16篇
韓山改革の風雲 初め井上公使の國王に謁見するや、當日公使は決心する所あり、朝鮮國病根の伏する所を考ふるに、改革の 大君主卽ち國王陛下は、大に公使の參內を喜ばれ、『我上下は、此際同心協力、以て改良に從事せんと決心し、 此謁見は、單に國王への奏聞に止まらず、王妃は國王御座の背後なる密接の一室に在り、亦親しく公使の奏 本使熟熟王室の有樣を目擊するに、兩陛下には兎角憂心忡忡、始終何か御懸念せられ、事事物物、御疑惑 大君主は之に答へて、「然り、卿の言の如し、李埈鎔の事に就ては、朕頗る疑なき能はず、彼れは六月事變後 王妃 は此時公使に對し、言葉を更めて左の如く仰言あり。
丙子(明治九年)和約以前に在て、兩國の情意阻隔せるを患ひ、朴定陽を暗行御使として、東萊釜山に赴か 卿が奏せし如く、我國のこと何時何等の椿事を生じ、王室に如何の危險生ずるやも知るべからざれば、常に 公使は王妃の仰言を承りて、更に言葉を改め、『此際御不安心の處より、閔氏に御依賴相成たしとの御考も一 大君主は之を聞かせられて、『東學黨に閔氏が通じて隱謀を爲すとは、不可思議なり、如何となれば東學黨の 井上公使は十二月八日の內謁見に於て、種種意衷を吐露し、且つ閔族の王宮に出入するを止めんことを言上 公使は是に於て「右樣の人物が王宮內に出入し、其探偵等を御信任あるは、終に疑惑を生ずるの種子なり。 公使は更に奏して曰く、「今や東洋の大勢を通觀するに、支那は內部の腐敗よりして、今日の交戰に連戰連 大君主中宮は、大に喜ばせられて、「卿にして同人を信用すること、此の如くんば、朕亦何ぞ疑を存せんや、 大院君の非望野心は、一朝一夕にあらず、王妃を廢して世子に及び、愛孫李埈鎔をして、代つて世子たらし かくて井上公使謁見の後、風雲は格別の異狀を呈せず、朴泳孝任用の事、李埈鎔氏使外の事著著步を進たり。 李埈鎔は中心出て外に使臣たるを好まざるにや、將た大院君の李を外に遣すを忌む爲にや、其後李は人に向 扨井上公使は、十二月十九日、午後二時に、又も參內して謁見を得、大君主より種種の御諮詢に預りぬ。大 是より公使は軍務衙門の組織、竝に軍隊の敎育に關して、一言致すべしとて、大要左の如く奏せられしよし。 扨軍務の行政と軍隊の命令との間は、自ら相貫連すと雖ども、其事務は區分せざるべからず、軍務衙門大 貴國の兵隊に付て、委しくは承知せざるも、恰も日本舊藩時代の士族と、稍稍類似せるものにして、一旦 陛下が全國の兵權を掌握して、國の大元帥たるべきは、前に述べたる如し。次に世子宮なり。宮は陛下萬 大君主は篤と公使の上奏を聞召されて、實にもと存ぜられ、「軍務上に關する一切の事柄は、卿の意見に從ふ 今陛下堀本中尉の訓練の功を半途に絶ちたるを歎ぜらるゝも、彼時の兵にして精練せられたらんか、壬午の 是れより談は宮內改革の事に及びぬ、大君主の曰く、「弊政の改革先づ宮內より始めざるべからず、因て內侍 大君主は、是れより冬至日に宗廟に行幸して、誓文式を擧行したる後八道臣民に向て、右誓文を發表すると、 此時大君主は、榻上に於て我宮內省官制の飜譯書を開き、本使に向て外事課とは如何、文事祕書局とは如何 公使は世子宮の御健康を氣支ひ、兎角御柔弱に在すは遺憾に堪へず、充分療養を加へられ、速に强壯に涉ら
事到底成功の望なし、是非に念斷せざる可からずと、再三再四推返して奏上に及び、退出したるが、其の後
金總理大臣を始め、他の四大臣は、數度我公使館に來り頻りに公使の回慮を促し、其の請望の切なる殆ど强
談に涉りしことあり、五大臣の誓約新條目を添へ、此の如く決心したりとて、更に烈しく迫るにぞ、公使も
漸く其意の切なるを察し、之に同意を表し、改革に從事することを諾し、卽ち十二月八日に於て內謁見を請
ひ、更に意衷を吐露することゝはなりぬ。
最早斷じて動かず、幸に卿も亦た此大業を贊畵せらると聞くは、朕の誠に滿足する所なり』と、仰言ありて、
陪坐の金總理、李宮內、金外務、魚度支、趙軍務等に姑く退出を命じ、公使を御側近く召さる。是に於て公
使は天顔近く進み、五大臣の誓約書、竝に政府の職務權限に關する條目書を、榻上に繙き、其文字の意義に
付き刪正すべき點、竝びに一項を加ふべき理由を奏上し、陛下は一一道理なれば、然すべしと御答へあり。
言を聞かる。乃ち井上公使は、先づ『本日は充分祕密を保たれ得ることと存ずれば、本使は飽くまで赤誠を
吐露仕るべし、兩陛下に於かせられても、何卒虛心平氣に御聽聞あらんことを』と陳奏し、更に言葉を續ぎ
て曰く、
の種子とならざるなきやと拜察せらる。(大君主王妃共に然りと宣ふ)其次第は、大院君の孫李埈鎔は、本
年六月廿一日(我七月廿三日)の事變後、屢屢大鳥公使杉村書記官に向て、廢妃のことを論じ、我公使の同意
を得ざりしかば、却て己の謀計を知られたるを悔い、之を相疎するの念は、一面に大院君をして、書信を
送り、好みを淸人に通ぜしめ、一面に東學黨を敎唆して、內外相合し、日本兵を逐斥し、後已れの非望を
逞しくせんと計りし證跡は、東學黨への往復書翰等に徵して、歷歷として存せるなり。去れば啻に廢妃の
一事のみならず、或は世子の位を動さんとの心もありたるならん、此等の密計は、何時か兩陛下の御聞に
も達し、多く聖意を惱さるべきは必然、(大君主曰く然り)又朴泳孝の歸國せし砌に行はれたる風說も、亦
御驚動の種となりたらん。(大君主曰く然り然り)此の如くして兩陛下の御決意を沮喪せしむるの結果、中
宮には、第一族卽ち閔氏を援いて、以て不意の災禍を避けんとせらるゝに至るものならん、畢竟するに兩
陛下の御身上、孤獨の姿にして、賴み少ければ、成るべく信用するに足るべきもの、卽ち外戚に依賴する
と云ふことに推移りたるならんと拜察す。(大君主中宮皆曰く然り、)御心痛は御無理と申さず、乍倂閔氏が世
道として、國政を主宰したる當時は、如何なりしや、閔氏は多く無辜の良民を驅て、悲慘の境に沈め、其
生命財産を奪ふが如き非道を行ひたる、是れ亦事實の分明なる者にして、之を列擧すれば、其證も亦歷歷
たり。(公使此の時其事實を列擧す)兩陛下は、當時閔氏は正當の國稅に據り、宮內の需用を充すものなり
と思召し玉ひしならんが、其實は皆右の如く不正に得たるもの故に、民間の感情は、直接に閔氏を怨むも、
其結果は間接に宮中を怨府とするに至るなり。去れば今の時に當り此等閔氏に賴らんと欲するの御思召あ
らば、是れ民心をして此上にも王室に怨を深からしむるものなり。事玆に至らば、兩陛下は何に由て、安
全を得らるべきや、本使が旣往に於て、屢屢奏上致したる如く、中宮には只只宮中に在して、大君主の德
を輔け、內政に干與せらるゝが如きことなきに於ては、本使は飽くまで兩陛下竝に世子地位の安寧を保護し
奉るべし。去ればとて本使一個人としては、何等の力あるものにあらざれども、本使は卽ち日本國を代表
するものなれば、此の日本政府の有する勢力は、必ずや兩陛下をして安固ならしむるに足るべしと信ず。
切に朕に告げて云ふ、日本公使は廢妃に意あり、且つ彼の心事測られず、或は朝鮮の國土を奪略するの意な
しとすべからず、宜しく其擧動に注目し、苟も輕率の擧あるべからずと。朕は當時深く彼の奏言を怪みたれ
ば、之に向て否日本政府は去る惡意あるものにあらず、我獨立を助けて以て富强に導かんとするものなれば
何の懸念もなかるべしと語りたるに、彼れは曰く、否否、臣公使館の內幕を察するに、隱然野心を挾むもの
切望にて、餘義なく之を容れたり。同人を日本公使に任じ、駐箚せしむべしとの卿の言、尤朕の心を獲たれ
ば、追て左樣することとせんと宣はる。
しめ、竝に朕が一族閔承鎬をして密旨を附し、慶尙道に至り情を探らしむる等、熱心に日本との交誼を溫
めんとせり。然るに此等の風說は何時しか斥倭主義のものを刺戟し、終に隱謀を企てたるものありて、一
夜の中に朕が家三代は火藥爆發の下に殪されたり。(記者曰く王妃の實父閔致祿父子の居室床下に火樂を爆
發せしむるものありて一家之が爲め亡ぶ。)然れども丙子に江華に彼我全權の會同ありて、兩國の媾和俎豆
の間に成り、朕及び朕が一族の希望も、終に達するを得たり。夫れ此の如く朕が貴國との交際を親密なら
しめ、因て以て我國の富强を圖らんとせしは、一朝一夕の故にあらず、今や卿我國に就て、大に盡す所あ
らんとす、何の幸か之に如かん、朕は卿の奏言に從ひ、敢て內政に干與することをなさざるは勿論、朕は只
管內政の改革着着步を進め國家の隆盛に赴かんことを希ふなり。
危懼を抱くの餘り、知らず知らず種種の疑惑を生じ、女性の淺間しさに、漸く同族の庇保を必要とするの念
を起さしむるに至れり。若し王室にして萬全を得、始終安寧なるに於ては、何の要ありて外戚をして、國
務を掌握せしむべきや、卿幸に之を諒せよ。
應去ることなれども、如何せん、貴國の臣民は、擧げて閔氏が從來慘酷なる施政の行爲を厭惡すれば、今再び
閔氏を陰に王宮に引き入れ、密議を凝さるゝが如きことありては人心疑懼、延て王室の安全を妨ぐるに至るべ
し。且つ本使が聞く所に依れば、閔氏の或者は東學黨を敎唆して、旣失の權力を回復せんとするものあり』
とて、密に王宮に出入して、種種の手段を施すものゝ人名を記載したる紙片を取り、國王の御覽に供す、閔
炯植、閔應植、閔泳韶、閔泳煥、閔泳達、沈相薰、李載純、李耕植等の氏名、其中に在り。公使は『其中に
も閔泳韶は玄興澤、金主事、李寅榮、金學均、金鴻陸等諸人を使嗾して、各公館との間を往來せしめ、又閔
炯植、閔應植、沈相薰等は東學黨を敎唆す』と補述す。
起るや、彼等は揚言して閔氏は國賊なり、之を殪さざるべからずといひ、東學黨と閔氏とは氷炭相容れざる
ものなればなり。此の兩者が相結托して、隱謀を逞しくせんとするが如きは、有得べき筈なきに似たり』と
宣はれ、公使は之に對して『東徒の始め起るや、或は口實を此に借りたるならん、然れども本と是れ一の不
平黨のみ、閔氏の一旦政權を失ふて、一門不平を抱き、野に散在するや、乃ち不平と不平と意氣相投じたる
ならん』と言上す。大君主は『或は然り姑く其動靜を察せば、其手掛を得ん、而して閔泳韶は嬪殿(世子妃)
と叔姪の間柄なり、閔泳煥は中宮殿と從兄妹なり、李載純は王族なり、其等の關係よりして每に王宮に出入
すること多し、▣去此等の者出入するが爲め、一般の感情を害するの恐あらば、爾今之れを止むべし』と申さ
れぬ。
されしが、大君主は自今之を止むへ
卽ち內宦の言を眞正と御聞込ありて、各大臣又公使等へ御內意を通ぜらるゝが如きは、宮廷の祕密と秩序と
を保つ上に於て、甚だ害あり、一例を擧ぐれば、過日本使が入謁の際に於て、國政の改良は到底望みなしと
斷言して退出したる翌日、宮中內宦の使者なりとて、或るものは英館に就き日本公使の怒氣を解くの途なき
やと語りたる由、想ふに是事の如きも、大君主より御申付か、又は內宦等が御憂色を見て、自ら命を矯めて
此に至りたるならん」と奏したるに、大君主は「然り其に就き思ひ合すことあり」と宣ひければ、公使は更
に進みて、「之を聞く、大君主竝に中宮は、是迄入侍の主事等を、相手に各館に直接往來せしめ、外交上の
事柄を密議せしめられたることありとか、若し當局者たる外務衙門を差置きて、君主自から外國使臣と公涉せ
ん乎、是れ外國に向て、陛下が大臣に御信任なきを表白せらるゝに同じ、又其事柄の次第にては、之がため
一場の大困難を生すべきなり」と申上たるに、大君主は中宮と言葉を揃へ、「成程從前は左の事なきにしも
あらざりしが、以來は屹度謹むべし」と御斷りあらせらる。
敗し、殆ど收拾す可らざる境遇に沈み、最早之に賴るも其效之なからん、果して然らば、貴國は何れに賴る
べきやと云へば、我日本に賴るを最大得策とすべし、日本も亦從前よりの好意を續け、成るべく御世話をな
すは、當然なり、然れども貴國に於て、終始疑惑の淵に彷徨して、却て我の歡心を失ふ如き擧動あらば、竟
に日本の好意も、水泡に歸せざるを得ず、譬へば此に一女子ありと假定せよ、其婦人は數多の男子に向つて、
愛を割き媚を呈するとせんか、終に能く一男子の爲に欣はれざるべし國の事亦是れと稍相似たるものあり」
と、大君主曰く、「誠に卿の言の如し我君臣上下今は唯唯貴國に依て國步を進めんと期するのみ豈他意あら
んや」と、此時王妃は何か國王に耳語せられしが、國王は語を更めて、「朕近日朴泳孝を採用するに意あり、
卿の考へは如何」と言出でられしかば、公使は「朴の身上に關しては、本使より奏請する所あらんとせしに
陛下より先づ寬大の御言葉ありしは幸なり」と申上げ朴が多年他國に流寓し、幾多の辛酸を嘗め、心膽を鍊
り、經驗を積み、其間國家を憂へて、殆ど寢食を安ぜざりしこと、歸國の際、小人に離間せられて、一頓挫し
たること、公使着任後、屢屢朴を招き、其意志を叩き、且つ朴は日兵を借り、王宮に入り、王妃を廢したる上
に非ざれば、改良の效擧らざるべしと口外したりとの風說あり、果して眞なる乎を尋ねたるに、左樣の事は
神明に誓ひ口外せしことなし、何人か離間の爲に申し觸したるなりと顔容を更へて、辯解したること等を述べ、
此國家多事の時に當りて、斯かる人物を採用せらるゝは、頗る有益の事なりと信ずと奏したり。
乃ち大臣に命じて、復爵任用の義を取計はん」と宣ひたり、公使は滿足の旨を答奏し、「將來同人が必ず王
室に誠實を盡して、決して異心なきは、本使敢て兩陛下に向て、御保證仕るべし、又復爵の上は、速に兩陛
下とも謁見を賜はり、旣往のことは論ぜず、自今國家の爲め、誠忠を抽づべしとの御言葉を賜はらば、同人は
兩陛下の恩德に感泣して、必ず一身を擲ち、王室に盡すべし、猶甲申の事に關係ありし人人は、殘らず御赦
免ありて兩陛下の寬大なる特典を仰がしむる樣に願はしく存ず」と申上ぐれば、大君主中宮は御言葉を揃へ
られ、「朴泳孝を赦し、復職せしむる以上は、其他も亦然せざるを得ず、又朴泳孝は國例に據るも、復爵後、
肅拜を受くるの例なり、殊に同人は駙馬の待遇を享くる身分なれば、朕は早速召見すべし、又中宮には同人
の幼時より親しく育長せらたる緣故もあれば、一刻も速に召見を望まるゝなり、已に昨日玄興譯をして、禮
服の胸牌(品位に因り差等あり)を贈與せられたるに、同人は落淚して感領せりと云ふ」と宣ふにぞ、公使は
「猶充分同人に申聞すべし、兩陛下の恩遇に感泣し必ず兩陛下の安泰を計り奉るべし」と奏し、兩陛下は「今
日卿の奏言は大に朕をして釋然たらしむ」と仰言ありて、猶「泳孝を採用する以上は、卿が多く同人に忠告
帮助せられんことを煩す」との御依托あり、公使も亦滿足を表して退出したり。
めんと企てたるや明かなり。故に我が井上公使は前日の謁見に於て、王位の繼承と王妃の安全を擔保し、又王
妃が陰に陽に閔氏を庇保して、之に依賴するは、直ちに王室をして、人民を怨府たらしむべき所以を些の餘
蘊なき迄に縱說橫說しければ、偖は從來暗中摸索爲す所を知ざりし國王王妃も頓悟一番日本公使にあらざ
れば夜も日も明けぬと云ふ有樣とはなれり。
朴は我公使館に來り、井上伯より厚き叡慮を承はりて感泣し、君國のため、誓て一身を犧牲にせんと述べたる
よしなるが、其舊秩を復せらるゝや參內して國王、王妃、世子に進謁し恩を謝し、「臣料らず 聖明の丕德を
荷ひ、今日再び天顔に咫尺に拜す、死して憾なし、敢て一身を邦家に捧げ、報效を圖らんとす」と奏し、歔
欷流涕、感淚止めもあへず、國王も亦其赤誠を嘉せられしとぞ。
て、「予は切に日本公使たらんことを希望するも、中宮之を好ませられず」など言觸したりといひ、又た大院君
は、公使謁見の節、國王と談、李の派遣に及びたるを如何にしてか漏傳し、國王に迫り、外國使臣と內輪の
相談をなして、却て內輪の自分と相談するを避くるは如何など、不穩當の語氣もありしかと聞きぬ。
君主は朴泳孝一昨日參內せりとて、其容貌の著しく從前と異なる所なきこと、久しく日本にありて、知識を弘
め經驗をも積みたりと思はるゝこと、日本語に通ずるが故に、時時召見して諮詢し、竝に公使に打合はさしむ
等に、便宜大なること、其謝恩報效の奏言、涕淚を帶び、一一赤誠より發し誠に賴母しく感ぜられしこと、從
て遠慮なく直言極諫すべしと申聞けたること等を仰せられ、王妃は大君主の背後より朴の邸宅は已に準備を爲
し置きたれば、何れ下賜すべしと語らる。是れ同人は前代國王の駙馬にして、其邸宅は王家より下賜するの習
慣なるに因るとぞ、公使は 「兩陛下が同人の前過を赦さるゝさへ、寬仁の御沙汰なるに、今は却て之を厚遇
せらる、同人は唯唯感泣して王家の爲に粉骨碎身すべし、兩陛下已に此の如く臣僚を優遇せらるれば、貴朝
廷安ぞ忠臣なきを憂へんや、朴の氣質として巧言非を飾り、甘言媚を呈すること能はざるものなれば、或は
硬直にして忌諱に觸るゝを憚らざることもあらんと察せられば、兩陛下にも其思召にて、同人に充分倚信あら
せられ然るべく存ず」と奏し、夫れより李埈鎔の談に移り、中宮其出でゝ公使たるを好ませられずと、本人
の申しゝよしを聞え上げたれは
し」と仰せあり。大君主は右公使として派遣の事を、李の父たる宮內大臣に勸誘し、同人より轉じて大院君
にも納得せしむる樣致されしと望まれ、公使は之を畏まりぬ。
此度四營門を全廢し、其事務は總て軍務衙門の管轄に歸せんとするは、是れ軍事の改革上、尤も必要なり
とす。凡そ一國の兵制は、一途に出で、號令の出づる所區區なるべからず、現今貴國の如く四營に分れて、
互に其主將の爪牙となり、時に或は其陰險の術を遂ぐるの利器に供せらるゝは、是れ兵の大弊にして斷じ
て防止せざるべからず、一國の兵權は君主大元帥として之を收攬し、他の操縱に任ずべからず、唯唯凶器
なるを以て輕しく動すべからず。陛下と雖も先づ政府の大臣に諮詢したる後にあらざれば、動かされざる
樣致され度きのみ。(大君主曰く、然り勿論)
臣は軍隊上に關する行政事務、卽ち軍隊の編制、被服、兵器、糧食、將校の進級と云ふが如きことを管掌
し、參謀官は兵士の訓練、敎育、作戰計畫の如きことを管理し、兩者相待つて軍事は完全を期すべきなり。
就ては本使は此二者に對し共に適當なる人物を選び、貴政府の顧問に供へんとす。卽ち公使館附楠瀨少佐
は佛、獨、露の諸國を經歷し、多く軍事上の經驗を有するものなれば、之をして軍隊の敎育、作戰上に關
する方面に當らしめ、別に一人軍務上に經驗あるものを以て、軍務衙門の顧問とし、專ら編制組織に關す
る取調を爲さしめなば可ならんと存す。
兵籍に入りたるものは、之を子孫に世襲すると云ふ習慣あるに似たり。故に今般の改革に當りては、其中
壯丁の合格するものを選びて、兵役に充て、其老朽用に堪へざるものは除かざるを得ず。而して之を罷役
するには、卽ち何月分の給料を一時に支給するか、或は祿券樣の者を附與すか、何にしても此等の多數
が一時に飢餓に迫らざる丈の措置は施さゝるべからず。而も彼等の不平心は結んで、終に他の不平黨に投
じ、王家を怨望して、又一の悶着を起す種子となるべし。之に反して政府充分の措置をなしたる後、猶敢
て不義を企て名分を誤るものあらんか、其時は大に懲罰を加へ、場合に依らば兵力をも用ゐべし。
歲の後、代て大元帥の任務に當らせらるべきものなれば、今より身躰の御强壯を努めらるゝは勿論、軍務
上に於ける學問より實地の職務を御實踐あらせられざるべからず。(大君主曰く、貴國の近衛大將は、親王
なりと聞けり)。然り貴國現今の事情に於ても、近衛總督は世子自ら任に當らるゝこと最も適當なるべし。
左すれば王宮以外の宗戚、何人も自己の意思を達す爲め、兵權を操縱するの恐れなく、王室の鞏固を保つ
に於ても、最も適當の方法たり。凡そ軍隊の事は、士官の養成を第一とす、良士官ありてこそ勇壯活潑な
る士卒も其動作をなすことなれ。淸兵は一個人として左程弱きものにあらざれども、如何せん之を率うる士
官が軍事上の敎育なきと、紀律嚴肅ならざるとに歸因す、其我邦と交戰して、連戰連敗、曾て一回の勝を
も得ざるもの、職として是れ之に由らずんばあらず。
べし、楠瀨少佐等を顧問たらしむる事も同意なり、又世子をして近衛總督ならしむることは、事躰然らざるを
得ず。就ては世子にも來春早早より軍隊の職務に從事せしめ、士官學校の如きものを、王宮の近處に設置し、
士官生徒の養成を爲さしめ、世子にも之に臨み自ら士官生徒と同樣の敎育を受けしむべし。近衛兵の組織に
關する事柄に就ては、又願くは公使を煩さん、回顧すれば去る壬午の年貴國より、堀本中尉を聘し、我士官
生徒及び軍隊の訓練を受けしめたることありしが、若彼時より引續き今日に至らしめなば、我軍隊も長足の
進步を見しならん。纔に一歲ならずして廢止せざるを得ざる機會に遭遇せしは、返す返すも殘念なりし」と
宣ひ、公使は「根柢を培はずして、枝藝の繁茂を求むるも、其竟に枯死せざるもの幾ど稀なり、軍隊の訓練
亦然り、兵權は擧げて宗戚に屬し、若くは一二の武臣に委して▣ざるに於ては、軍隊の發達すればする程却
て危險なり。
變、甲申の亂其慘毒は、何等の點に達したるやも知るべからず、此の訓練の中途にして止みたりしは、不幸
中の幸なりしやも知るべからず。本使は只管國家の爲に兵權の他の操縱に委せず、必ず大元帥卽ち陛下の掌
握に歸せんことを望む。又世子宮の近衛大將として軍事に慣熟せられんことを要するの意も、陛下萬歲の後、
裨益あらんことを欲し、王家百年の計を思ふに出づるなり」と答ふれば、大君主は之を頷き玉ふ。
の內宦を悉く廢遺したるに、頗る不便を感じたり、內侍の職務は三殿(國王、王妃、世子宮)に近侍して、內外
の使役に供するものなれば、一旦之を廢するや、忽ち使役に差支へ、藥を服せんとするも、命ずるに人なく
溫突室に火を燃かんとするも、使役に供するものなく、殆ど困却し、昨夜の如きは、朕自ら出でて溫突を燒
き、藥を命ずる等、君主と使丁とを兼る始末にて何とも可笑し、君主が此の如く不自由を爲すにも拘らず、
大院君の處には召使も隨分多きは不權衡と思はる」と。公使は其改革の極端なるに驚ろきたり、本使は曾て
此の如く突然改革を實行せられたしとは申上げず、凡そ物には秩序と準備とあるを要す、內宦の如き多年王
室の御用を勤めたるものなれば、今不用となりて直に罷職と爲し、翌日より路頭に彷徨するも顧ずとは、君
主の慈仁に欠く所あるなり、宜しく在職年限等を取調べ、相當の手當を與ふべく、又之を廢すれば、是迄內
宦の行ひ來りし職務は、何人に取扱はしむるか、豫め準備せざるべからず、本使が主として論じたるは、政
治上に關し、內宦等中間に居りて干涉を試るが如きは、陛下と各大臣との間に親政を施さるゝ上に妨害あり
とせしのみ。御召使の內宦を殘酷にも突然放逐すべしと云ふの意には非ず、故に御不自由ならざる丈の內宦
は、姑く從前の通り御史役相成、追て宮內府の官制制定の日、內宦に代て職務を行ふものゝ定まる日に之を
罷遣せらるゝ方、穩當なるべし。去り乍ら此內宦とても充分人物を選び、敢て宮中の祕密を保つに足るもの
を御殘し、相成る方然るべし」とは、其驚きて奏する所なりき。然るに大君主は、「大臣等は一日も內宦を宮
中に留むべからず、是れ日本公使の存意なりと說くが故に、朕も然らんと信じ、早速斷行せしなり。今公使
の奏言を聞き其意のある所を悉せり。故に今姑く內侍として十人、外部の使役として十人、都合二十人程呼
び入るべし。近日宗廟に行幸の節に當ても、內宦なくしては第一衣服の着替萬端に差支を生ずることありて、
心痛中なりしが、卿の說を聞て安心せり、差向今日よりは、君主の專務に復し、使丁を兼ぬるに及ばず」と
て哄笑せらる。公使も亦「廿人三十人の內侍を姑く置かるればとて、何程のことあるべき、宮內府官制の發布
せられ、奉仕の職定まる迄は、其儘御使史相成るも差支なかるべし、其邊のことは、猶本使よりも宮內度支
兩大臣に申入れ、改革とて去る極度に走らざる樣助言致すべし」と述べたり。
同時に勅諭を一般に下して、新政の趣旨を示し、人心の歸向を明にしたし」とて、意見を公使に詢はる。公
使は其事の此際に是非必要なることを奏し、大君主は、弊政一新則ち開化の意に外ならざれば、當日は中宮に
も輿を共にし、夫婦式場に臨み、千載唯一の禮典を擧ぐることとせば如何、との御諮詢あり、公使は「叡慮至
極せり」と答へ奉りたるに、大君主は猶朝鮮國にて王室に慶典を擧ぐるに當ては、八道に大赦を布き、無官
の者には特に幾人を限り官位を授くるの慣例あることを宣はせられ、之に付て御尋ねありしが、何分事變の後
とて閔氏中罪名を負ふて、謫廢中のもの東學黨に關係ある者等多く、大赦といへば、此等も亦一躰に赦免せ
ざるを得ず、而して改革の基礎未だ牢固ならざるの今日之を斷行せば、其結果亦測るべからざるものあり、
开が爲なるべし、公使は卽答を申上げず、熟慮の上に答奏せんことを申出でられぬ。
とて、二三の御下問あり、公使一一之に奉答し、且つ宮內府官制に付ても、多少內外の事例を參酌折衷し、
制定するを要すべく、之に付き然るべき人あれば御異存なくば宮內府に差出し、同大臣と協議せしめても可
なりと奏し、大君主は之に同意せられ、更に語端を改め、「此後御互の間は、一家內同樣なれば、朕が不德其
他何事に拘らず、卿に於て不可なりと思はるゝことあらば、敢て忌憚なく、直に忠告を受けたし、朕必ずや
卿の諫を容れて非を改むるに吝ならざらん」と宣はるゝにぞ、公使は其赤心の貫徹したるを喜び、「知て言は
ざるなきは、本使の天性なり、已に陛下も本使が屢屢進謁の節奏上せし所に就き、御鑑ありしなるべし」と
奏し、大君主は「然り、猶將來と雖も斯く望むなり、且つ各大臣の奏上に據て、裁可すべき諸法令、其他の
整理の事柄は、先づ以て卿に詢議したるや否やを確めんため、見認印にても有らば便宜ならんと思ふ。卿の
意如何」と仰せられ、公使は「御尤の御注意なれば、何とか各大臣と相談致すべく、各衙門大臣が其主管事
務の速成を企圖し、諸法令を濫發するが如き弊ありては、各衙門事務進步の度合に異同を生じ、或るものは
非常に進み、或るものは甚しく遲くれて終に倂行の進路を執る能はざるに至るも計りがたければ、諸大臣に
は十分注意すべし、又諸大臣より奏上裁可を請ふの事柄に付き、御了解なり難き次第もあらせられなば、何
時たりとも、本使を御招き相成て御下問ありたし」と申し上げ、大君主は「今後左樣致すべし」と仰せあり
ぬ。
せらるゝ樣致し度しと存す、就ては來春にも至らば折を見計らひ、本使の知人にて有名なる醫者も多く有之、
就中橋本、ベルツと云ふが如きは、醫者中の大家なれば、其等の中一人を呼寄せ、一應診斷の上攝生法を講
究せしめては如何と存じ奉ると奏し奉りしに、大君主中宮は御言葉を揃へさせ、「卿の信切斯く迄に及ばるゝ
は兩人の深く謝するところ、然し世子は目下何の點に疾症ありとも判定しがたく、差當り藥用の如何やと懸
念せらるゝなり」と仰言あり、公使は醫者が診斷したればとて直に服藥せしむるの謂あらず、先づ其病源を
究め、而して第一に適當なる攝生法を施さゞるを得ざるなり、他日世子宮は近衛都督として、軍隊の職務を
躬らせらるゝに當り、身躰に故障多くては到底其職務を行はせらるゝ能はざるべし。又明春にもなれば勇壯
活潑にして、軍隊上の學問を講究せられ、他の武官の勸むべき職務竝に戰術上の事をも學ばせらるべきに付、
切に同宮の御健康を望む」と奏し、兩陛下よりは「去らば何卒一回其等の大家に診斷を受けたければ是非卿
の周旋を請ふ」との御言葉あり、公使も親切の漸く貫徹せるを喜びて、退出しぬ、此日の謁見には、兩陛下
とも前回未曾有の御滿足にて、何事も打解けて、最と爽快に御物語ありしやに漏れ承はりぬ。 (完結)