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1차 사료

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明治二十七年日淸交戰從軍日誌 메이지 27년 일청교전 종군일지
일러두기

解説 本史料, 「明治二十七年日清交戦従軍日誌」は, 後備第 19 大隊に従軍した一兵卒, 上等兵よって記された日誌である。 東学党討伐隊兵士の従軍日誌(井上) 兵卒は, 徳島県阿波郡柿島村(現, 吉野川市)に住んでいた。 日清戦争中, 第2次東学農民戦争が起きた朝鮮で, 「東学党討滅大隊」(「東学党討伐大隊」とも)に従軍し, 戦場の現場を記したのである。 この日誌は, ごく一部分が, 地元の地方誌に発表されていた。 郷里から出発の部分と, 朝鮮での第 2 次東学農民戦争の最後の激戦, 長興戦争の一部である。 『市場町史』(町制四○周年記念出版, 市場町史編纂委員会編纂, 1996年発行) 2段組の 903 頁下段から 904頁上段である。 徳島県文書館へ調査に出かけた際に, 同文書館の徳野隆氏から, この町史について教示をうけた。 次いで地元徳島県の郷土史家, 坂本憲一氏を通じて原日誌を見せていただき, 写真撮影をした。 日誌の記述の概略を紹介する。 筆者の兵士は, 1894年 7月 23日, 召集令状を受取り, 後備第19大隊, 大隊本部のある松山市へ赴く。 大隊は, 最初, 下関守備隊を命じられ, 8月 8日に下関に着いて, 下関砲台護衛などにあたった。 10月 28日, 朝鮮「東学党」が再起, 討伐隊として渡韓を命じられる。 その前日, 広島大本営川上操六兵站総監は, 朝鮮守備隊に, 東学農民軍に対して「ことごとく殺戮すべし」という殲滅命令を出していた。 東学農民軍討伐の専任部隊として, 後備第19大隊が朝鮮へ派遣されたのである。 後備第19大隊の 3中隊は, 1894年 11月 12日, ソウルの龍山を出発した。 同大隊は, 東学農民軍に対する「3 路包囲殲滅作戦」を展開する。 3路とは, 東路と中路, 西路で, 朝鮮中央部で, 3中隊が東西に広がって南下し, 東学農民軍を包囲し, 南西の全羅道のさらに南西隅に追い込んで殲滅する作戦がとられた。 後備第19大隊がソウル出発時に与えられた訓令の第1条では, 東学農民軍に対する「勦絶」, 根絶やし作戦が明示された。 朝鮮の抗日蜂起した東学農民軍は, 甲午農民軍とも呼ばれる。 第2次東学農民戦争も, 第2次甲午農民戦争とも呼ばれている。 韓国では, 東学農民戦争は, 民主化の出発点と, 1980年代頃から高く評価され, 「東学農民革命」と称されている。 東学農民軍は, 「人すなわち天」で知られる「東学」という民衆思想(平等思想) のもとに集まった東学信徒を中心にした農民軍である。 朝鮮政府と大地主など, 地域の保守勢力から弾圧を受けていた東学の地下組織(包接制)が, 大蜂起の基盤になった。 1894年の春, 全羅道の全琫準に指揮された東学農民軍は, 朝鮮政府の弊政改革をもとめて, 朝鮮南西部, 全羅道で蜂起し, それは, 郡境をこえ, 全州府を占領し, 農民戦争と呼ばれる規模に広がっていた。 日本と清国が朝鮮へ入ってくると, 東学農民軍は, 外勢侵入の危機を前に, 一旦, 退いたのであった。 この全羅道の農民軍は, 南接東学農民軍と呼ばれている。 なお, 韓 国の東学農民軍の研究者, 朴孟洙氏は, 本誌掲載の論文でも, 当時, 南接と次の北接の区別はなかったと新しく論じており, 注目すべきと思うが, ここでは, 従来の通説にしたがっておく。 日本軍は, 朝鮮に侵入して, 1894年 7月 23日に王宮占領事件をおこした。 王宮を計画的に武力で占領し, 国王の身柄を抑えて, 政府を作り替えさせた。 また, 日清戦争をはじめさせ, 朝鮮に日本軍の軍用電信線を架設し, 兵站道路を造成した。 これにたいして, 東学農民軍がふたたび抗日蜂起したのである。 日本軍の兵站線は, 朝鮮の西南部, 釜山がある慶尚道を北上し, 朝鮮中央山岳地帯にある小白山脈を越えて忠清道を西北へ横切り, 京畿道のあるソウルへ向かった。 東学の本拠は, 中央山岳地帯の忠清道報恩にあり, この忠清道, 慶尚道, 江原道, 京畿道の東学農民軍を通説では, 北接東学農民軍と呼ぶ。 北接東学農民軍は, 抗日蜂起に消極的であったと, 日本の植民地支配時代以来, 朝鮮解放後も, 従来, 低く評価されてきた。 1994 年, 東学農民戦争100周年記念事業の前後から, 日本軍の兵站線が通っていた慶尚道, 忠清道, 京畿道などの北接東学農民軍の抗日蜂起が掘りおこされて, 史実の見直しと再評価がすすんでいる。 一方, 東学農民軍の主力は, 韓国西南部の全羅道の勢力, いわゆる南接であり, 10月下旬から 11月上旬には, ソウルへ向かって北上する蜂起の準備中であって, 最大の戦いとなった公州戦争に決起し, 日本軍と戦いはじめるのは, 公州戦争の前哨戦になった 11月 21日からである。 これに対して北接東学農民軍は, 10月 25日には, 小白山脈一帯で兵站線の日本軍守備隊(後備第10聯隊第1大隊)に対して一斉蜂起していたのであり. 後備第19大隊と戦いはじめるのも, この「従軍日誌」ではじめて明らかにされたように, 可興の東幕里において, 南接より早い 11月 17日からであった。 後備第19大隊は, 東路, 中路, 西路の 3路をすすんだ。 「従軍日誌」筆者兵士は, 東路隊, 第1中隊に加わって, 第1中隊の第2小隊第2分隊に所属した。 第2分隊の人数は, 記されていないが, 分隊は, 通例, 15名から 20名程度である。 この分隊に従軍した一兵士の目線で体験, 見聞が記述されている。 以後の筆者兵士の進軍路は, 解題の「進路ㆍ宿泊表」に整理した通りである。 第1中隊, 東路隊は, 最初, 京畿道から忠清道へ, つまり, ソウルから東南方面へ進撃した。 出発の 3日目に, 利川で討伐を実施し, 利川東学農民軍指導者の子息を投獄して銃殺。 村落を襲撃して東学農民軍拠点の村民を銃殺した。 以後, 進軍途中で, 東学農民軍の集結する村落を襲撃し, また, 別の朝鮮守備隊が襲撃して, 村落をすべて焼き払った現場を目撃して, 日誌に記した。 その後, 中路を, 第3中隊とともに報恩方面へ進軍した大隊長の本部隊に軍資金を運搬する任務にあたって, 第3中隊の討伐戦争, 文義ㆍ沃川戦争の激戦直後の戦場を目撃し, その様子を「従軍日誌」に記した。 ついで, 第 1 中隊本隊に戻って, 小白山脈を越えて南下し, 慶尚道へ入る。 東学農民軍に対する苛酷な討伐を慶尚道でも各地で実行し, 南部で西へ転じ, ふたたび小白山脈の南部を西へこえて全羅道雲峰から南原へと入り, 南原で本部隊第 3 中隊と合同する。 南原以後, 討伐は, 拷問, 銃殺, 焼殺, 村の焼き払いなど, さらに激しく実施されている。 南西海岸にある長興で, 東学農民軍の最後の組織的抵抗が行われた長興戦争が戦われ, 兵士が東学党討伐隊兵士の従軍日誌(井上)参戦した戦争が詳しく記されている。 長興戦争の詳細な実像は, この「従軍日誌」ではじめて明らかにされた。 その後も, 拷問, 銃殺, 焼殺などが記される。 海南での凄惨な処刑は, 本誌別稿に紹介した。 全羅道の伝統ある都市, 羅州には, 大隊本部が 1ヵ月滞在, 南西部の討伐を指揮していた, 羅州で処刑された農民軍が山積みされて放置された様子も記されている。 これまで, 第2次東学農民戦争の史料としては, 日本で防衛研究所が所蔵する日清戦争の司令部「陣中日誌」などがあり, 韓国で刊行された『駐韓日本公使館記録』の公文書, および同書収録の大隊長が朝鮮政府で証言した「東学党征討略記」などが知られていたが, それらは, 軍の公的な司令部の記録である。 これに対して, 紹介する「従軍日誌」は, 軍の公的記録には, ほとんど記されていない戦場の凄惨をきわめる実情が記されていた。 「従軍日誌」は, 清書された日誌である。 「明治 34 年 1月 8日 大吉日」清書と巻物の芯(木製)に記されていた。 裏付けのために, 日本と韓国の現地を調査したのであるが, 別稿のように, 日本と韓国各地で, 誠実な協力をいただいたこともあり, 単なる裏付け調査には, とどまらなかった。 日本軍の東学農民軍討伐作戦には, 朝鮮全域では, 3つの大隊が, 中心となって投入された。 本稿で史料を紹介した後備第19大隊(当時の別称, 東学党討滅大隊) と後備第10聯隊第1大隊, 後備第6聯隊である。 別稿を参考にしていただきたい。 後備第10聯隊第 1大隊は, 釜山からソウルまで北上する日本軍の兵站線守備隊であり, 東学農民軍が電信線切断や兵站部襲撃など抗戦したのに対して討伐作戦を展開した。 この大隊は, 第5師団(本部, 広島市) 所属で, 四国四県と広島県の農民が従軍した。 一方, 後備第6聯隊は, はじめ朝鮮各地の討伐に派遣され, やがてソウルより北の黄海道などの討伐に参戦した。 第3師団(本部, 名古屋市) 所属で, 東海ㆍ北陸の農民が従軍した。 別稿に注記したように, とくに岐阜県出身の兵士が多いことなどが分かってきている。 これからの学術調査の課題である。 本誌の別稿でも説明したように, 日本公使館と公使館の要請を受けた日本軍は, 朝鮮各地で, 東学農民軍指導者の文書を, 公式の命令をくり返し出して, 組織的に捜索, 収集して日本公使館へ送った。 そのために, 東学農民軍側の資料は, そのほとんどが失われた。 このような日本軍側の一兵士の討伐戦争の現場を記した記録などがとくに貴重である。 付記 学術的に貴重な史料を復刻させていただいた, 史料の所蔵者と関係者に感謝を申し上げたい。 戦争という歴史の負の側面をもつ史料であり, これを復刻をさせていただいたことにとくに深く感謝を申し上げたい。 徳島県文書館の徳野隆氏, 徳島県の銃砲刀剣審査委員の坂本憲一氏には, 史料と徳島地元の歴史などについて, いろいろ教示と援助をいただいた。 (井上勝生 北海道大學 名譽敎授 整理)

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