◎大院君と改革
七月二十三日王城の變後、太院君は再び出でゝ國政に
參與する事となりたれども其後更に君の施設を見ず事
情を知らざるものは皆之を訝れり抑も大院君の初めて
出るや必ず期する處之ありしならんと雖ども新進の黨
派は他の權勢を借り次第次第に蔓りたれば君は思ふ所
を行ふ能はず而して日淸交戰の勢を察するに日本軍初
めに利あるも後の失敗を免るべからず平壤の役の如き
兵數の上より見ても淸兵勝つべしと
の迷想は蓋し大院君の腦中
にも之ありしならんと云ふ傳說未
だ以て君の思想を判定するの效力に乏しと雖ども兎に
角に平壤に於ける淸兵大敗北の事實を漸く慥め得て韓
廷中守舊派の意向を初めて決したるは去月二十六日な
るが如しといふこは平壤地方の韓吏より切れ切れに達
する報道の日本軍大勝利と云はざるものなきを見て漸
く事實なりと了悟せしものゝ如く迂闊の極と云ふべし
又大院君と東學黨の關係を考ふるに同
君にしていよいよ力を新政府に致す事と決し書を移し
て東徒を諭さば彼の黨衆は必ず解散して復た紛擾を憂
ふるの要なからんそも前便中に一寸記しおきたるが如
く平壤の落城に先き立ち鄭雲鵬(太院君股肱の士)なる
もの東學黨に送るべき一書を作りて許曄なるものを使
として之を黨魁に致さしめんと企てたり此の書の大意
『中華は大兵、必ず平壤に勝
つべし華兵平壤に勝つて南
進せば其黨は衆を聚めて入
京倭軍を南北より夾擊して
以て大に逞ふする處あらん』
云云と云ふに在り曄は京を出でずして書を收められ雲
鵬亦警務(李尹用の指圖に依る)の爲めに捕縛せられん
とせしも捕吏の其家に至らざる以前旣に遁逃して影を
隱くせり此の書、虛實定かならずと雖ども兎に角に之
を以て守舊派の心底を洞見し得べし而して李尹用は此
の捕吏派遣の故を以て職を免ぜられたりと云ふ太院君
の意向亦察するに難からざるなり尤も尹用は太院君の
竊に疾視する新進派の徒と合して密議する處ありしか
ば兼てより目指され居たりしと云ふ
然りと雖も太院君如何に樞機を握りて勢威盛なるも今
日は又十餘年前の天地にあらざれば反對派に對して苛
刻無慘の事はなし得ざるのみならず日本に對して當初
より毫も隔意なかりし由を此程は頻に辨解し居たりし
となり今後の太院君果して如何、吾人の宜しく注目す
べき所なり