京城府史 近來東學黨ト稱スル者外國人排斥ヲ主義トシテ當國南方ニ起リ此ノ黨員若干上京シテ其 一、同黨ノ擧動ニ付キ何等探知シタルコト有之時ハ早速當館ヘ報知スベシ
一、豫メ各自自用ノ食糧ヲ用意シテ不時ニ備フベシ
一、事務切迫シタル時ハ老弱婦女子ヲシテ仁川ニ避ケシムル心組ヲ爲スベキコト但シ時宜 一、居留民ノ內壯年者ハ我警察官竝ニ館員ト合同守禦ニ盡力スベキコト
當京城ノ地タル韓八道ノ首都ナルモ、水陸運送交通ノ便ニ乏シキヲ以テ當國ノ主産タル米· 市場は巡査の巡視を得たが淸商の壓迫は益益加り來たり、旗島範世外十六名は交番所建設費上 之に關する八月二十三日附杉村領事の諭達は左の通りである。
從來當京城ニ住居スル人民所有ノ家屋ニ對シ、當局政府ヨリ之ヲ慥ムベキ制度無之處右ニ
三月領事館は曩に明治二十年三月一日に定めた違警罪目が刑法第四編各條と重複抵觸する所 右の內第一、第二項は朝鮮の風習と著しく相違する爲め鮮人の侮辱を受くることを顧慮したも 因に日淸役に際し日本軍は當時尙ほ輜重兵の制がなかつた爲め、大阪商人田中長兵衛( 三南地方の東學黨の餘熱未だ冷めず不況と不安とに居留民は人氣著しく悄沈したるも、年末戶 京城に於ける郵便事務は明治二十一年七月に開始したが、京仁間往復の信書は當時仁川港在住 註 (一)第一卷五五九頁參照。
領事の內諭
來するとの說が傳つた、當時の京城居留民は未だ其の數多からず、曩に數次の悲慘事を體驗して
居たから忽ち不安の念に驅られ、避難の準備をなし四月領事館は左の內諭を發した。
ノ筋ヘ强疏ニ及び尙ホ引續キ多數ノ黨員上京スベキ旨風聞有之候ニ付彼等ノ氣焰果シテ熾
盛ニ至ル時ハ我在留民ニ對シ如何ナル危險ヲ及ボスモ難計候最モ萬一ノ際ニハ朝鮮政府ノ
任トシテ相當ニ在留外國人ヲ保護スベキハ勿論ノ儀ニ有之候ト雖ドモ此際外國人民ニ於テ
豫メ不慮ニ備フルハ緊要ノ儀ニ付キ各自左ノ條ヲ相心得ベシ
ニ因リテハ仁川ニ電報シテ汽船ヲ龍山ニ廻航セシムベシ
の巡査は五月末に當時廣野であつた光熙門外現新堂里文化住宅地附近で射的の練習をなした。
朝鮮政府にあつては宣撫使を派遣し親しく宣諭鎭撫に努めた爲匪徒は一時に解散した。
ず、京仁間の貨物運搬を制する爲め汽船會社と荷物馬車會社を設立した。會社は何れも袁世凱の
奬勵により在留淸國官民をして出資せしめ、汽船は仁川·麻浦·龍山間を航行し、馬車は北京·奉天に於
て使役した屈强なる馬匹を用い、京仁間に數臺地方に多數を用い其の數四十臺に及んだ。而して
日本側にあつては市場取締の巡査は僅僅十名(
居留民朝市場へ進出及び日本巡査の朝市場巡視
居留民の保護警官派出の請願
樓を附設して威容を示し、城外にあつては明治二十五年來麻浦に稽査局(
締に任じた。若し淸商が地所家屋を買收せんとし、鮮人の此れに應ぜざる時は、淸國理事府は直接
巡捕を派し朝鮮人を退出せしむる等の暴擧をも敢てした。而して淸國理事府は城內の中央要
に位置を占め堂堂たる規模の廳舍を設け、淸商に對し常に指揮統制を怠らなかつたのである。此
れより先居留民は露店營業成績が思はしくなかつたから南大門內朝市場に進出を試み、好果を收
め場內の大半は順次居留民を以て占むるに至つた。元來市場は朝鮮商業界一般の方法なるを以
て此れが發展は囑目に價するとし、領事館は同市場に巡査一名を派して巡視せしめたから市場の
居留民は意を强くするを得た。然しながら一名の派出巡査では不足なので居留民は二名の代用
巡査を採用し得る丈けの費用を領事館に上納するの件を決議し、辛うじて臨時雇員巡査二名を得
た。かゝる形勢の爲め居留民の商況は日を逐ふて不振を招き人心の萎縮名狀すべからざるもの
あり、三月二十五日居留民總代·同議長·商業會議所會頭等代表者となり日本國政府に對し保護警官
增派の件を請顧
豆·海産物等ノ玆ニ輸送スルモノナク、又各道商人ノ來リテ大仕入ヲナスモノナケレバ、素ヨリ
眞個ノ貿易市場ニアラズ、故ニ我等商人ハ只直接ノ消費者ヲ相手トシテ日用雜貨品ノ小賣ヲ
爲スノ一途アルノミサレバ、其開棧ノ位地ハ宜シク城內ノ中央四達ノ街衢ヲト定スベキ筈ナ
リシニ、當時我政府ノ方略玆ニ出デス、壬午甲申兩度ノ變亂ニ鑑ミ商業ノ關係ハ寧ロ之ヲ第二
ニ措キ、專ラ不虞ニ備フルノ主旨ヲ以テ現今ノ居留地ヲ選定シタルハ我輩ノ頗ル遺憾トスル
所ナリ、抑モ今ノ居留地ト稱スル者ハ南隅ニ僻在シ後面ハ木覓山ニ迫リ前面ハ佛蘭西敎會堂
ノ大丘ニ蔽ハレ、唯東西ニ通ズル一條曲折ノ狹路ニ沿テ開棧シタルモノナレバ、固ヨリ華客ノ
觀望ヲ引クベキ地位ニアラズ、今ヤ朝鮮ノ貿易市場ニ於テ我ト馳騁セントスル者ハ淸商ナリ、
然ルニ彼等ノ開棧ハ最初ヨリ南大門通リノ大路ヲト定シ、爾來開棧スル者皆此位地ニ集リ、近
來ニ至リテハ更ニ右折シテ東大門通リニ開棧シタレバ、恰モ彼ハ城內ノ中央ヲ丁字狀ニ占據
シ、我ハ南端ニ在リテ僅ニ一小線ヲ劃セルニ異ラズ、彼我商人ノ特性ニ屬スル長短優劣ハ姑ク
措キ、商業上最モ緊切ナル地利ニ於テ我ハ已ニ一著ヲ輸シタリト言ハザルベカラズ、故ニ今彼
レト衝ヲ貿易場ニ角セントスルニハ是非共城內ノ中央大路ニ開棧シ、先ヅ彼我ノ地利ヲ同ウ
シ以テ角逐ノ基點ヲ定ムルコト必要ナリト信ズ、現任杉村領事モ又此ニ見ル所アリ專ラ露店
ヲ奬勵シ或ハ中央開棧ヲ勸誘セシヨリ次第ニ露店ノ數ヲ增シ、又ハ大路ニ就キ二三ノ分支店
ヲ設ケタルモノアリ、今後モ漸次我商人ノ此ノ中央大路ニ向フテ店舖ヲ開クモノ日ヲ追フテ
增加スルハ期シテ待ツベキナリ、然シテ淸國商人ハ我レノ中央大路ニ進入スルヲ喜バズ韓人
又我商路ノ擴張ヲ忌ムノ風アリ、屢屢葛藤爭端ヲ開キ、我商路擴張ノ妨害頗ル大ナリ、此妨害ヲ
豫防スル捷徑ハ卽チ我巡査ヲ增派シテ之ヲ保護スルニアルナリ、然ルニ現今ノ巡査ハ僅ニ八
名ニ過ギズシテ到底此ノ目的ヲ達スルニ足ラザルノミナラズ、泥峴小區域內ノ保護ト雖ドモ
未ダ以テ滿足スル能ハザレバ、更ニ七八名以上ノ巡査ヲ增加セラレンコトヲ請願ニ及ブ云云。
納の決議をなした。領事館は之を納れ現南大門內郵便所の東方にその建設を計畫した。交番所
は九月に至り落成を見、十六日より巡査一名を駐せしめ、城門の開閉に應じて午前五時より午後七
時三十分迄勤務せしめた。
が頻發した。而かも旣に日本人にして地所家屋を購入せるものもあり、將來商業地として發達す
べき見込が生じたから、領事館は同地居留民藤井友吉外七名の請願を納れ龍山江岸に巡査一名を
派遣した。
場の外尙居留民中の志望者一人をして三月二十四日より領事館に納付すべき訴訟用竝に登記用
の印紙の賣捌をなさしめた。八月更に朝鮮政府に交涉し、漢城府尹をして鮮人所有の家屋に對し
一定の家券發給を求めた。
テハ賣買書入質入等ノ際欺騙ノ弊多ク其害甚シキヲ以テ、今般漢城府ニ於テ別紙雛形ノ如キ
官契ヲ發行シ、此際悉皆舊券ヲ該府ニ納メ、新券ヲ下附シ、爾後賣買ノ節ハ必ズ該券ヲ以テ證據
トシ、書キ替ヲ出願セシムル法ヲ定メ、內外國人一樣ニ施行スル趣キヲ以テ該府ヨリ當館ヘ照
會有之候、就テハ當地居留民ニシテ家屋ヲ所有スル者ハ豫メ舊書類ヲ取纏メ置キ、引換ノ際混
雜セザル樣注意スベシ云云と。
得、且つ確實性を帶びるに至つた。
漢城府
月 日 第 號 爲發給契據事 部 坊
稧伏在瓦家 間草家 間空垈
間於 處買得居生矣以移買次 前桁
朝鮮開國五百二年月日家契新証
價錢文 兩準數交易永遠轉賣憑
此毋違切切 賣買換券計家時直且抽稅事
右給 賣買換券計家時直且抽稅事
堂上
摘奸書吏
賣主
買主
釋紀
少からざるより、數箇條を削除し當時取締上必要あるものゝみを存續する爲め左の通り改正した。
二、男子外出ノ時帽子ヲ載カサル者
三、路上婦女ニ戲ルル者
四、夜間十一時後歌舞音曲ヲ爲シ制止ヲ肯セサル者
五、喧嘩口論又ハ人ノ驚愕スヘキ喧噪ヲ爲シタル者
六、出産アリタルトキ三日以內ニ屆出ヲ爲ササル者
七、朝鮮人ノ服裝ヲ爲シ路上ヲ徘徊シタル者
のである。第一項の中に素足の儘にて足袋を用ゐざる者を罰したことは旣に二十年の條に記し
た通りである。此等の罪目は日淸戰爭後に至り何時の間にか不問に附せらるゝに至つた。
人夫を供給せしめた。人夫は田中組なる文字入りの法被を着用した。法被が韓國人には最も下等
の服裝に見えた事と、人夫の行爲が組野であつたのと、田中の韓音젼즁が囹圄の人なる俗語と同一で
あつたことの爲め、田中組の人夫を刑餘の人同樣に卑しみ且つ忌避した。
仲買に從事する居留民の常に同一地方に往復する者に限り同一通行券を以て券面記載の地を往
來することを得、該券有效期限を六箇月間としたれば居留民は大なる便利を得た。是によつて內
地に對する取引上には一生面を開き得たのである。
至つた。
第一銀行引き揚げの議
たるを以て、日本居留商人の打擊鮮からず、居留民は十月三十日商業會議所會頭和田常市の名を以
て領事に請願して、此れか撤廢運動を起し、當局も亦直に朝鮮政府に抗議を申込みたる結果政府は
穀類の種類を米のみとし、一箇月間に實行することを約した。然るに事實は數箇月延引し日鮮貿
易は一時中絶の姿に陷り、市場は全く落寞の狀を呈した。之に加ふるに此の年大藏省令により第
一銀行出張所は支店同樣の手續をなさゞるを以て業務を營む能はざることゝなり、同所は十二月
限り京城引き揚げに決した。領事館事務代理新莊順貞はかくては居留地唯一の金融機關を失ふ
のみならず、第一銀行が三港(
る觀ある出張所を廢すことゝなり、朝鮮政府に大なる不便を與へ、又在城各外國公使館員·宣敎師等
にも多大の不便を與へ、尙且つ關稅收入取扱の不便より日鮮貿易上にも多大の影響を與ふる故を
以て、當地出張所に限り業務を繼續し得るよう各方面に協議方を本省に上申する所あり、一方又居
留民側においては出張所の廢止は到底忍ぶ能はず商業會議所は存續希望の決議をし、十二月十二
日附存續方を請願する所あり、辛うじて撤廢の厄を免るゝことを得た。
特に又同一漢城府五署內なる楊花鎭に開市云云の文字を用ゐて條約を締結したのを見れば、所謂
京城開棧なるものは城內に限ると見るべきである。然るに此の年より淸國人巡査が麻浦に六人
居住したことを始めとし外國人は城外に居住し、龍山にはカトリツク敎會堂及び附屬學校に佛國
人三人·六月末に日本人は戶數八·居留民四十二人が住した。而も朝鮮政府は此れを默認したから
爾後外國人は公然と城外に居住したのである。
數二百三十四·人口七百七十九を算し前年に比し相當の增加を見た
陸運營業人永瀨某が仁川郵便局よりの受請事業として片手間になしたことゝて往往紛失遲着し
た爲め、十月一日以來仁川郵便局に於て直接此れを取扱ひ一日必ず一回宛集配した。
不振其のものであつた。卽ち其の一原因は春季早早三南地方に東學黨蜂起し京城出入の商人が
頓に其の數を減じたこと、其の二は朝鮮政府は平壤に於て無謀なる銑鐵錢の鑄造を開始して一般
市況に大打擊を與へたこと、其の三は三南地方に旱害あり平年より五六割の收入減を生じたこと
等である。而して晩秋より日淸兩國間の形勢が急に不安を生じたことは市況をして更に暗憺た
購入し鑄錢の準備をなしたことである。萬一此の粗惡にして不便なる鐵錢が市場に氾濫すれば
物價は益益騰貴し、投機心は挑發せられ正當なる取引は阻害せられて商業界に恐慌を起すことは
明瞭である。玆に於て三月二十五日商業會議所會頭和田常市は領事を經て該事業の不當なるこ
とを朝鮮政府に勸告し、且つ淸國商民の此の事業に對する意向を確めて日淸商民互に此れに關し
協議することを淸國理事府に交涉を請ふた。淸國商民元より異論あるべきなく商議する所あり
如何なる場合にも一切銑鐵錢の取引をなさゞること、若し此れを受授したる在留民には一般の取
引を禁じ且つ取引總額の五十倍に相當する違約金を課することゝした。朝鮮政府は此の形勢を
見て悟る所あり、遂に鑄錢を中止し、幸に市場に影響を與ふることなくして終つた。十月朝鮮政府
は三南地方の旱害を楯とし米穀の輸出を全部禁止したことは旣に記した通である。
(二)現明治町二丁目中華民國領事館の地點で曩に大院君攝政時代に勢力を振つた捕盜大將李景
夏の住宅及び其の附近を包んだ土地。
(三)此の數は京城發達史に據つたのであるが、府史編纂委員曾我勉の手記によれば日淸戰役の影
響を受けた明治二十七年に至つては戶數は二百六十となつて居る。