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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
京城府史 경성부사
  • 기사명
    二. 日淸戰爭當時の京城
  • 이미지
    prd_0151_003 ~ prd_0151_061 (273 ~ 331쪽) 이미지
  • 날짜
일러두기

京城府史

京城府史

二 日淸戰爭當時の京城

(1)東學黨の蜂起と京城の不安

東學黨光化門前の上疏
彼等の暴動
淸國軍艦派遣
京城日本居留民の危懼と防禦準備
淸國の朝鮮監督は其の度を過ぎ、朝鮮の官民之に對し漸く厭忌の念を生じそめたにもせよ、淸國
及び事大黨が得得たる折柄、突然朝鮮の政界に大衝動を與へ、延いて日淸戰爭の一動因をなしたも
日光化門前に紅巾を以て蓋へる机を置き、高宗に上疏し數日間去らなかつた。高宗は敎旨を下し
て之を慰撫せられ、彼等は已むなく全羅道報恩縣に歸還した。彼等は歸來するや所所に騷擾を起
し、之に刺戟せられた咸鏡道·黃海道竝に開城の人民は互に呼應して暴動を起した。東學黨は單に
酷吏に對し反抗するのみならず排外をも聲明したから、黨員上疏に先だつ一箇月餘二月十八日に
は東學黨數萬人外人追放の爲めに入城すとの報あり、事實は唯無事平穩に終はつた上疏のみであ
つたが、歐米人及び日本居留民は日夜不安の念に襲はれた。歐米人側にあつては英國總領事ヒリ
ヤー(W.C.Hillier)は萬一の事變を恐れ袁世凱に諮る所あり、袁世凱は李鴻章に打電して軍艦の急
派を請ひたれば、淸國は丁汝昌に命じ來遠·靖遠を派遣せしめ兩艦は四月八日仁川に着した。日本
人側にあつては公使館附武官陸軍砲兵大尉渡邊鐵太郞は釜山に赴いて情況を視察し、參謀本部員
陸軍砲兵少佐伊地知幸介も來釜調査する所があつた。居留民間には東學黨の多數は今にも東大
門又は西大門より入り一擧して泥峴を襲ふと云ふ流言さへあつた。甲申の亂以來居留民の商路
は淸商の爲めに防遏せられ、鮮民のある者も亦之に雷同し著しく不利益を被つた際とて、此の風說
に脅かさるゝこと甚だしく、居留民總代山口太兵衛其の他二三の有志は外務大臣陸奧宗光宛居留
民保護の爲め巡査增員の件を請願した。又居留民の或る者は護身の爲めと稱し大刀を帶び日中 城內を橫行したのであつた。四月に入り京城總領事杉村濬は居留民に內諭を發し、東學黨の動靜
につき探知した事項は直に領事館に報知すべく、居留民は各自食糧を準備し、勢切迫した時は老弱
婦女子を仁川に避難する準備をすべきことを告げ、公使館·領事館付の警部巡査()をして陸海
軍士官等と共に豫め備付の小銃九十挺を整理し、萬一の時は居留民間の壯者と合同して居留民居
住地一帶の防禦に當るべき手配を定めしめた。

朝鮮政府にあつては惡政の結果民心の離反せるを知るが故に、京城內にも必ず東學黨の潛伏あ
るべく、萬一東學黨が來襲すれば容易ならざる事態を生ずべきを想ひ全羅監司金文鉉·慶尙監司李
容直を遣はし衆を諭して解散せしめ、最も猖獗である忠淸北道報恩郡へは、戶曹參判魚允中を兩湖
宣撫使に任じて說諭に赴かしめ、漸にして解散せしむることを得た。

全琫準の擧兵
大院君との連絡
兩湖討捕使の進發
かくて其の年も暮れ翌年二月下旬()に至り、全羅北道古阜郡守趙秉甲は極端に虐政を行
ふた爲め、同地の豪農にして東學黨の領袖たる全琫準は「除暴救民」を標榜して立ち其の勢當るべか
らざるものがあつた。之れと同時に諸方の暴民も亦相應じて起り、慶尙南道金海府使趙駿九の如
きは亂民の爲めに任地を追はれ、次で諸方の官兵は皆敗北した。此の暴動に先ち全琫準は京城に
來り、密かに雲峴宮なる大院君に謁し畫策する所があつたと云はれてゐる。是に於て政府は前全
羅兵使洪啓薰を兩湖討捕使()に任じ、京城親軍壯營の兵を率ゐて進發せしめた。啓薰は
袁世凱の周旋により新式兵器を得、野砲二門と八百の兵を具し漢江を下り、自らは淸國軍艦平遠に
乘じ兵を官有汽船蒼龍號·漢陽號に分乘せしめ群山に向つた。後ち政府は京城·平壤及び江華島よ
り約二千數百の兵を陸路全州に向ひ進發せしめた。

然れども東學黨は益益優勢に向ひ其の數萬餘に及び、五月下旬には靈光を經て大擧全州に迫り
前監司金文鉉は守を棄てゝ走つた故直に同地を占領し次で礪山等の官兵をも破つた。全州陷つ
てより政府の威信は地に墜ち大勢殆んど收容する能はざるに至つた。此の悲報京城に達するや
城內の官民は皆戰慄した。

泥峴に於ける居留民の如きは壬午·甲申の亂を追懷して憂慮措く能はず、此の儘にて推移すれば
必ず往年の災禍を再現する外なしとし、六月七日有志六十八名相謀り、外務大臣陸奧宗光に宛て送
兵の請願書を提出した。其の要は

先年天津條約以來京城は淸國の專權、淸商の橫暴によつて居留民の商權は蹂躝せられ、徒に隱忍
持久の生活を繼續しつゝある狀況を詳說し、若し今回の動亂を機とし淸國兵が入城することあ
れば淸商の傲狀は舊に倍すべく、城民中事理を解せざる徒亦之に合して不測の變を生ずべし。
而るに同胞八百餘名の生命財産は僅僅十數名の警吏に托するのみで他に何等の防備策はない
有樣である。故に少くとも入城すべき淸兵と同數の兵を駐在するを必要とする。壬午甲申の
際は在留者も少なく、且つ皆壯年者であつたが、今は其の數は多いとは云へ、妻子眷族あり老幼事
に堪えざるものが却つて多い。願くは在留者の衷情を懷ひ速に數千の精銳を送られよ。

と云ふのであ·つた。

通信の便備はらざる元山の居留民の如きは時局を憂慮すること殊に甚だしく、同居留民總代吉
副八郞は六月十三日附を以て、一般の形勢及び京城地方の詳細なる狀況を知る爲め脚夫を特派し、
京城居留民總代宛問ひ合せ狀を送つた。()時局に對する在留日本人の憂慮は何處も同 樣であつた。

全州に於ける洪啓薰は到底頹勢の回復し難きを視、戰地より外國借兵の已を得ざる旨を上書し
た。此の時日本公使大鳥圭介は歸國し、露國公使ウエーバーは北京に滯留し袁世凱獨り京城に在
つた。宣惠堂上兼統衛使閔泳駿()は密かに袁と謀り六月一日援兵を淸國に請ふた。一
方巡邊使李元會に兵九百を授け、京城を發し賊の北上に備へしめた。

淸國にあつては李鴻章は好機逸すべからずとし直に送兵を決し、六月六日東京駐箚淸國公使汪
鳳藻をして、日本外務省に對し屬邦朝鮮に內亂起りその請ひにより屬邦の國難を救ふ爲め直に出
兵すると通達せしめた。之より先き六月三日直隷提督葉志超は東學黨征討の命を受け、同日より
八日に亙り、兵一千五百五十五名砲四門を海晏號·海定號に搭乘せしめて山海關より、總兵聶士成の
兵九百十名砲四門を圖南號に搭乘せしめ大沽より出發せしめ、六日其の先發隊は牙山灣に入り、翌
日白石里より上陸し牙山に駐屯した。之を淸國陸軍第一次の派遣兵とする。()

東學黨は淸兵の牙山上陸を耳にし、之に脅かされて勢大に衰へた。洪啓薰は之に乘じ李元會と
兵を合し七日全州を回復し、賊四百名を斬獲し首魁二名を殪した。殘黨は之を見て悉く四散した。
捷報京城に達するや、政府は四門に榜を立てゝ之を布告した。都民は之を見て漸く愁眉を開くこ
とを得たが、此の時迄に於ける京城府民の憂慮狼狽は實に甚しいものがあつた。二十九日洪·李の
兩使は巨魁の悉くを殪すには至らなかつたが、暴徒が一時平定したので兵を纏めて京城に歸つた。
以上は日淸開戰前に於ける東學黨變亂の槪況である。

初め天津條約の結果日淸兩國の兵は京城を撤退したが、袁世凱の密計により尙ほ二百餘の淸兵 を商人に扮裝して滯城せしめ、東學黨の動亂起るに及び大院君の一派とも氣脈を通じ裏面より民
衆を煽動し、日淸戰役の始まらうとするや、此等商人扮裝の兵士を牙山上陸中なる淸兵の營中に合
したとは當時一般に噂せられた所であつた。

(2)金玉均の最後

明治二十七年古阜に於て東學黨の領袖全琫準が亂を起した頃、支那上海に於て金玉均の橫死事
件があつた。

之より先き甲申の亂に金玉均等は日本に亡命してより、事大黨はこれを恐るゝこと甚だしく、牒
者又は刺客を放ちあらゆる手段を廻らして彼等を追求した。金玉均等が千歲丸に搭じて亡命の
航海中、船長辻覺三郞は好意を以て彼等に對し夫れ夫れ日本名を命名した。金玉均は岩田周作·朴
泳孝は山崎永春·柳赫魯は山田唯一其の他の亡命客皆日本流の假名を付した。これが後に至り刺
客の追求を避くるに便利であつたことは申す迄もない。

二十二年()金玉均は大井憲太郞と共に朝鮮政府轉覆の陰謀を企てた。此の事件發覺す
るや、日本政府は關係者三十名を捕縛し禍亂を未然に防ぐことを得たが、事大黨は此の報を得て大
に驚愕し、益益金玉均を惡み之を殪すべく全力を注いだ。其の後日本政府は國內安寧の保持及び
國際關係の上より、明治十九年八月金玉均を小笠原島に居住せしめ、二十一年七月更に北海道札幌
區に移した。後ち三年を經、明治二十三年放釋して東京に還らしめた。

時に事大黨の發した刺客數名の內なる洪鐘宇は巧みに玉均に接近し、金玉均に向ひ祖國の事日 に非なるを以て今後の方策は、淸國と結托して國勢を挽回するに若かずと力說した。金玉均日本
在留十年にして尙ほ志を得なかつたから、遂に之に贊し明治二十七年三月十一日洪鐘宇淸國公使
館通譯官吳葆仁、及び日本人
書生和田延次郞と四人打ち
つれて東京を辭し、二十三日
西京丸に搭じて神戶を解纜
し、二十七日()
上海に到着して米租界日本
旅館東和洋行に投宿した。
翌日洪鐘宇は和田の隙を窺
ひ、ビストルを以て金玉均を
擊殺した。洪鐘宇は一旦遁
れて吳淞の農家に匿れ直に
淸國官憲の捕ふる所となつ
たが、淸國は之を罪せざるの
みならず、却つて之れを保護
し、且つ金玉均の屍體を和田
延次郞の手中より奪ひ取り、
洪鍾宇と共に南洋水師所屬
軍艦威遠號に乘せ一旦天津
に立ち寄らしめ更に仁川に
送つた。政府は四月十三日
之を官有汽船漢陽號に移し
楊花鎭に陸揚げした。四月
十四五日の頃金玉均屍體の
頭部と四肢とを切斷し胴を
交通頻繁なる江岸に曝らし、
更に「大逆不道玉均」の幟を立
て數日間梟し、頭部は醃藏し
て八道に回示し其の後ち殘
體を江中に投じた。此の時李鴻章は朝鮮政府に對し洪鍾宇の身上に關し、取調上煩累を遺さゞる

楊花鎭に於ける金玉均の梟首 べき旨の訓電を發し、且つ祝電を高宗に發した。高宗は亦鍾宇の功を嘉みし重賞を授けた。

此の報日本に傳はるや、日本の國士は淸韓兩國のなした此の處置を以て、國際上の禮儀を無視し
我を侮辱するものとして憤慨し、延いて日淸間の感情は著しく疎隔するに至つた。次で淸國が兵
を朝鮮に派するを見て、從來平和主義を執り來つた日本政府も、淸國が前言を食んで勝手の出兵を
したから、遂に隱忍する能はず朝鮮を以てその屬邦と稱することを否認し、且つ朝鮮に在留する官
民保護の爲め出兵するに決定し其の旨を淸國に通知した。

(3)大鳥公使の入城と開化黨の擡頭

大鳥公使の入城
常備艦隊の仁川碇泊
大鳥公使及び陸戰隊の入城
之より先き前年七月十五日任命され九月二十八日赴任し、此の頃適適賜暇歸國中であつた淸國
駐箚朝鮮國兼務特命全權公使大鳥圭介は、當時日本海軍中の最高速力を有する軍艦八重山號(速力二十
一節·艦長海軍大佐平山藤次郞
)に乘じ、警視廳警部巡査二十名を公使護衛とし、橫須賀海兵團の下士卒七十名(陸戰隊編
成のため
)と同乘し、六月五日同港を拔錨し九日午後三時仁川に入港した。之より先き仁川には芝罘よ
り急航した日本軍艦赤城、及び以前より碇泊中の大和·築紫があり、間もなく淸國福建省馬祖島に碇
泊中の常備艦隊司令長官海軍中將伊東祐亨は松島()千代田及び高雄()を率ゐて
急遽仁川に入港し、五隻の日艦は此の日雄姿堂堂として仁川月尾島沖に碇泊した。伊東司令官は
直ちに五艦聯合の海兵四百三十三名を以て陸戰隊を組織し、松島副長海軍少佐向山愼吉を隊長と
し、午後一時全部日本人家屋に舍營せしめた。翌十日午前三時全軍を仁川領事館前に集合し、銃隊
をして大鳥公使を護衛せしめ降雨を犯かし同四時仁川を發して陸路入城せしめた。京仁間の電 信は支那の支配下に屬するものなれば日軍は獨自に此の間の連絡を執る爲め、千代田艦乘組海軍
少尉三輪修三を以て隊長とする獨立小隊を、九峴()に留め、尙ほ京仁間に九箇所の哨所
を配置し終點を仁川公園に置いた。同時に野戰砲四門を以て組織する他の砲隊を汽船順明號に
乘ぜしめ午前六時二十分出航漢江を遡江して進發せしめた。砲隊は銃隊に先ち午後四時五十五
分公使館()に着し、銃隊は泥濘の難路を急行し六時四十五分公使館に到着し日本人家屋に
分營した。

此の時朝鮮政府は統理各國通商交涉事務衙門參議米國人リゼンドルと外務參議李采淵とを仁
川に急派して、日軍の入城を阻止しようとしたが間に合はず、更に同衙門協辨李容植を龍山に派し
たが、大鳥公使は本國の命なりとして之を拒んだ。此の阻止は皆袁世凱の計劃であつたと云はれ
てゐる。

初め日本居留民は時局の切迫を慮り便船ある每に老幼婦女子を歸國せしむるものが續出した
が、特に此の頃は死生の巷に陷ゐつたとなし戰戰恟恟たるものがあつた。然るに此の日日軍の入
城するを聞き各戶一齊に國旗を揭揚し、多數は豪雨を犯かして南大門側に之を迎へ狂せんばかり
に歡喜した。而して居留民の居宅は家族一人に疊一枚のみを充てゝ他は全部軍隊の宿營に供し
總代役場·商業會議所·東本願寺別院·學校校舍等、當時として巨大な建築物は皆之を提供した。爾來
續續後續部隊の入城するに連れ、學校·役場等は暫く閉鎖するを免れなかつた。

之より先き東京にあつては大鳥公使出發の當日なる六月五日大本營を新設し、第五師團第九旅
團の步兵第十一聯隊第二十一聯隊に、騎兵一箇中隊·山砲二箇中隊·工兵一箇中隊を加へて戰時混成
旅團を編成し、陸軍少將大島義昌をして之を率ゐしめ朝鮮に派遣するに決した。その編成未だ終

らざるに先立ち、步兵少佐一戶兵衛()の率ゐる步兵第十一聯隊第一大隊及び工兵一
少隊()は、外交の用務を處理する步兵中佐福島安正·同少佐村木雅美·工兵少佐上原勇作
等と共に、和歌浦丸に塔乘し、軍艦高雄の護衛により九日宇品を發し、十二日午後一時三十分仁川に
入港した。

はじめ伊東司令官は八重山艦長平山海軍大佐を陸軍兵揚陸委員長に任じ周到なる上陸準備を
完成したゝめ、大隊は僅に四十五分間を以て上陸し卽夜十二時仁川を發し荷物は漢江より送り陸
路京城に向ふた。途中少尉宮川進·下士卒三十名を星峴に留めて、同峴の海軍獨立小隊と交代せし
め、又第二中隊長步兵大尉河南環を麻浦に留め荷物の護衛及び同地の警戒に任じた。十三日午後
六時大隊の主力は日本公使館に着し海軍陸戰隊と交代した。

次で大島少將は後續部隊を率ゐ近江丸以下八隻()の運送船に分乘し、吉野
艦に護衛せられ十一日六連島より出發した。途中濃霧と烈風の爲めに妨げられ各船相失し、十五
日午前一時先頭の近江丸先づ仁川に到着し、最後の三隻()は豐島附近に於て千代田に會し
其の護送を受けて十六日午後八時に入港した。()

其の夜全部隊は完全に上陸を終つて居留地に宿泊し、兵站監部()を日本郵船會社
支店に設け旅團司令部を水津旅館に置いた。翌十七日第十一聯隊第二中隊()を麻浦 に派し、第五中隊の一小隊()を星峴に派して先留隊と交迭せしめた。十六日の上陸以來
淸·英·佛·露の各國代表者及び其の居留民は、種種なる口實の下に日軍の行動に掣肘を加へたから、十
八日大島少將入城して大鳥公使と軍隊入城に關し協議する所あり、一戶少佐の麾下に屬する工兵
を漢江に派して渡河の準備に當らしめた。二十日大島旅團長は一旦仁川に歸へり二十四日一箇
大隊()を上陸して、其の儘仁川居留地西南部に殘留せ
しめ、他の諸隊全部を率ゐ薄暮龍山に着し、萬里倉を中心として附近の林間溪谷に亙り幕營した。
此の日混成旅團第二次輸送部隊は()は、住の江丸以下七隻()
に搭乘し翌日六連島に集合し、浪速の護送を受け二十七日仁川に着した。此の時軍艦浪速には外
務書記官加藤增雄が大鳥公使に致すべき外務大臣の訓令を携帶搭乘した。其の內步兵第二十一
聯隊第三大隊()を仁川に留めて同港の警戒に任じ他の全部は二十九日午後萬里倉に
到着した。是に於て大島旅團の殆んど全部隊は城南に充滿し、帽影劍光相映じ軍規肅然、一帶碧綠
の松林中白衣幾千の貌貅()は、徐ろに戰機の熟するを待つた。此の諸部隊の位置
及各隊長の氏名を示せば左の通であつた。

步兵第十一聯隊第一大隊 京城
混成旅團司令部
騎兵第五大隊第一中隊⊔萬里倉()
步兵第十一聯隊() 野戰砲兵第五聯隊第三大隊⊔萬里倉の高地及其溪谷
工兵第五大隊第一中隊()
步兵第十一聯隊第八中隊 屯芝里()
步兵第二十一聯隊() 阿峴
第一野戰病院衛生隊 孔德里西北
步兵第二十一聯隊第三大隊()
第二野戰病院⊔仁川

京城なる步兵第十一聯隊第一大隊は、各城門を守備し且つ居留地を保護すべく泥峴の要所に步
哨を張り、尙ほ萬一の爲め現倭城臺科學館の地點に塹壕を穿つた。

仁川に在る兵站監部は堀久太郞經營の大佛ホテルに移し、龍山及仁川には各兵站司令部(龍山は現元町
四丁目の庄司章方
)を置いた。而して兵站守備若くは兵站用に任ぜられた部隊は左の通であつた。

步兵第十一聯隊第六中隊の一小隊
工兵第五大隊第一中隊の一分隊⊔龍山兵站司令部守備及兵站用
步兵第二十一聯隊第十中隊()

以上諸隊の外第四師團軍樂隊は、混成旅團に屬せられ七月六日萬里倉に着した。

混成旅團各部隊長氏名
 混成旅團長         少將 大島義昌
 參謀             少佐 長岡外史
 步兵第十一聯隊長      中佐 西島助義
 第一大隊長          少佐 一戶兵衛
 第二大隊長          少佐 橋本昌世
 第三大隊長          少佐 松本箕居
 步兵第二十一聯隊長     中佐 武田秀山
 第一大隊長          少佐 森祗敬
 第二大隊長          少佐 山口圭藏
 第三大隊長          少佐 古志正綱
 騎兵第五大隊第一中隊長   大尉 豐邊新作
 野戰兵第五聯隊第三大隊長  少佐 永田龜
 工兵第五大隊第一中隊長   大尉 蘆澤正勝

尙ほ日軍の後方連絡としては仁川釜山間に一日七八哩航程の當時としては最大速力を有する
汽船信濃川丸·木曾川丸の二艘()を使用し、五六日を費して兩港間を往復せしめ、同時に陸上
にあつては京釜間に電線を架設することゝし、六月二十六日より電信隊司令官馬場工兵少佐は同
大尉以下四百七十九名を引率して入城し、釜山にも同隊の一部が上陸し南北より築線工事に着手
した。

混城旅團司令部の位置

司令部の位置は錦町一九九番地を中心とする位置で、現龍山公立普通學校西方の高地である。
同所の西方には其の頃迄萬里倉なる倉庫があり、司令部は其の東に隣して建てられた。倉は戰
役後廢せられたが、現鐵道官舍の建築前迄は尙畑中の所所に大なる礎石が殘存した。司令部以
外の將卒は左記碑文にあるが如く、附近松林中の各所に幕營したのであつた。現石碑の位置は
幕營地であつたのではない。

(表面) 大島混成旅團幕營之趾 建設係長藤田安之進

(裏面)此の地附近は明治二十七年六月二十九日より八月十二日に至る間大島混成旅團の幕營地
にして此の間成歡牙山の敵を擊破し或は當時の外交を支援し明治中興に由緖尤も深き地
なり今龍山有志者胥謀り碑を建て不朽に傳へんと欲し余に文を囑す仍ち辭せずして記す。

昭和四年六月二十九日 當時の混成旅團參謀正三位長岡外史書

旅團の入城と前後し日本在野の有志は續續入城し、時局に對して種種畫策する所があつた。その
中最も活躍した有志は、曩に江華條約締結の際黑田大使に隨ひ始めて渡來し爾後屢屢入城した岡
本柳之助であると稱せられ、その他の有志は稻垣滿次郞·西村天囚·福本日南·三宅雄次郞·田中賢造·鈴
木天眼·內田甲·田中次郞·武田範之·佃信夫等であつた。

稻垣·西村の如きは日本政府の態度不明なる爲、本國に於ける輿論喚起の爲め七月上旬急遽一時
歸朝した。()

戰前に於ける日淸間の交涉
淸國の狼狽
これより先き東學黨は淸國の出兵により表面上一旦平靜に歸したが、不平の徒は隨所に伏在し
何時再發するか豫期すべからざる情勢にあつた。日本政府は此の情勢を見、六月十七日外務大臣
陸奧宗光をして淸國公使汪鳳藻と會し、日淸兩國協同して速かに亂民の鎭壓に從ひ、且つ兩國より
委員を選定し內政の改革に當らんことを提案した。二十二日淸國は日本に對し亂民が已に鎭定
した今日、兩國共同して討伐する必要はなく、內政の改革は朝鮮國をして自ら之に當らしむを正當
とする。日本は天津條約に從ひ速に撤兵すべきであると答へた。同日日本外務大臣は日本とし
て朝鮮の危機を座視するは隣邦の誼に戾るのみならず、自衛の道にも背くものである。故に朝鮮
が安寧を保持し政治の改革をなした後ならでは撤兵せず、而して貴國は朝鮮の安寧靜謐を思はず、
朝鮮の內政改革に對し誠意なきものと思はるゝが故に、日本は獨力を以て之に當る旨を通知した。
淸國政府は此の通知を受けて大に驚き、列國使臣に懇請して日本に撤兵を勸告しようとしたが奏
功しなかつた。大鳥公使は日本政府の命に從ひ、先づ朝鮮に貴國は淸國の屬邦か否かを確め自主
の國であるとの確答を得るや七月三日高宗に謁し左記の革弊時宜五箇條を提出し反省を求めた。

一、制度ヲ改革シ人材ヲ選拔スル事
二、財政ヲ整理シ賦課ノ均等ヲ期スル事
三、裁判ヲ公正ニシテ司法ノ威嚴ヲ保ツ事
四、兵備警察ヲ充實シテ國內ノ安寧ヲ保持スル事
五、學制ヲ完備シ人材ノ養成ニ努ムル事

老人亭會議
列國使臣會議
朝鮮政府は之に對し甚だしく躊躇する所あり、袁世凱亦百方之を阻止しようとしたが、同月八日
に至り、高宗は遂に詔を發し、
內務府督辨申正熙·內務府協
辨金宗漢·曹寅承の三人を改
革委員に任命し、右五箇條の
調査を命じた。之を見て事
大黨中には反對の意を表す
るものがあり、李南珪の如き
は最も痛烈なる疏文を上つ
た。十日午後六時より委員
等は大鳥公使及び隨員杉村
書記官·通譯國分書記生と、現
大和町二丁目一三四番地に
現存する老人亭に會し、第一
回の商議をなし、次で第二回
を十一日午後一時より第三
回を十五日午後三時より熟
議する所あり、漸く公使の意
見に從ふことゝなり、同夜半
に至り議は纏つた。此の會
議の場所をかゝる不便の地
に定めたのは、朝鮮政府の希
望を納れたので、政府は祕密
を嚴守する必要を痛感した
からであらう。

韓國の向背を議決せる會場老人亭

十六日及十七日の兩日京
城に於ける列國使臣は米國
公使館に會合した。集まる
者米國公使アーレン·英國領
事マグドナルド·佛國公使ブランゼー·獨乙領事クリレ·露國書記官チエウメツチ(公使ウエーバーは十三日北京より歸
任したが十六日の會には缺席す
)の數人であつた。十七日の席上英國領事は、京仁の兩都市及び兩地間の道路を以 て、局外中立地と宣言すべきことを主張したが、露國公使は兩國の國交未だ破裂せざるに當り、斯の
如き議事の必要なしと反對するや、各國使臣皆之に贊して散會した。翌十八日英國領事は楊花鎭
に於ける日本兵の哨兵線內に入らんとして押し返へされ、所謂楊花鎭兵線事件なるものを起した。
當時日本公使館書記官であつた杉村濬は其の遺著在韓苦心錄中に、這般の現象は袁世凱
の計略によるものと斷じ、左の如く記してゐる。

當時袁氏の心中深く我國を恐れざりしものゝ如くなるに、我兵の入韓に及んで狼狽を極め、初め
は韓廷を敎唆して强く之を拒ましめたるも其の效なく、尋で大鳥公使と協議して兩國の兵を同
時に撤回せんと謀りたるも調はず、終に各國使臣に依賴し其勢援を借りて我兵を撤去せしめん
ことを企て、或は俄佛兩使をして大鳥公使との口約を實行せしめんことを迫り、或は英領事をし
て仁川中立問題を提議せしめたるも行はれず、加之英領事等は淸國の爲め仁川各國居留地內に
我兵の屯宿を禁じ我軍用電線の通過を拒み、剩へ同領事は夫人を同伴して故意に我哨兵線を犯
かして面倒を引起したる等極力我に妨害を與へたりしが、俄使ウエーバーの歸韓して反對の態
度を執りしより彼等の計畫は頓に中止せられたり。

大和町に於ける會議は當時老人亭會議と稱せられて最も有名なものであつた。會議の報一度城
內に傳はるや、都民の避難者は頓に減退した。

十九日に公使は尙ほ進んで朝鮮政府に迫り、朝鮮にして眞に獨立自立の國たるを自認すれば、屬
國保護の名の下に來り居る淸國兵を撤退せしむべきこと、竝に現に淸韓間に行はれてある諸條約 も宗屬關係の下に造られたれば之を破棄すべきことの二個條を勸告した。甲申の役以來十箇年
半島の朝野に權威を振つた袁世凱は、此の日淸國政府より歸國認可の報を得、同知唐紹儀を代辨に
指名し、急遽服裝を變じ轎に乘じ人目を避け夜に乘じて陸路仁川に下り軍艦平遠に搭乘して歸國
した。()唐紹儀は後竊に英國領事館に移轉し、淸國公使館は
全く空虛となつた。

袁世凱去つてより朝鮮の形勢は俄然一變した。多年長袖の軍服を着して京城の各城門を守備
した支那哨兵及び、現南大門通二丁目東側にあつた高樓の支那警察官署の內に詰め、長棒を携へて
意氣楊楊城內を巡羅した警察官は、共に其の姿を消し、商人は門戶を閉ぢて營業を中止した。暫し
て商人は家屋財産を英國領事館に托して京城を引き拂ひ、其の餘の勞働者も亦京城を去り便船每
に續續仁川より本國に歸へつた。爾來翌二十八年夏期淸國人の再び歸京する迄は、多年堂堂とし
て京城內外を橫行した辨髮姿は全く其の影を認むることが出來なかつた。

之より先き佛蘭西敎會は明治二十年十一月頃、現明治町の高臺に於て敷地約一萬四千坪を求め
二十五年以來敎會堂及び高塔の築造に着手し、龍山漢江畔瓦署に於て煉瓦を造り多數の支那人職
工を使役した。その尖塔は日日京城の中空に伸び、當時此の種の建物の絶無であつた京城の人目
を驚かしたが、此の年支那勞働者の歸國によつて已むなく工事を中止した。翌年支那人の再び入
城するに及び、之を繼續し三十年に至り漸く落成し得た。

之れより先き日本軍先發隊の入城以來、兵士の往來兵站輸送のため人馬は輻湊し、加ふるに支那 人の急遽歸國するあり、京仁間の路上は恰も戰場に彷彿たるものがあつた。老人亭會議の報によ
り、都民は一時逃避を見合はすものがあつたが、此の時に至り再び避難を始めた。而かも警備の行
屆かざる時のことゝて、途中陸路を經て去るものは草賊に、漢江を船行するものは水村の暴民に襲
はれて、家財を掠奪せられ具さに艱難を嘗めたと云ふ。

此の時日本に據つて國政を改革しようとする開化黨()は、此の好機を執へ事大黨を倒し
て國政改革に着手しようとし、猛然として擡頭し朴泳孝·趙義淵·安䮐壽等は、日本兵を以て王宮の守
護に充て、且つ大院君の出馬を請ふにあらざれば政局を安定する能はずと稱し相一致して切りに
大鳥公使に訴ふる所があつた。()

大鳥公使は先に提出した勸告に對する韓廷の回答を二十二日と定めたから、同日より二十三日
迄に諸般の準備を整へ、二十三日()景福宮に參內すべく決心した。此の時王
城の內外は閔派の兵たる平壤兵を以て守備し、城內の形勢は頗る暗憺たるものがあつた。大島旅
團長は卽ち午前四時司令部を日本公使館に移して之に備へ、拂曉萬里倉にあつた一隊(步兵少佐山口圭藏の率
ゐる第二十一聯隊の第二大隊及び工兵一少隊
)を城內に入れ、景福宮背後より同宮包圍の任に就き萬一に備へようとした
是に於て城內は益益混亂に陷ゐる情勢があつた。大鳥公使は事大黨のものと雖嚴重に保護し、決
して傷害を加ふることなき樣嚴命を下し、午前四時降雨を犯し公使館を發し景福宮に向ふた。公
使の一行及び日本兵が景福宮の東側建春門に達するや、端なくも平壤兵より突然射擊を受け、日韓
兩兵は遂に衝突するを免れなかつた。此の衝突は短時間にして止み、平壤兵は北岳の山麓を傳つ て城外に逃走した。同時に勢道宣惠廳堂上閔泳駿及び一族は皆逃去し、閔族及び事大黨の勢力は
一轉地に委した。公使は雍和門內に於ける高宗の寢殿に到り、親しく拜謁して日本政府の眞意の
ある所を披瀝する所あり、高宗よりは國政改革を煩はす旨の勅書を賜はり、日本兵に王宮、の守備を
なすべき依賴があつた。公使は卽ち山口大隊を以て之に當らしめ、一部分の兵をして京城各門を
守備せしめた。午後三時昌慶宮附近にあつた壯營兵が反抗したが、暫時にして武器を捨て逃走し
た。此の日日軍の損害は死傷者各一名韓兵は死者五六名であつた。午後四時過ぎ大島旅團長は
長岡參謀その他幕僚を具して高宗に謁し、宸襟を慰め奉る所があつた。

此の日の小衝突以來在城歐米人は京城の不安を感じ、自國民保護の爲め亞米利加は水兵五十五
名を、其の他英露獨各國も夫れ夫れ仁川碇泊中の各自軍艦より、若干の護衛兵を入城せしめた。

當時此の事變を親しく目擊した菊池謙讓の著朝鮮王國の一節を揭ぐれば次の通である。

戰線は景福宮の近在より安洞、北門にかけてあり、砲聲は五時半に至りて止みたり我兵は難なく
王城に入りて守嚴す、龍山營よりは萬一の虞を計りて山砲を倭城臺に築けり京城の士民は全街蜘
蛛の子の如く逃亡す。

始め我兵の王城に入るや、龍山營の森少佐一大隊を率ゐて景福宮の北門西迎秋門より進み、光化
門及東門よりは京城營の橋本少佐一大隊を率ゐて進みたり、城內に潛伏せし閔族雇兵及平壤兵は
初めに挑戰したるにも係らず、十中八九は北岳の東にかけて雲の如く逃げ去りたれば、景福宮は十
六分間にて我兵の保護の手に落ちたり。是に於て我兵は直ちに兵線を張り、鍾路に京城兵は陣を
移し北岳·仁王山、何れも我兵線を以て盈たさる。

余等の一行は雨を冒かして歸らんと欲し、舊路より一轉して神肅門より光化門に出でんとすれ
ば、偶大鳥公使大禮服を着し、光化門より肅肅として兵士を從へて王殿に入るに會す、光化門と神肅
門と王殿に入る門との間は廣庭七八町あり、我兵充滿す、今朝凱歌を爲したるところなり。光化門
を出づるところに、戰收品山の如く積集し、小銃·古刀·軍旗·堆積す、門を出で正路を取りて鍾路に至る
の廣路皆な我兵·兵線を列ね、此の間に士民の四方に散亡するもの群走す、老婦孫兒を懷き、老爺孫兒
の手をひき婦女赤兒を懷にし、轎上の處女、脚走の壯丁、實に土民逃亡の慘狀目も當られぬ有樣なり。
鍾路より支那公署を過ぐに門を閉ぢ寂然として聲なし、歸りて一睡せんとしたるに砲聲俄然耳を
擊つ、戶を開けば前面、宗廟近在に硝烟起る。スワコソ一大事と又もや走るもの丘より丘に傳へ、前
面の靑山、一條の白蛇を見るが如し。十七八分にして砲聲止みたり、是れ統營の小鬪なり。

此の事變以前より城內人民の難を地方に避けるものは少くなかつたが、二十三日以後は一層甚
しく、平生雜沓を極めた鍾路附近も行人稀にして、多數の商賈は門戶を閉鎖し、居民の約六七分は地
方に避難した。

二十三日日軍は宮城內に尙ほ武器を貯藏せるを確め、後日の禍根を絶つ爲め、二十三四日の兩日
に至り全部之を萬里倉に運搬した。武器は大砲約三十門()機關砲八門·モーゼル·レミ
ントン·マルチユー等約二千挺、其の他無數の火繩銃·弓矢·軍馬十四頭があつた。

七月二十三日高宗は又直ちに大院君を召された。大院君は午前十時現慶雲洞なる雲峴宮を發
し、大鳥公使が萬一を慮り急派せる田上大尉の率ゐる日本步兵一中隊、荻原警部の率ゐる巡査二十 人()其の他日本の有志岡本柳之助·穗積寅九郞()西村天囚·通譯鈴
木順見·劍客鈴木重元等及び從者總計約三百人に護衛せられ、雨中肅肅として安洞·寺洞を過ぎ迎秋
門より王宮に入つた。多年政權を離れて雌伏した大院君が、一朝機を得て入闕すると聞き、都民は
道路の兩側に堵列して一行を觀た。此の時迎秋門に爆發藥を裝置して開門を企てたが、雨中の爲
め發火せず漸くにして開門して入闕した。大正十五年四月迎秋門が自然崩解したのは、此の爲め
であると稱せられてゐる。

大鳥公使王宮を辭去した後も、大院君は同夜深更に至る迄王側に侍し、金弘集以下十數名と共に
內政改革を議した。翌二十四日高宗は新政に關する諭書を發し、閔氏一族を處罰して流刑に處し
その一派にして要路に列した權臣を悉く罷免し、改めて開化黨の人人をして新政府を組織せしめ
られた。その主なるものは左の通である。

  領議政  金弘集 宣惠堂上 魚允中
  戶曹判書 閔泳達 壯衛使  趙義淵
  總衛使  李鳳儀 左捕將  李元會
  內務督辨 朴定陽 外務協辨 金嘉鎭
  外務參議 兪吉濬 外務督辨 李容植
  兵曹判書 金鶴鎭 統衛使  申正熙
  右捕將  安䮐壽(菊池謙讓著朝鮮王國)

七月二十七日從來の事大關係を破棄し、內政改革を實行する爲め、軍國機務所なる臨時官署を設 けた。これ實に李朝開國以來空前の事業たる甲午變革の先驅をなしたものである。

その組織は總裁一人·副總裁一人()議員十人以上二十人以下·書記官二人若くは三人
より成り、會議によつて新政府の政務一切を審議決定した。總裁には領議政金弘集、議員には左記
要路の人人を以て之に任じた。

  議員 內務督辨   朴定陽  議員 外務參議 兪吉濬
  同          金允植  同        李允用
  同          魚允中  同  內務參議 李源競
  同  外務協辨   金嘉鎭  同  同    鄭敬源
  同  右捕將    安䮐壽  同  外務協辨 金夏英
  同  練武公院參理 金鶴羽  同  內務協辨 金宗漢
  同  戶曹判書   閔泳達  同  副護軍  徐桐集
  同  內務參議   朴準陽  同  工曹參議 李應翼
  同  機器局督辨  權濚鎭  同  前主事  張博
  同  壯衛使    趙義淵  同  前司事  柳正秀

尙ほ書記官として吳世昌·金仁植の二人が任ぜられ、日本公使館書記生鹽川一太郞員外書記とし
て之を助けた。而し同所の議權は次の通であつた。

一、京外諸官府の職制
一、州縣の職制 一、行政竝司法一切の規則
一、田賦貨稅及び財政一般に關する規則
一、學政
一、軍政
一、殖産興業及び商業に關する一切の事務
一、其の他軍國に係はる一切の事務

同機關の議決に依て八月十三日議政府·宮內府の二府及び內務·外務·度支·軍務·法務·學務·工務·農商
務の八衙門の官制を發布し、從前の議政府の官制を改めて、領議政を總理大臣と改稱し、左議政を廢
し左右贊成·都憲·參議·主事等の官を置き、宮內府·八衙門の長を大臣とし次官を協辨とし、參議主事の
官を置き、宮內府·八衙門內には若干の局を設けた。又久しく京城の警備に當つた左右の兩捕盜廳
を廢して警務使を置き、內務衙門の管轄とした。其の官氏名は左の通であつた。

  總理大臣 金弘集  宮內府大臣 李載冕(大院君の嫡嗣)
  內務大臣 閔泳達  外務大臣  金允植
  度支大臣 魚允中  法務大臣  尹用求
  工務大臣 徐正淳  學務大臣  朴定陽
  軍務大臣 李圭遠  農商大臣  嚴世永
  警務使  安䮐壽

朝鮮に於て官制上大臣の職名を用ゐたのは實に此の時に始まる。

實歷者杉村濬は其の著在韓苦心談に記して云ふ。

八月二十日を期して開廳せんとて、急に舊議政府及六曹の建物を掃除し又は修繕を加へたり。
本來各官衙の建造方は一の堂宇に似て、執務の爲めには甚だ不便なりしも他に適當の家屋なけれ
ば不得止之を修補し、二十日迄にば▣に開廳し得るに至れり。然るに開廳に及んでも外務度支軍
務及警務廳等の外殆んど一の事務なく、新に任命せられたる多數の官吏は無事に苦しみ、官吏の出
勤には吸煙器の外に敷茣蓙木枕等を壹らせ衙門內の各室は一時午睡官吏を以て滿たされたるこ
どあり。當時某衙門に唯一具の筆硯を備へ、各官用事あれば更る更る之を使用したることあり。
以て其大槪を推測すべし。右の形勢に至りしは實に無理なきことなり。古來朝鮮國の制度は地
方分權の最も甚しきものにて、各道の觀察使は兵刑財の三大權を掌握し居れば、平常は中央政府よ
り指揮命令を受く事の必要なし。故に中央政府は自然中央丈けの事さへ爲せば用足る。(中略)俄
に各衙門を開きたりとて決して事務の生ずべき道理なし。

軍國機務所は明治二十七年七月二十七日設置の日より、同十二月十七日廢止に至るまで、僅に半
箇年間存續したに係はらず、急激なる改革を斷行し、審議事項の如きは政治上社會上に亙り極めて
廣汎にして、最初三箇月間に議決制定した諸法規は實に二百八件の多きに達した。現に景福宮內
慶會樓の南邊に西域地方の遺品を陳列してある修政殿はその跡であつて、實に軍國の機務を討究
する半島最高位の殿堂であつたのである。而してその中實行に至らなかつたものが多數であつ
たが、當時改革者の計畫及社會相の一班を推知するに足る爲め、重要なるものを列擧すれば左の通
りである。

一、公私文書の日附に自今淸曆を用ひず、開國紀年を用ふべし。

二、從來の文官武官尊卑の別を廢して全く同等とす。

三、兩班及び平民は法律上全く同等とし、貴賤門閥に拘らず人材を登用す。

四、公私奴婢の典籍を廢し、人身賣買を禁ず。

五、早婚を禁じ男子二十歲女子十六歲以上始めて嫁娶を許す。

六、從來妻妾共に子なき場合始めて養子を許すの制なるも自今一層之を勵行す。

七、貴賤の別なく寡婦の再嫁を許す。

八、犯罪者家族緣坐の律を廢す。

九、平民と雖も國を利し民に便なる事項は建議書を軍國機務處に提出するを許し、之を會議に付す。
その意見卓越なるものは之を官吏に採用す。

一○、大臣通行の際平民起立若くは下馬する習慣を廢す但し高等官には路を讓るべし。

一一、官吏不正に他人の金品を占有したるときは之を罰しその占有物件は之を沒收す。

一二、司法又は警察の官吏にあらざるものは何れの府·衙門·軍門と雖も人民を捕縛し又は刑罰を行ふ
ことを得ず。

一三、驛人·俳優·皮工等の賤民たるを免ず。

一四、從來の科擧を廢し、新に官吏登庸法を設くべし。

一五、新刑法の編纂せちるゝまでは大典會通刑典を施行するも栲刑を加ふるを得ず。

一六、租稅の納入には從來穀物·織物その他物品を以てせしを悉く金納に改む。

一七、各道監司に命じ郡縣の守令をして各面より一人を選出して鄕會を組織せしめその議決を得て
政令を施行せしむ。

一八、品行方正にして銳敏なる少年を海外に留學せしむべし。

一九、各衙門に外國顧問官を聘用すべし。

二○、宮內府の大小官吏は各府各衙門の官吏と相互兼任とするを得ず。

二一、鴉片の使用は從來之を禁止せるも自今一今層之を嚴にすべし。

二二、各州縣には便宜社倉を設け備荒儲蓄をなすべし。

二三、從前宮內府竝に各司より諸道に誅求の弊習は一切之を禁止す。

第一項の開國紀年は同月二十八日()より之を使用した。蓋し朝鮮に於て太祖卽位元
年より數へて開國何年とするは、明治九年以後各國との條約文中に已に用ひられてゐるが、此の
時一般に之を使用すべく定めたのである。

次で翌開國五○四年()九月九日太陰曆を廢して太陽曆を使用し、同年十一月十七日を以
て開國五百五年一月一日()と定めた。

第二項乃至第八項迄は一般庶民の間より非常の歡迎を受けたが、守舊の兩班は衷心竊かに之を
喜ばなかつた。

(4)大島旅團の活動

之より先き淸國は時局の急轉するを豫覺し、愈愈戰備に沒頭し軍の增派を計畵した。六月五日
袁世凱は援兵待受の爲め京城駐在領事を公州へ、仁川駐在領事を牙山へ向け派遣し、同時に巡査及
び商人倂せて八十名馬百頭を兩地に送つた。同月二十二日淸國は汽船海定號により兵四百名馬
匹七十を送り、二十四日牙山に到着した。之を淸國第二回の送兵とする。

是れより先六月七日牙山灣に上陸駐屯した直隷提督葉志超は時局に顧み兵を京城仁川に轉じ
ようとしたが李鴻章の許す所とならなかつた。七月十四日李鴻章は兵を海路平壤に轉送しよう
としたが、葉志超より今や南方の形勢は日日に切迫する旨の報告を手にし急に南方に增兵するに
決し、天津附近の兵を徵して英國汽船飛鯨號愛仁號に一千三百名、同じく英國汽船高陞號に千二百
名、砲十二門()を箚乘せしめ、軍艦濟遠、廣乙に護衛せしめて送兵した。飛鯨·愛仁は二十三
日牙山灣に入り二十四日白石里に上陸した。然るに高陞はこれより後れ通報艦操江に護衛せら
れて南航した。

豐島の海戰
牙山に於ける淸兵の總數
日本側にあつては第一遊擊艦隊司令長官海軍少將坪井航三は朝鮮近海警備の爲め、吉野()浪
速·秋津洲の三艦を率ゐて遊戈中、二十五日黎明忠淸南道牙山沖豐島附近に於て淸國軍艦濟遠·廣乙
の二隻と會した。午前七時五十二分濟遠先づ砲門を開いて吉野を擊ち、玆に始めて日淸海戰の端
を開いた。日艦三隻は直に淸艦二隻を追擊したが、濟遠は逸走し()廣乙は淺瀨に乘り
上げて自ら爆沈した。次で日艦は高陞·操江の南航するを發見し、秋津洲は操江を捕獲し浪速は高
陞を擊沈した。高陞乘込の淸兵は大部分溺死し、生存者百六十七名は獨逸軍艦に救はれ本國に還
送された。之によつて牙山營に於ける葉志超麾下に屬する總兵力は四千百六十五名()とな
つた。

當時の浪速艦長は後年日露戰役の際聯合艦隊司令長官として雷名を轟かした、後の元師海軍大
將伯爵東鄕平八郞()であり、旗艦吉野の艦長は大佐河原安一·砲術長は晩年內閣總理大臣と なつた加藤友三郞()であり、秋津州艦長心得は日露戰爭の時第二艦隊司令長官となつた上
村彦之亟であつた。

豐島沖海戰の確報京城に至るや、淸國代辨唐紹儀は無通告の儘七月二十七日京城を退去し、仁川よ
り乘船歸國の途に就いた。

京城南北の淸軍狀況偵察
臨津江の守備
日本陸軍にあつては初め一戶大隊の入城するや、一戶大隊長は京城南北に於ける淸兵の狀況を
探ぐる爲め、步兵中尉有吉雅一を牙山に同土橋吉次を開城に派した。大島旅團長の入城後、大本營
より()淸兵約五千五百南下する模樣ありとの通報あり、更に步兵中尉西山盛壽を牙山に
土橋中尉を平壤に進ましめ、又步兵中尉平田時丸をして土橋の後を追はしめた。かくして諸方面
の情報を總合して時局の益益切迫せることを知り得た。次で再び大本營より淸國毅字軍の四五
營は十八日陸路朝鮮に入るべく出發し、盛字軍六營は二十一日乘船南下すとの通報があつた。よ
つて步兵第二十一聯隊第二中隊長大尉林久實をして京城北方の要害たる臨津江南岸の守備を命
じた。同時に仁川にあつた同聯隊第三大隊を()第二野戰病院と共に梧柳洞に移し
た。淸兵南下の風評一般に傳はるや、京城の官民は淸の大兵間もなく入城するものと信じ、日本人
に對する態度は急に硬化し、勞働者は日軍の雇傭を避け、甚だしきは日本軍に防害を與へんとする
ものもあつた。

次で景福宮前に日韓兵の小衝突あり、大鳥公使、大院君の參內あり、國政大改革の宣明あり二十五
日高宗より大鳥公使に對し淸兵討掃の依賴あるや、旅團長は卽日午前十時漢江を渡つて牙山に向 ひ出發した。然しながら優勢なる淸兵の南下は殆んど疑を容れざる情勢にあり、京城を空虛にす
る能はざるを以て、左記諸隊を各要處に配置し、殊に重要なる臨津江守備の兵數を增加し特科兵を
加へ、步兵少佐山口圭藏をして長たらしめ之を臨津江獨立支隊となした。大島旅團長が引率して
南下したのは實に之等の各配置兵を控除した殘部全部であつた。

各所配置兵

釜山守備隊 步兵第二十一聯隊第八中隊
仁川守備隊 步兵第二十一聯隊第十一中隊 騎兵七騎
龍山兵站守備隊 步兵第十一聯隊第三中隊 騎兵五騎
龍山舍營病院 第一野戰病院半部
京城守備隊 步兵第十一聯隊第一大隊() 騎兵五騎
臨津獨立支隊 步兵第二十一聯隊第二大隊() 步兵第二十一聯隊第二中隊 騎兵第五大隊第一中隊の一小隊 砲兵第五聯隊第五中隊() 工兵第五大隊第一中隊の一小隊 第一野戰病院半部

以上の配置兵以外全部とは卽ち步兵第十一·第二十一兩聯隊·騎兵第五大隊第一中隊·野戰砲兵第五
聯隊·第三大隊·工兵第五大隊第一中隊の主力と特科隊若干、合計步兵十五個中隊(約三千)騎兵四十七
騎·山砲八門であり旅團長は之等の兵を率ゐて南下したのである。

然るに出兵に際し人馬の供給充分ならず、日本公使館は屢屢朝鮮政府に交涉し議政府の公文を
出し、日軍の通過に際しては地方官は其の要求に應じ充分の便利を與ふべく代價は日本軍より償
ふべしと通達したが、地方官憲は疑懼して政府の命に從はなかつた。公使館は卽ち非常手段とし
て軍隊より機敏なる兵士二十餘名を選拔し之に同數の巡査を配し、之を京城近部の龍山·鷺梁津·銅
雀津·漢江里·東大門其の他に布置し、通行の牛馬を悉く押收し以て一時軍用に供したのであつた。

牙山なる淸營にあつては二十六日午前聶士成をして兵二千四十名砲八門を率ゐて、牙山の前方
約七里なる成歡に進出して堡壘を築かしめ、翌日午前更に千名を之に增加し、自己は殘部の兵を率
ゐて二十八日天安に移つた。大島旅團は成歡の北方一里なる素砂場より二隊に分かれて進擊し
二十九日午前三時三十分より戰鬪を開始し、七時四十分全隊吶喊して淸兵の壘を陷落した。

大島少將は進んで牙山の本營を衝かうとし、一隊を派して其の地に至らしめたが、本營には已に
人影なく、淸兵は兵器需品を山積したまゝ、忠淸道洪州方面に退却したのであつた。後ち此の兵は
江原道より平安南道に向ひ、八月二十四日平壤の淸營に到着した。七月三十日大島少將は牙山に 入り敵の遺棄品を整理し、食糧品は附近の土民に分與し、他の品の大部分は仁川に送り、七月三十一
日午前四時各隊出發京城に向ひ、八月五日全部の兵と共に京城に凱旋した。此の役日軍の死傷は
將校六名下士卒七十六名淸軍の死傷は五百名に達したのである。

日軍の捷報京城に達するや民心稍安堵する所あり、鍾路の各大廛は三十日より開店し、八月一日
頃より市中の人出漸く繁く殆んど前月二十三日前の狀態に復歸した。日本人側にあつては守備
軍·公使館員·居留民等は歡喜譬ふるに物なく直に歡迎を協議し、舊龍山文平山の東側の平地に高さ
四丈許の綠門を造り、中央に大鳥公使の筆になる凱旋門()歡迎門()の扁額を揭
げた。八月五日公使館員よりは牛と酒樽とを門側に運び、日本居留民は氷を遠く漢江南岸迄運び
饗應の準備全く成つた。此の日早朝より京城守備の日本兵は道路の兩側に竝び、工兵は銅雀津に
渡つて舟を艤した。大鳥公使は館員を隨へ、勅使李允用·軍國機務所代表鄭敬源は薄紅淺綠の朝鮮
禮裝を着して凱旋門側に到着した。日軍は每日黃昏より出發振威·水原·果川等に晝間の暑を避け
先頭には朝鮮人人夫が捕獲品の鑼と太皷とを亂打し又捕獲品たる黃龍旗數旒及び葉字·聶字·魏字
商字·馮字等の文字を繡出せる軍旗二十七旒、其の他幢と稱する竿棒、鳥毛を附したる長槍等二十餘
を捧げ、大砲八門は牛に牽かせ各各「成歡の戰利品」「淸兵大敗の證」等と墨書せる小旗を添へ、哨兵之を
監し全軍其の後に從ふた。はじめ出征の時純白であつた戎衣は全く褐色に染み、一見して激戰の
程を偲ぶことが出來た。大島旅團長·長岡參謀長等先づ馬を下るや、國分象太郞は李允用の國王殿
下よりの感謝慰勞の勅旨を通譯し、鄭敬源の祝辭を譯した。次で主客互に交歡する所あり、公使は 「天皇陛下萬歲」を旅團長は「朝鮮國大君主萬歲」を鄭敬源は「大日本國皇帝陛下萬歲」を發聲し一同齋唱
して凱旋の式は終はつた。時正に午前九時、盛夏の烈日はその光を漢江畔白砂の上に整列せる凱
旋軍に投じた。之より分捕品を先
頭にして全軍進行を始め、先頭が幕
營地に達する頃大行李は尙ほ凱旋
門の側にあり、蜿蜒たる長蛇の軍は
肅肅として萬里倉に向ひ、群衆は道
路の兩側に蝟集して此の壯觀に撲
たれた。

明治二十七年八月五日日軍の凱旋と凱旋門場所は舊龍山文平山東側(米僊畵)

翌六日夕景より凱旋將校の歡迎
會が倭城臺に於て催された。(現倭城臺
科學館及び其の上方は當時尙ほ未だ
開拓せられず、南山麓の一自然林たる
に過ぎなかつた。從つて會場は今の南
山町三一、二番地、海軍官舍及び其の附
近であつた。
)會場の入口には綠門を設
け歡迎の二字を表はし日韓の國旗
を交叉しその左右には紅黃二旒の
無文字の捕獲旗を揭げ、門より三條の
繩を張つて紅燈を弔し、聶字·葉字·魏字
等を繡した紅色紫色の捕獲軍旗を連
ね、場の一隅には捕獲品の一たる金皷
を置いた。宴央にして大鳥公使の挨
拶あり、大島少將之に答へ今西恒太郞
の新聞記者及び日本國民を代表する
祝辭あり、武內兵站監は朝鮮兵士の好
意を縷述陳謝する所があつた。新納
海軍少佐は日本海軍は僅かに數隻の
淸艦を破つたに過ぎぬ。やがて東洋
無比の大戰鬪艦たる定遠·鎭遠二隻を
擊沈した後、各位の賞讚を博する機會
あるべきを信ずと云ひ、李埈鎔()
外務督辨金嘉鎭又順次立つて述ぶる所あり何れも兩國人の盛なる喝采を博した。夜に入るや曩 に七月六日大本營の命を受けて入城した日本軍樂隊()は、引き續き嚠喨たる音樂を
奏し十二時前一同歡を盡して解散した。此の夜及前日の凱旋式に列國使臣は一人も列席するも
のがなかつた。

是より五日前八月一日明治天皇は淸國に對して宣戰の勅を發し給ひ、淸國も亦同日を以て日本
に向つて戰を宣した。

天佑ヲ保全シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國皇帝ハ忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス」

朕玆ニ淸國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ百僚有司ハ宜ク朕カ竟ヲ體シ陸上ニ海面ニ淸國ニ對シテ交
戰ノ事ニ從ヒ以テ國家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ苟モ國際法ニ戾ラサル限リ各各權能ニ應
シテ一切ノ手段ヲ盡スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ

惟フニ朕カ卽位以來玆ニ二十有餘年文明ノ化ヲ平和ノ治ニ求メ事ヲ外國ニ構フルノ極メテ不
可ナルヲ信シ有司ヲシテ常ニ友邦ノ誼ヲ篤クスルニ努力セシメ幸ニ列國ノ交際ハ年ヲ逐フテ
親密ヲ加フ何ソ料ラム淸國ノ朝鮮事件ニ於ケル我ニ對シテ著著隣交ニ戾リ信義ヲ失スルノ擧
ニ出ムトハ

朝鮮ハ帝國カ其ノ始ニ啓誘シテ列國ノ伍伴ニ就カシメタル獨立ノ一國タリ而シテ淸國ハ每ニ
自ラ朝鮮ヲ以テ屬邦ト稱シ陰ニ陽ニ其ノ內政ニ干涉シ其ノ內亂アルニ於テ口ヲ屬邦ノ拯難ニ
藉キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ朕ハ明治十五年ノ條約ニ依リ兵ヲ出シテ變ニ備ヘシメ更ニ朝鮮ヲシ テ禍亂ヲ永遠ニ免レ治安ヲ將來ニ保タシメ以テ東洋全局ノ平和ヲ維持セムト欲シ先ツ淸國ニ
告クルニ協同事ニ從ハムコトヲ以テシタルニ淸國ハ翻テ種種ノ辭柄ヲ設ケ之ヲ拒ミタリ帝國
ハ是ニ於テ朝鮮ニ勸ムルニ其秕政ヲ釐革シ內ハ治安ノ基ヲ堅クシ外ハ獨立國ノ權義ヲ全クセ
ムコトヲ以テシタルニ朝鮮ハ旣ニ之ヲ肯諾シタルモ淸國ハ終始陰ニ居テ百方其ノ目的ヲ妨礙
シ剩ヘ辭ヲ左右ニ托シ時機ヲ緩ニシ以テ其ノ水陸ノ兵備ヲ整ヘ一旦成ルヲ告クルヤ直ニ其ノ
力ヲ以テ其ノ欲望ヲ達セムトシ更ニ大兵ヲ韓土ニ派シ我艦ヲ韓海ニ要擊シ殆ト亡狀ヲ極メタ
リ卽チ淸國ノ計圖タル明ニ朝鮮國治安ノ責ヲシテ歸スル所アラサラシメ帝國カ率先シテ之ヲ
諸獨立國ノ列ニ伍セシメタル朝鮮ノ地位ハ之ヲ表示スルノ條約ト共ニ之ヲ蒙晦ニ付シ以テ帝
國ノ權利利益ヲ損傷シ以テ東洋ノ平和ヲシテ永ク擔保ナカラシムルニ存スルヤ疑フヘカラス
熟熟其爲ス所ニ就テ深ク其ノ謀計ノ存スル所ヲ揣ルニ實ニ始メヨリ平和ヲ犧牲トシテ其非望
ヲ遂ケムトスルモノト謂ハサルヘカラス事旣ニ玆ニ至ル朕平和ト相終始シテ以テ帝國ノ光榮
ヲ中外ニ宣揚スルニ專ナリト雖亦公ニ戰ヲ宣セサルヲ得サルナリ汝有衆ノ忠實勇武ニ倚賴シ
速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝國ノ光榮ヲ全クセムコトヲ期ス

かくして日淸間は正式に交戰狀態に入り、十四日英·蘭·葡の三國は嚴正局外中立を宣言し其の他
の諸國も相次いで之に倣ふた。朝鮮が日本の勸告に從ひ國政の改革を斷行するに決するや、八月
二十日大鳥公使は外務大臣金允植と暫定合同條款なるものを調印した。その內容は(一)朝鮮は日
本の勸告に從つて內政の改革を厲行すること (二)或る時機を見計ひ京釜京仁間に於て日本政府 若くは日本の或る會社に鐵道敷設の訂約起工をなすこと (三)兩國の親善を計り貿易を奬勵する
爲め全羅道に一通商港を開くこと()(四)七月二十三日王宮近傍に起つた兩國兵衝突の
件は之を不問に附すること (五)適當の時機に王宮護衛の日本兵を撤退すること等であつた。

此の頃淸國兵は日日平壤に集中した。豫て淸國兵の强大を信ずる朝鮮の朝野には、日淸兩國の
勝敗を疑ひ躊躇するものが多かつた。是に於て公使は兩國一致して東洋の平和を計らざるべか
らず、之が爲めには同盟して淸兵を國外に驅逐する必要ありとなし八月二十六日に至り大鳥公使
は外務大臣金允植()との間に、左の同盟條約を締結し兩國は益益親
密の度を加へた。

大日本 大朝鮮兩國盟約
大日本 大朝鮮兩國政府は日本明治二十七年七月二十五日 朝鮮曆開國五百三年六月二十三日に於て朝鮮國政府より淸兵撤退一切を以て
朝鮮國京城駐在日本特命全權公使に委託して代辨せしめたる以來、兩國政府は淸國に對し、旣に攻
守相助くるの位置に立てり。就ては其事實を明著にし、倂せて兩國事を共にするの目的を達せん
が爲、下に記名する兩國大臣は、各全權委任を奉じ、訂約したる條款左に開列す。

第一條 此盟約は淸兵を朝鮮國の國境外に撤退せしめ朝鮮國の獨立自主の鞏固にし日韓兩國の
利益を增進するを以て目的とす
第二條 日本國は淸國に對し攻守の戰爭に任し朝鮮國は日兵の進退及其糧食準備の爲及ぶたけ
便宜を與ふへ
第三條 此盟約は淸國に對し平和條約の成るを待て廢罷すべし 之れが爲兩國全權大臣記名調印し以て憑信を昭にす

大日本國明治二十七年八月二十六日
特命全權公使 大鳥圭介
大朝鮮國開國五百三年七月二十六日
外務大臣 金允植

盟約成ると同時に大鳥公使は宮闕內の日兵を光化門外の親軍營に移した。

此の同盟成るに係はらず朝野は尙ほ首鼠兩端を持し、大院君の如きは密に款を淸軍に通じ、平壤
陷落後山縣第一軍司令官の手によつてその密書が發見せられた。()又朝鮮の使節が交戰中に
係はらず、淸國西大后六十歲の壽を祝する爲め、九月七日山海關を經て天津に到着した事實のあつ
たのは、之れ亦款を通じてゐたことを知るに足るのである。

同盟の將に成立せんとするや、明治天皇は特に樞密院顧問官兼賞勳局總裁侯爵西園寺公望()
を勅使とし、國王·王妃見舞の爲め京城に派遣を命じ給ふた。

二十九日西園寺侯爵は法制局長官末松謙澄·式部官田中建三郞等を隨へ京城に着し、親しく國王
王妃に謁見し、日本皇室は朝鮮君民の安寧幸福に拳拳たる誠意の程を傳達し且つ贈物を奉呈した。
王妃が外國使臣を引見せられことは從前全く無つたことであるが、此の時西園寺侯爵によつて其
の例が開かれた。七月二十三日の事變以來約一箇月間、京城は殺氣滿滿たるものあり、國王·王妃も
疑懼の念に襲はれたが、勅使の入城により大に之を緩和することを得た。

大島旅團京城以北の偵察
町口·竹內兩少尉
京城開城間の軍用電信
多數の淸兵平壤に入城
七月二十一日頃より北淸にあつた淸兵は續續平壤に集中した。大本營に於ては第五師團及第
三師團の一部を以て平壤を攻擊することに決し、八月一日第五師團長陸軍中將子爵野津道貫をし
て、同隊の殘部を引率出發せしめた。初め大島旅團長は入城以來北方の敵狀を探知する必要に迫
られ之が對策を怠らなかつた。曩に出發した偵察將校の報告及び大本營の通報を總合し七月上
旬迄には大兵平壤に集中し進んで南下する意志あることを察し、更に步兵中尉町口熊槌を北方に
派した。次で騎兵少尉竹內英男に下士卒十四騎を附し、其の後を追はしめて()偵察を密な
らしむると同時に、平田中尉()町口中尉の安否を探索せしめた。其の日恰も平田中尉歸來
して、平壤には未だ淸兵を見ざるも、大兵南下の風評益益盛にして民情一般に不穩の徵ある旨を傳
へた。これより先さ町口中尉は十三日平壤に着し、偵察に努めたが淸兵次第に接近する模樣あり、
民情益益險惡に赴き危險身邊に迫まるを以て、一旦中和に退き三十日竹內少尉の來るに會し、共に
黃州に引き揚げ時時中和との間を往復し、詳細なる偵察狀況を臨津江の獨立支隊を經て絶えず、大
島旅團長に通報した。同支隊長山口少佐は又淸國所有各地電信局及朝鮮機器局(現元町三丁目朝鮮書籍印刷會社
の處にあつた
) の材料を以て、京城開城間に電線を架設し、凱旋式の翌日より之が開通を始めた。之れ日
本側の施設した京城以北に於ける電線架設の最初である。大島旅團長の牙山より凱旋後、間もな
く大本營より淸國盛字軍六營·毅字軍四營は此の月下旬鴨綠江に上陸の豫定なる旨通報あり、町口
竹內兩士官より八月四日以來、四千以上の淸國步兵は騎兵五十、砲五十と共に平壤に到着し、後續部
隊續續入壤する模樣であるとの通報があつた。之に加ふるに牙山の敗兵()は平壤の兵に合 偵察隊の增派
京城の守備隊
する爲め、北走の途中北方の交通線を破毁する憂あるを以て、八月六日一小隊(步兵第二十一聯隊第六中隊の一小隊·隊長
中尉林康太
)をして阿峴を發して開城に向はしめ、次で八日一大隊()を平壤に派
し偵察隊の急を救はしめ、又一小隊()をして十一日臨津を發し朔寧に
向はしめ、敗走淸兵の抑壓及び同地方の偵察をなさしめた。惜むべしその前日八月十日町口·竹內
の兩將校は中和に於て淸の步兵百五十名·騎兵五十騎に襲擊せられて戰死し()重要
なる最先端の通報機關を失ふた。十四日一戶大隊は平山()に到着し、通信所を開き漸
く町口·竹內戰死後の通報機關を回復した。而して先づ臨津江附近及び朔寧を扼し、後日平壤進擊
に備ふるため新に朔寧·臨津の二支隊を編成し、朔寧支隊には同地方の守備偵察に當ると共に臨津
朔寧間の電線架設を命じ八月十一日阿峴を發せしめ、翌十二日臨津支隊に()京城出發を
命じた。後ち又一隊()を臨津支隊に合した。かくて北方に對する諸
配置成り、十五日元山より到着した步兵第二十二聯隊第二大隊を以て京城の守備に任ぜしめた。

八月十九日第五師團長野津中將は陸路釜山より長驅し、松坡鎭·上往十里を經東大門より入城し
た。師團長は管下兵力の集中を待ち左記により平壤包圍攻擊の計畫を立てた。

長の入城と北進命令一、從來の混成旅團より朔寧分遣支隊を除けるものを以て更に混成第九旅團となし、義州街道を
前進し專ら敵の正面に動作せしむ。

二、砲兵中佐柴田正孝の指揮に屬し、元山より京城に向ひ行進中なる諸隊を朔寧分遣支隊に合し
て朔寧支隊となし、朔寧より新溪·三登·江東を經て步進し敵の左側に逼らしむ。

三、躬ら主力を率ゐ敵の背後に逼り退路を奪つて攻擊し、之を西方卽ち海岸に驅逐す。

又京城その他の守備を左の通りとした。

京城守備隊
長 步兵少佐 安滿伸愛
步兵第二十二聯隊第二大隊()京城屯在
兵站守備隊
步兵第二十二聯隊第五中隊 仁川屯在
步兵十二聯隊第十二中隊 騎兵第五大隊第二中隊の一分隊 龍山屯在
電線守備隊
步兵第二十一聯隊第八中隊 洛東屯在

これによつて野津中將は卽日大島少將に北進の準備を命じた。

二十一日大島少將は萬里倉及びその他に幕營せる旅團主力の諸隊を率ゐ、義州街道より平壤に
向ひ列伍肅肅として進發した。是に於て此の年六月以來京城の鎭定と京城以南にあつた淸兵の
掃蕩に盡し、京城に緣故最も深き大島將軍の一行は、此の朝卽ち八月二十一日の早朝全く京城を去
つたのである。

九月一日野津師團長は同師團の殘部を率ゐ平壤に向つた。日韓攻守同盟の結果高宗は師團長 護衛の爲め、壯營中隊長李斗璜()の率ゐる一隊()を差遣し、開城に於て
師團長と會せしめた。爾來壯營隊は師團司令部と行動を共にした。九月下旬師團長は壯營隊の
勞を犒ひ特に京城に歸還せしめた。

第五師團京城出發の日大本營は第五·第三の兩師團を以て第一軍を組織することに決し、時の樞
密院議長陸軍大將伯爵山縣有明を以て司令官に任じ、八日長門丸に搭乘せしめ、同時に運送船三十
八隻に第三師團の主力を搭乘宇品を出發せしめた。山縣司令官は第三師團長陸軍中將桂太郞、竝
に戰況視察の途にある海軍軍令部長海軍中將樺山資紀等と共に十二日仁川に到着し、翌日及び翌
翌日に入城した。

戰局かくの如く進展せるより明治天皇は東京なる大本營を廣島に進められ、十五日舊廣島城內
に入り軍務を統帥せられ、參謀總長有栖川熾仁親王·參謀次長川上操六·內閣總理大臣伊藤博文·陸軍
大臣大山巖·海軍大臣西鄕從道·宮內大臣土方久元·侍從長德大寺實德等の文武百官扈從した。

大本營にては恰も此の日を以て平壤包圍攻擊を斷行することゝしたが、僅か一日の戰鬪を以て
之に捷ち翌十六日には完全に平壤を陷落した。此の日山縣大將は桂第三師團長と共に京城を發
してその夜碧蹄館に一泊し、翌朝野津中將より平壤陷落の報を手にし直に大本營に電奏した。

翌十七日日本聯合艦隊は南滿洲大洋河口に近き大鹿島南方に於て、淸國北洋艦隊と相會して之
に捷つた。所謂黃海の大海戰なるものがこれである。

越えて九月二十五日大本營は第二軍を編制することに決し、第一師團(師團長陸軍中將山地元治·第一旅團長少將乃木希典· 第二旅團長陸軍少將西寬治郞·參謀長大寺安純)及び第六師團の一部たる混成第十二旅團()を以て
之を組織し、陸軍大臣大山巖()を司令官に補した。第一旅團は十月十五日
宇品を出港して花園口に向ひ二十六日同地に上陸し、混成第十二旅團は門司を發し十月二十七日
仁川に着し、仁川及萬里倉に駐屯し間もなく出發して花園口に上陸した。

以上を日淸戰爭の初期に於ける京城及び朝鮮關係事項の槪況とする。

(5)京城を中心とする日軍の徂來

此の間に於て京城は頻繁に日本兵の去來する所となり、萬里倉の假兵舍、及び京城日本人家屋は
常に之等日本兵の宿舍に充てられたのである。今八月十五日以後の京城に於ける日本兵の去來
を記せば次の通である。

(1)八月十五日步兵第二十二聯隊第二大隊()は元山上陸の後阿峴に到着し專ら京城
の守備に當つた。

(2)同日頃步兵第十二聯隊第二大隊()は釜山上陸後京城に到着。

(3)八月十八日頃步兵第十二聯隊第三大隊()は釜山上陸後京城に到着。

(4)八月十九日第五師團司令部騎兵一小隊()は釜山上陸後京城に到着。

(5)八月二十二日より二十九日の間に於て第十旅團の一部は、輸送の便宜上四梯團に區分して順
次京城に到着、其の內第四梯團は旅團長陸軍少將立見尙文之が指揮に當り二十一日海路仁川
に到着して入城。

(6)九月十三日より十九日の間に於て第一軍司令部第三師團豫備砲廠·第三第六野戰電信隊、兵站
輜重()が京城に到着した。九月十三日には桂第三師團長は參謀長心得步兵
中佐木越安綱等と共に京城に到着、九月十四日山縣第一軍司令官は參謀長陸軍少將小川又次
等と共に京城に到着し海軍軍令部長海軍中將樺山資紀も同行した。次で左の如く順次京城
を出發した。

(1)十月十六日第一梯團()出發。

(2)九月十七日第二梯團步兵第十九聯隊()出發。

(3)九月十八日第三梯團()出發。

(4)九月十九日第四梯團()出發。

(5)九月二十日第五梯團()出發。

(6)十月六日步兵第二十二聯隊第二大隊三箇中隊()出發。此の大隊は八月十五日以
來京城守備隊となつて殘留したが此の日麾下の第七中隊()のみを留め北行。

尙ほ元山に上陸し京城竝に京城附近を通過した部隊は左の通である

(1)八月五日元山入港の步兵第二十二聯隊第二大隊()は十五日京城に到着。

(2)八月七日元山入港の野戰砲兵第五聯隊本部は同第一大隊()步兵第十二聯隊第一大隊
()()は十日出發京城に向ふ途中命を受け第二十一聯隊第二大隊と合
し朔寧支隊となつた。

以上を第一軍の輸送中に於ける京城附近の狀況とする。次で第二軍の輸送隊も亦一時京城に宿
營した。卽ち十月二十七日以後に第六師團混成第十二旅團及第一輜重監視隊の一部(第十二旅團長長谷川好
道指揮
)は仁川に入港し大分は仁川典圜局附近()に宿營しその他は萬里倉及阿峴に
來宿したが、翌二十八九日より順次仁川港を經花園口に向ふた。

十月二十八日東學黨再起の報あり京城も亦憂慮すべきにより、步兵第二十四聯隊第七中隊(糧食縱列
若干と共に
)を十一月四日迄仁川に留め、京城守備隊たる後備步兵第十八大隊の來港を待つて出發せし
めた。十八大隊は爾來京城光化門通舊朝鮮步兵隊營內にあつて永く京城を守備し、後ち後備第十
九大隊亦萬里倉に駐し、共に東學黨再起の時之が鎭定に當てた。()

日軍行軍の困苦
人夫の不足
此の役日軍兵站の行動は困難を極めた。卽ち沿道の農村は赤貧であつて直に食糧を得ること
が出來ず、全く兵站の後送に待つ外に方法がなかつた。然るに軍夫は不足し、勢ひ土民より之を徵
しようとすれば、土民は軍隊の通過を知つて逃避するもの多く、辛うじて徵發し得たものも忍耐な
く紀律なく、時に工兵の用ゐる爆藥の爆破を聞いては戰鬪の開始と誤り山中に逃走して歸らず、已
むなく戰鬪員をして之に代らしめたのであつた。

通貨通搬の不便
日軍の道路改修
由來京城を除く他の地方にあつては通貨は朝鮮古來の葉錢のみであり、その運搬の不便と價値
の貧弱とは、往往錢貨その者の運搬費に大部分消失する狀態であつて、軍隊の輸送に大なる障害を
齎らした。加ふるに道路は狹隘で峻嶮な所が多く、殆んど車馬の進行に適しなかつた。初め釜山
上陸以來は、工兵隊()を特派して之が改修をなさし めた。九月上旬に漸く京釜間の改修を終つたが、鳥嶺の如きは之を如何ともする能はず、其の他の
道と雖も漸く人車を通ずるに過ぎなかつた。然るに其の改修道路は當時として全く舊道路の面
目を一新したと稱せられた程であつた。

日本軍部の努力は右の通であつたが、日本公使館も亦鮮民に對して盡す所があつた。卽ち事變
以後京城民の大部は亂を地方に避け、京城平壤間は兵馬往來の爲め住民は常業を失ひ窮地に陷る
もの多きより、公使館は之が救費を日本政府に請求し、又韓國政府に照會して地方官の援助を受け
貧民約一萬戶に對し米錢若干を分與して之を賑恤した。之れと前後して西園寺侯爵の皇室慰問
使として入城するあり、朝野の疑懼は稍緩和することを得た。

攻守同盟成るや、朝鮮政府は極力人馬の徵發を助くる爲め官吏を派し人民を督促したが、その命
に應ずる者は極めて少なかつた。已むを得ず竹內兵站監は、自ら京城を中心とし牛馬の徵發に當
り、九月中旬迄に牛馬約一千頭を得た。京城仁川の日本居留民は軍の窮狀を坐視するに忍びずと
し、言語に通ずる數十の有志は、卒先して人夫の監督に當り大に軍隊の行進を助けた。右の內京城
居留民中より出動したものは次の人人であつた。

鷹取虎次郞·松井虎吉·園田米藏·大塚覺藏·岩下彌平·平岡虎太郞·古江又四郞·永瀨某·三山某等外約十
數名。

後ち第一軍司令部が北進した時山縣軍司令官は十月十六日平安北道順安より在京城の大鳥公使
及在平壤の外務書記官小村壽太郞に對し、朝鮮政府は責任を以て人夫牛馬を徵すること、及び日本 銀貨の通用を通達せしむることを談ぜしめ、十二日政府は之に應じ稍輸送上の障害を除くことを
得た。

(6)井上伯の入城
と革政

戰線滿洲に移動
報聘使義和宮の出發
井上特命全權公使の入城
大院君と閔妃との軋轢
新政府が政治の改革をな
しつゝある間に、一方日本軍
は到る處大捷を博して淸軍
を擊退し、戰線は國境を越え
て滿洲に移動した。豫て內
心日本の實力を疑ふた朝鮮
の朝野も、之れを見ては日本
を信ぜざるを得ず、九月(陽曆十月
十日
)義和宮李堈を報聘使とし
て愈吉濬等以下九名を隨は
しめ日本に渡り、二十日廣島
大本營に於て明治天皇に謁
見を請ひ誠意のある所を奏
上した。又更に東京に至り
昭憲皇后に謁した。

大院君の別墅我笑亭

十月にいたり大鳥公使は
職を辭して同月十九日京城
を去り、內務大臣井上馨代つ
て特命全權公使となり(十月十五
日任命
)二十六日入城した。此
の頃大院君と閔妃の軋轢は
甚だしきものあり、大院君は
閔妃を廢し國王を讓位せし
め、その孫李埈鎔()をし
て王位を嗣がしめようとし
た。その頃又開化派の主要なる一人法務協辨金鶴羽が十月三十一日夜半突然刺客の爲めに暗殺
せられた事件があつた。これ亦大院君派のなす所であつて、翌年三月に至り李埈鎔も此の件に座 した事が露はれ、江華島沖屬島に十年の流刑の身となつた。()

大院君の失脚
我笑亭の大院君
大院君は尙ほ日本軍の實力を信ぜず、日淸兩軍の勝敗未だ決せざるに乘じて、異圖を起し、平壤營
內の淸將葉志超に通じ又南鮮の東學黨を使嗾し、南北相應じて日本軍を挾擊しようとした。その
證跡は平壤陷落の時山縣司令官の手に押收せられて分明した。之等事件の爲め大院君は十一月
二十三日遂に雲峴宮に退隱し、尋いで孔德里の別墅我笑亭に移り其所に留まつて久しく憂悶の日
を送らざるを得なかつた。

井上公使着任後は、從來政爭の弊風を打破し嚴格に宮中と府中とを區別し、日本維新の前例に倣
ひ法制上完全なる獨立の內閣を立て、完備せる法典を定め、之に準據して國政を運用する大改革を
遂げんと決心した。よつて高宗竝に王妃に謁し、熱誠を以て革政の根本義を陳述する所があつた。
其の內政改革綱領は二十一箇條より成つたものであるが、之は當時の政狀及び社會相を知る好資
料で卽ち左の如くである。

第一條 政權ハ總テ一途ニ出デザルベカラズ

第二條 大君主ハ政務ヲ親裁スルノ權アリ又法令ヲ守ルノ義務アリ

第三條 王室ノ事務ハ國政ト分離セシムベシ

第四條 王室ノ組織ヲ定メザルベカラズ

第五條 議政府竝各衙門職務權限ヲ定メザルベカラズ

第六條 租稅ハ度支衙門ヲシテ統一セシメ且人民ニ課スル租稅ハ一定ノ率ヲ以テスルノ外ハ
何等ノ名義方法ニ拘ラズ徵收スベカラズ

第七條 王室及各衙門ノ費用ヲ豫定セザルベカラズ

第八條 軍制ヲ定メザルベカラズ

第九條 百事虛飾ヲ去リ誇大ノ弊ヲ矯メザルベカラズ

第十條 刑律ヲ制定セザルベカラズ

第十一條 警察權ヲシテ一途ニ出デシメザルベカラズ

第十二條 官吏ノ服務規律ヲ立テ之ヲ嚴行セザルベカラズ

第十三條 地方官ノ權限ヲ制限シテ之ヲ中央政府ニ收攬セザルベカラズ

第十四條 官吏ノ登用竝免黜ノ規則ヲ設ケ私意ヲ以テ之ヲ進退スベカラズ

第十五條 勢權ノ爭奪又ハ猜疑離間ノ惡弊ハ斷ジテ之ヲ止メ政事上ニ復讎的觀念ヲ抱カシムベ
カラズ

第十六條 工務衙門ハ未ダ必要ヲ認メズ

第十七條 軍國機務所ノ組織權限ヲ改メザルベカラズ

第十八條 熟練アル顧問官ヲ各衙門ニ聘用スベシ

第十九條 留學生ヲ日本ニ派遣スベシ

第二十條 國是一定ノ心要

高宗は大に感動して之を納れられ、曩に甲申の亂に罪名を被り日本に亡命し、後ち許されて歸國
した朴泳孝·徐光範を奉用し朴泳孝を內務大臣に、徐光範を法務大臣に任じ、以て內閣一部の交迭を
行はれた。朴泳孝には亦錦陵尉の尊位さへ授けられた。是に於て政界は一變轉をなし全く隔世
の觀を呈した。

これより金弘集·朴泳孝の二人を中心とする新政府は、日本政府より三百萬圓の貸與を受けてそ
の資となし、()軍國機務所の決議による外國人顧問招聘の件に關しては、井上公
使の推薦により左記日本人を招聘し、總て同公使の指導により官制を定め法律を作り、着着として
改革の大業を進めた。

內閣顧問 石塚英藏()
宮內府顧問 岡本柳之助
內部顧問 齋藤修一郞
法務顧問 星亨()
度支顧問 仁尾惟成
軍務顧問 楠瀨幸彦()
遞信顧問 山田雪助
警務顧問 武久克造

尙ほ左記傭聘者等を加ふれば日本人關係者は全部で四十餘名に達した。

顧問補佐官 澁谷加藤次 淺山顯三 栗林次彦 佐藤潤象
曾我勉等その他

所謂甲午の改革と稱するは卽ち之れであつて、之によつて國初以來殆んど改廢を見ず繼續し來
つた諸制度に、空前の革を與へ舊態は全く一變した。

翌明治二十八年一月各大臣は淸國の羈絆を脫し、中興の大業を翼贊すること、國是を一定し王家
を護ること、王家の戚里が大政に干涉することを排し、政令多岐に出づることを矯正することの六
箇條を宣明した。

誓言

惟我輩朝鮮人。肅然共誓。

一曰。以脫淸國之駕馭。建獨立之根基。翼贊中興鴻業。奉護王室定爲國是。確秉不撓不屈
之心。排百難而力行不已事。

二曰。國家之基礎不固。則不足以安王室。上下同秉此義。一念無怠事。

三曰。王室戚閨敢行干涉大政。政府各大臣共斥絶。以矯政出多門之宿弊事。

四曰。政府各大臣對大君主陛下。擔着國務之責成事。

五曰。推擧潔正賢能之人。其進退黜陟不敢容私事。

六曰。立四民同等之法事。

同月七日()高宗は斷然淸國の羈絆を脫して、國政の釐革を行ふ旨を宣明する爲め、王世
子と共に大廟に謁し、洪範十四條の實行を祖宗の靈前に告げられた。甲午の宣明と云ふは卽ち之
である。

維開國五百三年十二月十二日。敢昭告于皇祖列聖之靈。惟朕小子。粵自沖年。嗣守我祖宗
丕丕基。迄今三十有一載。惟畏敬于天。亦惟祖時式。時依屢遭多難。不荒墜厥緖。朕小子 其敢曰克亭天心。亶由我祖宗眷顧騭佑。惟我皇祖肇造我王家啓。我後人歷有五百三年。逮
朕之世時運丕變。人文開暢。友邦謀忠。廷議協同。惟自主獨立。廼厥鞏固我國家。朕小子
曷敢不奉答天時。以保我祖宗遺業。曷敢不奮發淬勵。以增光我前人烈繼。時自今毋他邦是
恃恢國步于隆昌。造生民之福祉。以鞏固自主獨立之基。念厥道毋或泥于舊毋。狃于恬熙惠
迪。我祖宗宏謨。監察宇內形勢。釐革內政。矯厥積弊。朕小子玆將十四條洪範。誓告我祖
宗在天之靈。仰藉祖宗之遺烈。克底于績罔或敢違惟明靈降鑑。

一割斷附依淸國慮念。確建自主獨立基礎。

一制定王室典範。以昭大位。繼承曁宗戚分義。

一大君主御正殿視事。政務親詢各大臣裁決。后嬪宗戚不容干預。

一王室事務與國政事務。須卽分離。毋相混合。

一議政府及各衙門職務權根。明行制定。

一人民出稅。總由法令。定率不可妄加名目。濫行徵收。

一租稅課徵及經費支出。總由度支衙門管轄。

一王室費用。率先節減。以爲各衙門及地方官模範。

一王室費及各官府費用。豫定一年額算。確立財政基礎。

一地方官制。亟行改定。以限節地方官吏職權。

一國中聰俊子弟。廣行派遣。以傳習外國學術技藝。

一敎育將官。用徵兵法。確立軍政基礎。

一民法刑法。嚴明制定。不可濫行。監禁徵罰。以保全人民生命及財産。

一用人。不拘門地。求士遍及朝鮮。以廣人才登庸。

一月十一日()議政府を內閣と改稱し、同時に宮內にあつた舊軍國機務所(軍國機務所は前年十二月十
七日之を廢した。
)の位置修政殿に之を移轉した。十三日總理大臣金弘集は上奏して、王室の尊稱を左記の
如く改めた。

王殿下を 大君主陛下
王太妃殿下を 王太后陛下
王妃殿下を 王后陛下
王世子殿下を 王太子殿下
王世子嬪邸下を 王太子妃殿下

次で李埈鎔は最初の日本駐箚全權公使に任ぜられ、(李埈鎔は間もなく之を辭して歸國した。彼が喬桐に流されたのは二月後の事であつて六月に
至り特釋の上歸城した
)甲申の亂に關係せる人人は悉く罪を免じその官を復された。

二十一日日本の制度に倣ひ多少の斟酌を加へ、內閣官制を發布し、八衙門制を改めて內部·外部·度
支部·軍部·法部·學部·農商工部()の七部制となし總理大臣及び七國務大臣の合議に
よる制となした。

二月朝鮮が淸の羈絆を脫したことを表明する爲め、古來國王が支那使節の入城を迎ふる場所に あつた西大門外峴底洞の迎恩門を破毁した。

現に二本の石柱がその地に殘存するは、卽ちその門柱の石材部である。翌年十一月(陰)獨立協會
()は右石柱の南方に獨立門を建設する事を發起して寄附金を募集し、二十一日定礎式を擧げ
た。此の日會するもの官民合して五六千人、官立英語學校·私立培材學堂の生徒は體操唱歌をな
して興を添へた。

はじめ朝鮮の地方制度は第三代太宗の時()全國を八道に分つたが、今年の五月に至り此の
制を撤廢し、全國を二十三府三百三十六郡とし、京城には漢城府を置き其の下に十一郡を屬せしめ
各府に觀察府·各郡に郡守を置いた。

(7)日淸役直前の京城市街

明治二十七年入城した英國婦人バード·ビシヨツブは其の著コレア·エンド·ハー·ネーボアス(Mrs·Bi-
shop;Korea and Her Neigh-bours.2 Vols.1898,London
)中に婦人特有の觀察として京城の外貌を如實に且つ微細に描寫してゐ
る。因つて今玆に其の抄譯を揭げる。此の外貌は恐らく國初以來のものなるべく、其の儘日露戰
爭後に至つたのであるが、統監政治及び總督政治時代に入るに及んで京城は全く舊殼を蟬脫して
潑剌たる近代的都市の容姿を呈するに至つた。

此處は最早京城の城外である。高く石を築き上げた城壁は毁れては居るものゝ蜿蜒として
眼前に展開する。二層樓の門()がある。門を潛れば卽ち京城の市街である。市街は不規
則に縱橫に走つて居る。輿は右曲し左折して漸く英國公使館に辿り着いた。英國公使館に續 く丘には更に高く露國公使館が聳へ、市街を挾んで向ふの山の中腹には日本公使館が人の目を
惹く。()市街の中央に高く天空を摩するは佛蘭
西敎會堂である。

私は宮殿も乃至裏町も貧弱な不細工な建築又は裝飾も無爲無能の群集も稀に見る行列も‥
‥それが又た珍妙無類の行列である。不潔な生活狀態も、其他種種な風俗慣習をも見た。人口
二十五萬を包容し世界有數の都市の一と迄想像せらるゝ京城、而して其の誇りを私は今正に見
且つ聞きつゝある。京城は海拔百二十尺、北緯三十七度三十四分、東經百二十七度六分に位し、周
圍は丘を繞らし、其の丘の上には城壁が走つて居る。

禿山
城壁
眼を放てば四山禿凡として半空に銳き線を畵いて眼界を遮ぎつて居る。然し太陽が西天の
雲を紅に染めて今日の名殘を惜しむ頃は、之等の不氣持な山山は赤色を帶べる紫の水晶の如く
影はコバルトに綠に見えて誠に麗はしいと思つた。高きに登りて此の大市街を望む時、眼は自
ら城壁を追ふことになる。南山の嶺北漢の峰、谷を亙り森を超え、或は隱れ或は現はれ、長蛇の狀
をして中世的の此の都市を取り卷いて居る。其の高さ二十三乃至四十呎·延長十四哩()
矢狹間を置き銃眼を穿ち、要所要所に關門を設く。關門は其數八個、一層又は二層の櫓を門上に
建て、門扉は鐵鋲の太きを叩き込み、偉大なる閂を以て固め、日出でゝ、之を開き、日沒して之を鎖す
など誠に用心堅固に出來て居る。關門に名を附す、或は崇禮と言ひ、或は敦義と云ひ、興仁と云ひ、
悉く道德上の箴言を選んだものである。

家▣
路傍
穢きこと臭きこと世界一の都は北京に次で京城乎、二階建の家は之を造ることを許されず況
んや、三階四階の家は夢にすら見られぬ。故に二十五萬の同胞は地上に瓦又は藁を竝べ其の下
に潛り込んで生活―否不潔な道路に蠢動して居ると形容しようか。その道路は廣くとも二頭の牛を竝ぶること能はず。狹きは一人の擔軍が往來を塞ぐ程である。路傍には惡臭紛紛たる
溝を控へ、路面は飽迄垢付いた半裸體の子供と、獰惡な犬とによりて占領せられて居る。溝の上
にさゝやかな棚を組んで物賣れる人に時時遇ふことがあるが棚の上には種種の小間物やら、毒
毒しく染め上げた菓子を竝べて稀に來る客を待つて居る。買占めた所で高高一圓そこそこの
代物であらう。

家屋は低く廂を突き出し、壁は泥を粗末に塗り立て一向に市街に美觀を添へて居らぬ。地上
三四尺の所に紙張りの窓がある。溫突の煙に燻ぼれて檐·柱·壁と共に頗る汚れて居る。溫突と
は朝鮮特有の暖房裝置で、四方の門より入る數百の牛の脊に山なす松葉は悉く溫突に燒かれる
ものであるさうな。イヤ煙る程に燻る程に日暮るゝ頃、之等の町を散步しようものなら松の香
り高き濃霧に襲はれた感じがある。

商店と稱すべきものも在るには相違ないが、多くは店頭十圓內外の品物を羅列するに過ぎぬ。
若し京城の商店の特長を求めたら貧無價値の一言を以て盡すことが出來る。所謂大商人は鍾
路の十字街を中心として集つて居るが、それすら店中立つて兩腕を伸べたら一切の商品を摑み
得る位に小さな販賣所に過ぎぬ。試に商品の數數を數へ上げて見れば棉·草鞋·竹の笠·劣等なる 陶磁器·蠟燭·櫛·硝子製念珠·煙管·煙草入れ·啖壺·骨椽眼鏡·紙類·枕·扇·硯·鞍·洗濯棒·干柿·毒毒しく染上げ
た馱菓子·十錢洋燈·懷中鏡の如き安價の舶來品等を重なるものとする。此外稍價値品と看做す
べきは、銀象眼入鐵製小箱·眞鍮製食器又は其他の器具·靑貝摺りの漆器刺繡を施せる絹織物(但此等の
意匠及技術は共に幼稚採るに足らぬ
)等がある。

外國人が簞笥町()と名づけた町がある。其の町では簞笥手箱等のみを製作して居る
此處の製作品は見た所餘り大きな物はないが誠に奇麗で、或は胡桃材を、或は楓材を、或は桃材を
用ひ、眞鍮の金具·眞鍮の錠前如何にも面白い。朝鮮人の家庭の飾り付けにも外國人の部屋に置
いても結構である。

個人の家庭を覗いて眼に觸るゝものは先づ長煙管と煙草入れ·椀に小鉢·米櫃·水甕·燐寸箱·金入
れ·染粉·食料品として松の實·米·黍·玉蜀黍·豌豆·大豆其他草鞋·布製馬毛製又は竹製の帽子、及び朝鮮
固有の綿花等である。

南山の中腹に木造白塗の建物としては餘り感心出來ない日本公使館がある。其の麓は卽ち
日本人居留地で約五千の日本人が小なる天地を作つて居る。料理店もあれば、劇場もある。鮮
人町と反對に淸潔で能く整つて氣持がよい。例の日本服に帶締め、男も女も下馱はいてカラコ
ロと誠に忙かしさうである。憲兵が居留地を護衛して居る。海外駐箚軍隊も居る。細身のサ
ーベルを佩いたるは卽ち士官である。明治十五年以來二度も暴民の襲擊を喰ひ公使館員は身
を以て海外に逃れた程であつた。現在の公使は白髯を胸に垂れて能く京城の交際社會に出入 される。寡言恭儉にして物柔かな老人で迚も鋼鐵の如き意思を抱いて居る方とは思はれぬ。
()尙ほ日本人街には銀行あり、郵便局あり、深く外人の信用を受けて居る。

支那人町は其人口日本人町と伯仲の間に在つて、外國人は需要品を多く此處に求める。支那
人町と關聯して特記すべきは其の衙門の主人公袁世凱氏である。袁氏は卽ち「王權ノ上ニ王權
アリ」と稱せられる支那の宗主權を代表して朝鮮に臨めるものであつて、國王の前に勝手に出て
勝手に振舞つて居ると云ふ話である。支那公使館は言はゞ袁氏一人の衙門である。大門堅く
鎖し、扉上守護神の像を畫き門內には大廈擔を接し、物物しく武裝したる兵士は常に王宮と衙門
との間を往來して警戒の任に當り、鮮人をして淸國の尊嚴と袁世凱氏自身の勢力とを感ぜしめ
て居る。然れども袁氏は私一個の愚見によれば唯單に虎の威をかる一介の支那人に過ぎぬと
思ふ。彼は事實上支那人の生殺與奪の權を掌握し、會會刑罰を加ふる際の如き實に野蠻を極め
淸韓人共に彼を恐るゝこと夥しい。

下水溝
洗濯
市街の中心を西より東に流れる下水道は市中の汚水を晝夜に絶えず城外に排泄して居る。
其の爲めに下水道の泥は眞黑に幾世も昔からの濁水に染められ惡臭を空中に放散し旅人を惱
まして居る。然しながら此の下水道が如何に不潔だとて强ちに斥け難きは京城の婦人を此處
にして初めて見ることが出來るからだ。生活に倦んで生氣を失つた男ばかりの都と思ひきや
此處は又幾百の女房ばかり、淺綠りの衣打ちかつぎつゝ洗濯にいそしむ樣は朔北の野に花見る
心地がして嬉しい。下水道の洗濯とて餘り笑ふ可らず、洗濯棒を振り上げ振り下ろす風情餘り 優美とは云へないにしろ、甲斐甲斐しと讚めてよからう。特に夜は砧の音京城內に充ちて、東洋
の詩人がこれに淚を搾るさうな。

京城は四面環らすに山を以てすることは旣に記した。其の四山の麓がなだらかに傾斜して
長さ五哩幅三哩の盆地を作り人口二十五萬の都が建設されて居る。南山に登つて見ると十五
平方哩の野は正に暗灰色の屋根の海である。樹木なし、況や森林もなく廣場も無ければ公園も
ない。單調平凡只一面の灰死の如き姿をして居る。此の平原の隅隅二層樓の大廈と見るは卽
ち市を限る關門である。石垣あつて地を限るは宮殿である。東西に道と見ゆるは鍾路である。
南するは南大門に通ずる道である、動けるは男子、吠ゆるは犬、此の外にしては天地閴として聲な
く無人の荒野に立つも同然である。

旣に記した鍾路の大鐘が夜八時頃を期して其の重重しき響を傳へると、今迄辻辻を占領して
居た男子は逃くるが如く影を潛め市中全く女の都と早變りをする。往くも來るも女ばかり、彼
等は初めて一日の束縛を逃れ、宇宙の廣きを樂しみ、友情の熱きを酌み交すのである。此際男子
にして交通を許さるゝは盲人と、官吏と、外國人の奴僕と、輿丁ばかりである。十二時になれば鐘
は再び響く。女は家に歸つて男は更に夜の享樂を求めに出懸ける。此社會制度は堅く守られ
て一人も之に背かない、世界に珍しき慣習だと思ふ。()

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