くべきものあり卽ち彼は等しく
白衣を着け白布を以て頭部を掩ひ其裝ひは全く東學派の如く
なれども實は日本人なりと(因に記す賊中 日本人混じ居る由は豫て聞く
所にして特に右の如き噂もあれば我社在韓の探訪員は該地に
在る公使館及び領事館に就て其虛實を問合ぜ又本社に於ても
其向向に手を廻はして充分の探究を遂けしかど何分にも與し
易からざる、賊徒の事とて果して如何なる人物が其中に混じ
居るやは確め難く只緣も無き朝鮮の內亂に帝國人民の加はる
べき道理無しとの推測上より左の事はあるまじと云ふのみに
て固より斷じて之れ無しとは云ひ難し特に該地方は絶へず我
行商人廿人內外宛入り込み居たる所にして又該地方には屢
我漁業者も往來し二三無賴漢も出沒すとの說を耳にせし事も
あれば愈よ以て其虛實判じ難く或は之れ日本人にあらず日本
人の子孫と稱せらるゝ朝鮮人ならんとも云ひ風說區區にして
今に事實の眞相を知るに由無し

●招討軍中支那人あり 頃日朝鮮より歸りたるものゝ言に
依れば朝鮮政府より派遣せし招討使が率ふるものゝ中には支
那の水兵加はり居り十四五名づゝ二組に分れ相當の指揮官と
なり居るは事實なりと云云

●田中次郞の爲人 東學黨中に日本人田中次郞なる者あり
今同人を知れる人の語る所によれば同人は群馬縣前橋の人に
て第一期の士官學校を卒業し爾來昇進して陸軍大尉となり監
軍部の傳令使に任ぜられ支那語及び佛語にも通じ膽力豪毅な
れども品行不正加ふるに負債の爲め軍人の面目を汚すの所行
ありしを以て四五年前終に免官せられたるため一時は頗る▣
魄して東京ホテルの小使と迄なりたる事ありしが三四年前よ
り朝鮮內地に入込み或る商店の番頭となり居りしは事實なり
といへり

●朝鮮在留の日本人 雞林の風雲轉た急なり此安危關心の
地に我同胞の在るもの幾許ぞ最近の調査に據れば左の如し

仁川 (明治二十六年十二月現在外務省調)
戶數 四百二十六戶
人口 二千五百零四人 男千五百三十人 女九百七十四人
釜山 (九月現在)
戶數 九百七十五戶
人口 四千五百五十人 男二千四百八十七人 女二千零六十三人
元山(同六月現在)
戶數 百七十二戶
人口 七百六十四人 男四百八十五人 女二百七十九人
京城(明治二十五年末現在)
人口 七百四十一人
合計

以上官府の調査に係り確實據るべきものなるも爾來若干日月
を經過したれば幾分か增加せしこと疑なく且在留▣の定まり
し外一時在留せるものあるべければ右の數よりは幾分か多し
と見て可なり

●農工商買の喜悅 朝鮮に置ける官民の懸隔は文明人士の
想像に及ばざる處殊に官吏は權威を以て富饒なる農工商賈の
資財を徵發して自己の▣▣を富すを常とす故に農工商賈は蓄
財の心に乏し否蓄財の必要を感ずるも奸臣虐吏の徵發を恐れ
て餘財を浪費する癖あり然るに東學黨の起るや農工商賈は其
の私財を獻じて運動を助け以て閔氏の政府を顚覆し爾今財産
の安固を計らんとて頗る今回の暴動を喜び居れり

●說學の朝鮮士族 東學黨の猛威を逞うするは旣に隱れな
き事實なるが曩に十五年の髮亂に方り閔族の誅を免れ咸鏡道
に脫走せし千餘名の士族が黨中に加はり居らずやとの說あり
萬一斯かる事ありとせば此士族輩は軍事に精練なるもの多く
刀鎗銃砲の使用に熟し居るものなれば由由敷き大事なりとて
閔族の心痛一方ならず目下其方面に細作を派し居るよし流傳
ありと明石丸便にて京城より當地の或方に達したる書信の端
に見えぬ

●靈光賊營の軍令狀と戒軍令 靈光占領の賊徙は先づ此
所を本據として各地の徒黨と氣脈を通じ終に京城を衝かんと
し豫め諸軍に對し戒軍令と軍令狀を示して曰く

◎軍令狀

東道大將令を各部長に下し約策す、凡敵に對するの時刃
に衄ぬらずして勝つ者を以て首功とす已むを得ざるの戰
と雖も切に人命を傷ふこと無きを以て貴しと爲す、行陣の
時に於ては切に人の物を害ふこと勿れ、孝悌忠信なる者の
居村は十里以內に▣住すること勿れ

◎戒軍令

降る者は愛撫せよ 順ふ者は敬服せしめよ
走る者は追ふこと勿れ 逆ふ者は曉諭せよ
困む者は救濟せよ 病める者は藥を給せよ
貧る者は之を遂へ 姦猾は之を息せよ
不忠は之を除け 不孝は之を刑せよ

●淸國出兵の目的何如

居留人民の保護と東學黨往伐の爲めならば五百か六百の兵士
を差向くるのみにて足るべきに數千の兵士を派出するを見れ
ば或は他に深き目的の存するにはあらざるかとも傳ふ記者は
今此說に對して俄かに判斷を下し難しと雖も兎に角東學黨に
は有力なる尻押ありとの說も流布し强ち無根の風說とし見難
き事情も存し居りて危機一髮或ひは東洋の大亂を惹起さんも
計り難き場合なれば此際淸國の一擧一動は我邦人の最も注意
すべき事なるべし

●朝鮮出張の淸兵 は彼の李鴻章氏の管轄に屬する威海衛
及び大沽▣(屯)在兵にして何れも洋式の訓練を受けたるものなり

●朝鮮內亂の別報

一朝東學黨の叛旗を飜ずや風を望んで來り應ずる者甚だ多く
連戰連勝殆んと一潟千里の勢ひを以て全邏大半の要所を占領
するに至れり故に今日古阜石城等に於ける兩軍の勢ひを察す
るに賊軍は日夜に其勢力を倍し官軍は日夜に其勢ひを沮喪す
るの有樣にて到底官軍の勝利は覺束なきものゝ如し殊に賊軍 は地方富商豪農の爲めに夥多の金穀を貯へ糧餉には毫も差
支なし只只困難なるは軍器の破損を修補するに道無き事と其
不足を補ふの術なきにあるものゝ如し但し軍中には大工其他
技術に巧なる者もありて木砲弓箭等は自在に製造し又例の投
礫術に長じたる者七十餘名一手になり接戰の際よは必ず先登
して官兵を惱ます由なるが其術の巧妙なる四十間以內の距離
に於ては百發百中一として之を誤るなく現に石城の接戰には
三十餘名の官兵を斃したる由又其戰隊を分つ事左の如し

砲銃隊 鎗隊 弓隊
投礫隊 斥候隊 騎兵隊
輜重隊

此他會計、糧食、醫師等の備充分にして之を官軍に比すれば其
勝る事數層なりと云ふ又爰に一種の怪說あり曰く東學軍の猛
烈なるは云ふまてもなきことなるが其神出鬼沒實に不思議の
幻術妖計を運らすは全く神佛の應護に依る現に彼等の先陣に
はイツも影の如く又烟の如き一個の將軍現はれ軍扇を以て東
學軍を指揮し其進退掛引をなす實に陽炎稻妻の如し右は神佛
に非らざれば彼の金玉均の靈魂ならん抔種種樣樣の怪談妖言
を傳へ甚しきは王父大院君夜に乘じて賊軍の陣頭に赴き祕計
▣▣を▣▣て進退せしむるが如く風說する者さへあり其今日
の▣▣▣く我十年西南戰爭の時と同樣老幼婦女子に至るま
で日夜戰爭の▣にのみ日を淸しつ、あり云云

●賊徒鄭某を立て王と爲す 李氏の世五百年にして終るべ
しとは朝鮮全國に流布せる讖語にして而して今や李氏王位に
就てより正に五百三年を經たり而も紀綱上に弛びて政令正し
からず風敎下に亂れて人心腐敗し上下只私利あるを知て國を
思はす之れ豈李氏亡ひて他之に代るの時にあらざるがとは一
寸何人の心にも浮び易き妄想なるべく況して亂を起して以來
四方を風靡し徒黨の集まる者日に多く向ふ所敵無く戰つて勝
たざる無き賊徒等は如何で此勢ひに乘じ彼の讒言を實にせん
とせざるべき卽ち忠淸道の某地に住ゐして時を待ちたる鄭氏
の遠孫某を立てゝ王と仰ぎ崔時厚以下重なる黨員血を啜て臣
子の約を爲し益奮つて官軍に當り終に王位を掌握せんと努む
るに至れり

●賊徒の檄文 此時に當り賊勢全道に振ひ到る所彼等の▣(屯)
集せざる地方とては無きに至りしかど只茂長附近の結合稍堅
からす依て彼等は例の說客を派して徒黨を募り尙ほ左の檄文
を發して四方の贊同を求めたり

人の世に於て最も貴きは其人倫を以てなり君臣父子は人倫
の大なるもの君仁に臣直に父慈に子孝にして然る後乃ち國
家を成し能く无疆の福に逮す今我聖上仁孝慈愛、神明聖叡、
賢良正直の臣賢を翼け明を佐れば則ち堯舜の化、文景
の治、日を指して希ふべし矣今の臣たるもの報國を思はず
徒に祿位を竊み聰明を掩蔽し意に阿り容に▣ひ忠諫の士
これを妖言と謂ひ正直の人これを匪徒と謂ふ內に輔國の才
なく外に虐民の官多く人民の心日に益す淪變、入ては資生
の業なく出ては保軀の策なく虐政日に肆に怨聲相▣す君
臣の義、父子の倫、上下の分、堕壤して遺すなし矣管子曰く 四維張らざれば國乃ち滅亡すと方今の勢ひ古より甚しき
ものあり矣、公卿より以下、方伯守令に至るまで國家の危
殆を思はす徒に己を肥し家を潤すの計に切にして銓選の門
視て生貨の路と作し、應試の場、擧て交易の市と作す、許多の
貨賂、國庫に入らず反て私藏に充ち國に積累の債有とも國
報を恩はず、驕侈淫昵、畏忌する所なし、八路魚肉、萬民塗炭
守宰の貪▣、良に以あるなり之を奈何ぞ民窮し且困まざら
んや、民は國本たり、本削らるれば則ち殘す、報國安民の
方を念はす、外卿第を設け惟だ獨全の方を謀り、徒に祿位
を竊む豈その理ならん哉、吾徒草野の遺民と難も君土に食
ひ、君衣を服す國家の危亡を坐視すべからず、八路同心、
億兆詢▣、今義兵を擧げ以て公に報じ治國安民、死生の誓
を爲す、今日の光景驚駭に屬すと雖も、切に恐動する勿れ、
各各その業に安んじ共に昇平の日月を祝し咸く聖化に沐せ
ば千萬幸甚

●京城と各地の距離 (日本里程)

忠州 廿四里三十二丁 公州 二十八里十六丁
淸州 廿五里二十四丁 洪州 廿六里二十四丁
林川 三十五里二十丁 泰安 十四里二十四丁
舒州 廿六里二十四丁 丹陽 卅二里三十三丁
韓山 三十九里四丁 汚川 二十七里二十丁
天安 十八里二十四丁 沃川 三十六里十六丁
槐山 廿四里三十二丁 大奧 廿四里三十二丁
瑞山 三十一里四丁 文義 二十九里十二丁
報恩 卅三里二十八丁  鴻山  二十六里十六丁 
稷山 十六里 懷仁 三十一里四丁
靑陽 二十八里十六丁 懷德 三十里八丁
石城 卅四里二十四丁 魯城 卅二里三十二丁
淸風 三十里八丁 牙山 十八里二十四丁
連山 三十五里二十丁 恩津 三十五里二十丁
結城 二十七里二十丁 鎭川 二十一里十二丁
燕岐 廿五里二十八丁 木川 二十一里十二丁
庇仁 三十七里十二丁 永春 四十一里廿八丁
全義 二十一里十二丁 保寧 三十一里四丁
永同 四十一里廿八丁    

●京城の人口 東學黨愈愈京城に迫らんとする今日同府の
人口を記するも亦▣者の參考となるべし左記は本年三月の調
査に係る者なり

朝鮮人凡四十萬人 日本人男四百九十二人女三百廿四人
支那人凡二千五百人 米國人男二十九人女二十九人
英國人男十一人女三人 佛國人男六人女四人
獨逸人男三人 露國人男二人女二人
璉國人男一人

●吉林の暴動 天津より府下の或處へ達したる電報に據れ
ば近日露韓の國境に接せる吉林に暴動起り其徙黨凡そ一萬五
千人に達し勢ひ頗る猖獗なるを以て天津より同地へ向け出兵
せんとする說風あり云云眞僞果して如何

明治廿七年六月十六日印刷
仝 年六月十九日發行

東京市神田區田代町九番地
岡田常三郞方

編輯印刷兼發行者 高橋友太郞

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