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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
京城府史 경성부사
  • 기사명
    3. 明治二十七年(第二卷 六二五~六三三쪽)
  • 이미지
    prd_0151_074 ~ prd_0151_082 (344 ~ 352쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년
일러두기

一一 明治二十七年

二十七年に入り風物一新して春色を帶び來たが人心の不安は去らず、前年の凶作と防穀令の餘 殃は一朝にして芟除すべくもあらず、一面袁世凱は威を朝鮮の上下に揮ひ支那の勢力は漸く八道
に扶植せられ、閔族も亦た支那の權勢と結んで專橫を極め反對派を迫害すること甚だしきものが
あつた。

三月九日は 明治天皇
御結婚二十五年の祝日に
當るを以て、公使館·領事館
及總代役場に於て夫れ夫
れ祝賀會を開催し聖壽の
萬歲を奉祝した。

五月金玉均の暗殺事件
あり日本人をして大に憤
慨せしめ、同月全羅道古阜
に再び東學黨蜂起し勢猖
獗を極め、六月七日淸兵の
牙山湖上陸あり、居留民は
恟恟として其の堵に安ん
ぜず、日本政府の態度を以
て甚だ緩慢なりとし、一千
の同胞或は釜中の魚とな
らんことを怖れ、六月七日居
留民中主なるもの六十八
名は政府に對し出兵の請
願文を提出した。

日淸役當初日軍景福宮を守護する圖
當時國民新聞記者久保田米遷筆 第一卷口繪第五葉參照

外務大臣陸奧宗光公
閣下惟フニ我國國權ノ
振ハザルヤ旣ニ久シ矣、
在外日本臣民ノ危害ヲ
受クルモノ年トシテ之
レ有ラザルハナシ、然リ
而シテ未ダ我京城在留
民ノ如ク常ニ生命財産
ノ安固ニ危殆ナル者アラズ、嚮ニハ壬午·甲申ノ變亂ニ遭ヒ、空シク生命ヲ外賊ノ凶刃ニ失ヒ屍ヲ異域 ノ荒野ニ曝ラシ、千載不祀ノ鬼トナルニ至リタルモノ前後倂セテ七十有餘名、後チ又拐兒事件·撤棧事
件·防穀事件ニ未ダ曾テ一日モ溫席安臥ヲ得タルコトナシ、然シテ今全羅ノ民亂()アリ遂ニ淸國ニ
援兵ヲ乞フルニ至ル、假
令名ハ韓廷ノ請託ニ依
ルト云フト雖ドモ、韓廷
ヲシテ此ノ擧ニ及バシ
メタル淸國ノ意▣蓋シ
測ルベカラザルモノア
リ、嗚呼之レ單ニ我我在
留民ノ安危ニ關スルノ
ミノ小事ナランヤ()抑
モ國權ノ張弛消長ハ直
チニ貿易ノ榮枯盛衰ニ
關スルコト猶ホ影ノ形
ニ隨フガ如シ往年我國
權ノ此ノ國ニ擴張セラ
レルノ日ハ貿易ノ主權
擧ゲテ我商人ノ掌裏ニ
歸シ、其ノ國富ヲ助ケタ
ルノ大ナルコト夙ニ閣下ノ
知ル所ナラン、然リ而シテ此
ニ一タビ對韓ノ政策退讓ニ
傾キシヨリ、國威隨フテ揚ラ
ズ、商勢頓ニ振ハズ、日韓貿易
ノ衰頹在留民ノ艱苦未ダ今
日ノ如ク甚シキハアラズ、反
之彼ノ淸國ハ終始强硬政策
ヲ確持シ、政治ニ貿易ニ駸駸
トシテ其步ヲ進メ我レ一步
ヲ讓レバ彼レ一步ヲ進メ、層
一層ヨリ大ニ、年一年ヨリ盛
ニ、今ヤ全然牛耳ヲ執リ、常ニ
我ヲ凌駕シ時ニ或ハ羞辱ヲ
加ヘ、眼中殆ド日本人ナキノ
傲狀ヲ呈スルアルニ至ル()
天津條約ノモノタル、素ト日
淸兩國ノ朝鮮ニ於ケル國力ノ權衡ヲ保チ、國威ノ平均ヲ持センガ爲メニ外ナラザルベシ、然ルニ、今彼 レ獨リ專橫ヲ恣ニシテ、我レ恬然默視スルガ如キアラバ、國力ノ權衡將タ何ヲ以テ保タンヤ。

南山に於ける日軍の露營
朝鮮家屋上方松樹のある所は現科學館の位置 久保田米遷筆
南山野營

未だ日本政府の半島出
兵の決意を知り得ざる當
時の京城居留民の憂慮は
之によつて推知すること
が出來る。

請願書の本國政府に向
け領事館より發送せられ
たと思はるゝ同月九日、日
本軍艦數隻突如仁川灣頭
に雄姿を現はし歸朝中な
りし大鳥公使も軍艦八重
山にて同日仁川に入り、向
山海軍少佐の率ゆる陸戰
隊四百三十三名に擁せら
れ翌十日午後六時過ぎ京
城に歸任した。居留民は
歡呼して之を迎へ再生の
想をなした。

明治二十七年の現本町二丁目の光景·右端は森勝次氏宅左方の洋館は舊龜屋·右上方の二階日本建は舊伊藤寫眞館·皆鮮人家屋中に散在した。久保田米遷筆

七月二十三日大院君の
參內あり、翌二十四日政治
一新の布告文が城內各所
に榜示せられてより、朝鮮
側の動搖は湧くが如く各
城門より落ち延び亂を避
けて脫走するもの續續と
して絶えず、元山街道·義州
街道は避難者の群を以て
埋められた。是より先五
月金玉均事件以來、朝鮮人の泥峴に出入するもの激減し、或は故意に商店に妨害を加ふる者等を生
じ泥峴の商況は愈愈不況に陷らうとしたが、日軍の入城するや支那商店に出入するもの全く其の 淸國人の歸國
日軍入城前後の京城
跡を絶ち泥峴一帶は瞬時に好況を呈した。是に於て淸國商人は六月十八日以後、續續家財を携へ
下仁し、又百餘名の者は理事府に徵せられて湖南地方に派せられ、店頭全く人影を絶つた。七月十
九日袁世凱退城歸國する
や同月二十一、二日頃淸國
人は殆んど全く京城を去
り、二十三日以後淸國各官
衙は國旗を揭げたまゝ門
戶を鎖し、官吏は英國領事
館に逃れ二十七日領事唐
紹儀も亦竊かに退城歸國
した。二十八日英國總領
事館は淸國公使館領事館
及淸國人の身體財産は總
て保護する旨公然日本公
使館に通知し來つた。但
し其の四五日前日軍は淸
國電信局を占有し器械器
具を使用したが、之に對し
英國側は何等故障を申し
出てなかつた。日軍の入
城以來京仁間の往復頻繁
となり、日本人所有の船舶
は悉く日本軍隊の使用す
る所となつたから居留民
中已を得ざる事故あつて
歸國又は下仁せんとする
ものには官用船に便乘を
許可せられた。又各店の
在荷は拂底して價格は急
騰し、七月中旬頃迄居留民
は一時全く重圍に陷つた狀態であつた。加ふるに京釜間の電信も故障を生じ海上普通船舶も杜 絶せる狀態となつたから、大本營は釜山·仁川間に軍用通信船を特設し軍事上支障なき限り領事▣
證明ある人民及び急要荷物に限り無賃該船によることを許可した。而して釜山·下關間には大阪
商船曾社に於て四日に一回宛定期航海を開き、これによつて日本と連絡し得たのであつた。

倭城臺に於ける成歡役凱旋祝賀
久保田米遷筆 右端より韓國大官·大島旅團長·大鳥公使·後方に樹立せるは捕獲軍旗

征淸の日軍は連戰連捷し七月牙山に九月平壤に敵を破り、進んで西朝鮮一帶を掃蕩し、幾何もな
く半島內に淸兵の片影を止めざるに至つた。

居留地の繁榮
新貨幣の鑄造と日貨の流通增大
隱忍十年淸商の壓迫と鮮人の輕侮に堪えた居留民は、日軍入城以來回春の生氣を得て南山山麓
に意氣揚然たる時永年桎桔の地に立ちし餘憤若し淸鮮人に對し爆發するが如き事あつては大國
民の態度として好まざる所なりとし、領事館は屢屢諭告を發し戒飾する所があつた。勿論居留民
も自重互戒華客の吸收に努めたから、日本軍隊の一時の宿營と淸商の引揚げと鮮人購賣力の增大
とに依り相當の取引を見、一面戰時に際し一擢千金の奇利を夢想し新に出征軍隊に追隨して來た
白面の商人も其の數は少くなかつたが、之等は領事館の取締嚴なりしこともあり自然に其の影を
沒し長く京城に止まるを得なかつた。此の年八月二十日より朝鮮政府は五種の新貨幣を通用す
べき旨領事館に通達した。五兩及一兩は銀貨にして二錢五分·五分·一分は銅貨であつた。而して
日本紙幣にあつては其の流通高は急に增大し、京仁間に於ては三十萬圓に達し、釜山·元山等を合す
る時は優に數百萬圓に及び、開港地以外地方人の使用者も其の數を增加した。又年年地方より科
擧に應ずる爲め入京する儒生等は携帶の便利上大槪日本紙幣を用ひ、地方の富家に紙幣を財産と
して祕藏するものも多きに至つた。時局は戰局の進展に伴ひ日本居留民には至大の利便と安堵 とを與へたるも、居留地にあつては前半期は商況不振の爲め經營意に任せず、後半期は戰時多端の
中に何等施設經營する暇なく、總代役場·商業會議所·本願寺別院·小學校等は悉く軍隊の事務所又は
宿舍に充當せられ、從つて一般事務竝小學校敎育に至るまで一時中止となつた。

新家券の發行
人力車營開始
領事館に於ては一月以來居留民にして鮮人を雇入れ使用する場合は其の旨屆出て鑑札の交附
を受け、且つ外出の際は從ず携帶せしめた。五月舊家券の引換竝に所有土地建物の坪數及び其の
圖面の提出方を命じ、又十一月漢城府尹が家券の改正をなさんとするや、其の手續中家屋賣買に際
し賣主先づ漢城府に願出で家券を買主の名義に改め、後ち此れを買主に交付すべき筈であつたが
此れは古來の慣例に相違し、且つ賣買に際し地方官に干涉の機曾を與ふる故、家券の名義換は賣買
契約の濟んだ後、買主より願出づる樣交涉して改正せしめた。かくして漸次所有權の整理確保を
得た。日淸開戰となるや日本公使館及領事館には仁川領事館との交涉事項が輻輳し來たり、京仁
間の交通の急を要するものが多きに至つて、花山帳場なるもの京仁間に十臺の人力車を輸入し、永
樂町二丁目の北端に店舖を設け京城に於て始めて人力車業を開始した。從來乘物としては轎及
び馬背により高値なる賃銀と長時間とを要したものが、人力車の營業開始によつて京城の交通界
には一時期を劃した。最初の挽子は全部日本人を使用した。蓋鮮人は不慣の爲め、屢屢乘客を轉
覆せしめたからである。

此の年末に於ける戶數は二百六十六·人口八百四十八を算するのみで前年に比し其數に大差はな
かつた。

此の年五十八銀行は現本町一丁目四八番地に新に支店を設置し殿井某支店長として來任し、第
一銀行と共に居留地の金融に當り居留地經濟界の前途に光明を投じた。五十八銀行は明治四十
二年百三十銀行に合倂せられ、續いて大正十二年十一月安田銀行に合倂せられ、以て今日に及んで
ゐる。

大鳥公使職を辭するや內務大臣井上馨は特命全權公使に任ぜられ、十月二十六日多數の幕僚を
具して入城し幕僚を朝鮮政府の顧問竝に補佐官に推薦し國政の改革を行ふた。今其れ等の中主
要なる人人の氏名及寓所を記せば次の通りであつた。

內閣顧問 石塚英藏 糧餉廳の一部現永樂町一丁目水道課分室附近
宮內府顧問 岡本柳之助 現日出小學校前壽町三四番地附近の民家·後ち現大和町二丁目南學
の跡
內務顧問 齊藤脩一郞 初め現明治町一丁目官舍後ら福泉亭旣ち現南山町二丁目四九番地
料亭銀月莊の位置
法務顧問 星亨 現本町二丁目八五番地附近及び永樂町一丁目三九番地
度支顧問 仁尾惟成 糧餉廳の一部現永樂町一丁目專賣局廳舍の位置
軍務顧問 楠瀨幸彦 初め現本町二丁目九二番地明治製菓株式會社の南方後ち現櫻井町
二丁目一八二番地卽ち現本町四丁目警察官派出所の北側
遞信顧問 山田雪助 不明
警務顧問 武久克造 明治町一丁目官舍の處 尙ほ此の他內務に大庭寬一()鈴木錠藏·軍務に渡邊鐵太郞·度支部に千葉昌胤あり、又松
井慶四郞·小田切萬壽之助等も來城した。

註 (一)第一卷五六○頁·五六六頁·五七六頁參照。
(二)現京城郵便局敷地內の東半分·中華民國領事館と道路を隔てた位置にあつた電信局。

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