(一) 旗揚 明治二十七年二月十五日 韓曆甲午正月十日 東學黨の積怨積忿已に年あり、何時かは其の念を晴さんものと時を窺ふ矢先釜山を距る七十里許、全羅道の古阜となんいふ所の郡守趙秉甲なるもの昨秋古阜地方は非常の豐作なりしにも拘はらず俄に防穀令を布き而して己の親族をして米幾千石となく買集めしめ奇利を博せしめ加之租米徵收の際非常手段を以つて虐政を檀にせり已に昨冬十月の如きも此暴官に向つて一揆あらんとせしことなれば最早堪え得ず此日を以て東學黨東津の津頭に勢揃をなしぬ其勢凡そ五百人 此軍中には十四五才位の少年も打交り居り皆徒步洗足して郡守趙秉甲の城門に押寄せ無二無三にその寢所を衝かんとせり、趙秉甲逸早くも之を偵知し單身遁れ去りて郡下の名族鄭某にたよりこゝにて服裝を變じて古阜の次邑井邑となん呼ぶ所に逃れ去りぬ、遂に全州の監營に投じ監司に謀りて兵一千人を借り乱民を鎭めんとせしが監司之を肯はず取敢ず朝廷に急報して其指揮を待ちける 古阜郡は廿八の村落より成り土豪頗る多く土地肥沃にして農産物に富み茁浦鹽所東津沙浦の四港に積出し仁川や釜山浦とこそ交通なき地なれ朝鮮八道中樞要の場所なり 因に記す郡守趙秉甲は先年咸鏡道防穀令の事件に就き其名を知られし趙秉式の甥なりといふ (二) 賊勢 此際直ちに應ずる村落旣に十有五全軍一万余人に及びける 首領三人あり曰く全明叔曰く鄭益瑞曰く金某 全明叔は總大將にして鄭益瑞金某は之れに佐たるなりかくて一擧して郡守の城を陷れ勢大に振ひこゝに目ざす郡守のあらざるを知り直ちに進んで金州の監營を攻む同時に此擧を傳へ應援するもの各所に起り瞬時にして全州忠淸の二道皆戰亂を見ざるの地なきに至れり 金州の監營之を引受け戰ふに其勢ひ中々に猖獗にして當るべくもなしかゝりければ東學黨の軍勢日一日より增加し來り此處を陷れ彼處を落し連戰連勝して行く所敵なきが如くなりき 何を以つて如此非常の勢を博したるやを考ふるにこれには訛傳迷信なんとの分子大に之を助けたるものゝ如し 其一は朝鮮は五百年にして革命あるべしとは甞て國內に流布したることにして本年は李氏世を取りてより正に第五百○三年なり頑迷なる韓人の信心韓廷の狼狽知るべきなり 其二は東學黨の首領は本年僅に十四才なる一神童なり姓を李といへ金といへ傳ふる所區々たり而してその少年神術を行へ百戰百勝すと此少年一度白旗を振るときは彈矢皆中らずと兎にも角にも朝鮮には一の新聞紙なきを以て浮說百出その何れか眞なるや容易に信ずべからざるなり 曰く東學軍には大將左大將右大將の三將あり■■て軍事を總ぶる由なるもその誰と名くべきやは未だ知るべからず前に記したる名稱の他に鄭道令徐蕙角崔大雄といふ三つの名ありと雖も想ふに皆想像上の人物に過ざるべしといふ曰く東學軍中に必ず外國人の參謀ありと何を以て之を謂ふか軍令嚴明にして作戰の法大に觀るべき所あること中々韓人の企にあらざる所ありと其何の人なるかと問へば何國の人なるや知らず 東學黨の形勢かくのごとく日を逐ふて盛んにして日々にその軍勢を增し來るものから各所の地方官長は大に怖ぢ畏れる餘り誇大の言を搆へ今にも陷らんとするか已に破れしかの如き早打を飛ばして援兵を乞ふて數〻中央政府を驚かしむ是れ第一に訛言浮說の百出して吾人をして何が眞なるや僞りなるや判別に苦ましむる所以なりとす 東學黨の勢たるその傳ふる所を以て半分以上虛說なりとするもその勢力仲々に盛んなることは眞實なり東學黨の軍器は多は後に全州の監營を陷れたる時に掠奪したるものなり全州の監營に備へ付ありたる鉃砲の數は僅に一千余挺なりと雖も後官軍の降兵は皆鉃砲を所持し居るなり 兵食は乏しからず、東學黨の中には豪農紳商と呼はるゝ者少からず旦つ武威を恐れて降りしものまたは只給與するに米麥を以てするを以て彼等は更に兵糧には差支なし 東學黨に降りたる官軍の多數は米佛國の新式なる兵式を練習し多少軍隊の組式進行等に熟くし居るを以て進退は頗る快活なる風を有せり 軍中に白巾隊なる一隊あり或は呼んで白薔薇軍といふ隊衆一同白巾を以て頭を覆ふ此隊は實に同軍の中堅にして軍中第一の强兵なり 東學黨の一軍の勢かくのごとく吾人は今や此軍を東學軍と呼ぶと雖も全軍すべて東學黨に非らず之に三種の兵あり、第一には主謀者東學黨投入者農民三に官吏の退職せるものなり皆烏合の勢なりと雖ども侮るべき小敵にあらず朝鮮の官兵とても急に操練をなすが如き不熟練なる兵にして烏合の兵と左程大差あることなきなり (三) 日を逐ふて益々猖獗 かくて東學軍の勢全く强く連戰連勝宛がら猛虎の檻を脫したるものゝ如くなりしがそれよりおよそ三旬を經過してはいよいよ猛く遂に宇內をして默視すること能はざるにいたらしめたり 朝鮮仁川發(五月十一日)全羅忠淸の民亂は實に恐るべき勢力となり全州の監司は之を鎭撫すること能はず爲めに政府は洪在喜(正領官我國の佐官に相當す)に命じ兵五百を引率して明日頃仁川より海路出發の筈なりと 同仁川發(同十六日)平安道にも暴徒起り其勢甚だ猖獗なりと 同仁川發(同十二日)全羅道古阜の騷乱と同時に起りたりし忠淸道の東學軍も勢銳く今や已に淸州は彼等の爲に圍まれ州の兵使は之を鎭撫せんと勉むるも制令毫も行はれず此旨啓聞に達せしかば早速先頃まで巨文島の僉使たりし趙義聞なる人を拔擢し淸州の營將に任せられ氏は命を奉じて出發したりと ○西學黨も復た起る忠淸各處に蜂起せりと 金海府 慶尙道金海府下の民大凡八千俄に大擧して府城を襲ひ府使を追放し属史を禁獄し以て觀察官の明判を乞はんとすと 全羅道古阜以下興德羅州恭仁高敞扶安等諸聯合の大民乱はさきに宣撫使を派して曉諭退散せしめんとせしも毫も服從の色なきのみか遂に古阜の縣官を捕へて之を火殺したるなどその兇暴は極點に達したるを以て流石に因循なる政府も之に呆れ果て最早撫諭するも效なきを認め遂に出兵征討に決し 洪兵使在義今改ためて啓薰といふ(昨年東學黨蜂起の時兵を率ゐて忠州まで出張せし人)を兩征討使となし親軍壯衛營の軍八百人を發す此行大砲二門彈藥六十余萬發を備へ仁川より支那軍鑑平遠号に三百人を戴せ四百人を轉運署汽船瘡龍号に戴せ殘り一百人を漢陽号に戴せ五月八日午后三時頃三艦前后して仁川を拔錨し忠淸道に向ふ 附して記す八道すでにかき乱れたるを以て當初献陵及び仁陵の行幸は韓曆四月三日の恒例なるも當分見合せとなりしといふ 以上述べ來りたる如く今や東學軍の総勢五六万の上に達し各州各部に隱現出沒し聚散常なきが如くなるも勢なかなかに猛烈なり 各州邑の小吏志を當世に得ざるもの日にその勢を增し材を抱いて用ゐられざる者武を學んで體肉の肥ゆるを歎ずるもの皆走りて賊に黨し小頭領となる 故に兵糧の如きは任意に涼め去るべく前日黨人と交好からざりしものゝ家は皆掠め去らる又黨人の小頭領槪ね此各州邑小吏の亡命なるを以て各地の鄕軍と通ずるの便あり且つその職權を弄して鄕軍を左右し從はしむることさへあり、黨人の用ゆる軍器は前に述べしごとく全州を陷れし時に鉄砲を得たるものなるが大抵は長槍太刀を携ふ中には鳥銃を携へたるものあり黨人の目印には 黃巾と黃旗、 にてすべて黃なる衣をつけ黃なる巾を頭に卷き黃なる旗を用ゆ前に述べし白巾隊は之に對したる列隊の目印なり軍令四ケ條ばかりあり 一に曰く 叩に人を傷け物を害ふなかれ 二に曰く 忠孝兩全世を濟ひ民を安んず 三に曰く 洋倭を逐滅して聖道を澄淸す 四に曰く 兵を驅りて京に入り盡く權貴を滅ぼし大に紀綱を立て 名分を定め以て聖訓に從がはんと 要するに前に述べたる主眼とする所と大同のみ その勢かくの如くして討手に進みたる各營官兵も皆諸共に敗れ走り最早支ふる能はず又敢て進むの勇氣なし全羅忠淸兩道の監司皆狀を具して急を京に報じます〻〻討滅の軍を派遣せられんことを待てり、而して賊軍の至る所皆郡司縣令府使牧使すべて放逐せらる 今左に全羅忠淸兩監司并び征討使等より發したる十三日以后の重なる報知を見るに (十四日忠淸道監司發)官軍振はず賊徒數千各處に屯集して各邑を侵略す吏民を招募すること益〻多く之に應するもの益〻多し烏合の兵とはいへ官軍甚はだ僅かにして衆寡敵すべくもなし現在調發したる兵僅々二百名如何とも詮術なし速かに充分の指揮を乞ふ事若し延引せば賊徒益々蔓延すべし (同時全羅道監司發)賊徒井邑に於て大に官軍を破る後更に古阜三巨里に向て屯集す各邑之に應ずる者雲霞の如く招討使之に當るべき氣力なし本日までに官府の軍器を奪はれたる所十余ケ所官吏の放逐されし處十三邑殺害されたる所四邑 (同日招討使發)完營の右領官李璟鎬手兵を率ゐて賊軍と戰かひしが逐に敗れて之に死す完伯爲めに喪を治む (同日全羅道監司發)羅州の牧使閔種烈事故ありて属吏の重なるものを殺したるよりその同僚等大に之を怒りその官宅に乱入し其一家族はいふまでもなく婢僕に至るまで悉く殺さる牧使逃れ去る扶安近傍十三邑の守令皆逃れて松監營に入る賊徒虛に乘じて軍器錢穀を奪ひ去る (四) 連戰連勝 東學黨の勢益々猛烈を極め風に乘じて野に火を放ちたるが如くなり (五月二十二日京城發)に曰く東學黨の巨魁羅州光陽扶安興德高敞及び高陽等を服從せしめその一隊八千餘人益山の一戰に官軍を破り北るを逐ふて京畿を衝んとする勢ありと (五月二十七日京城發)去る五月二十五日東學軍の主將鄭歌地雷火を以て官兵を大に南湖に破り官兵死するもの二百餘人生擒るゝもの三十二人東軍勝に乘じ其兵器糧餉を奪ひ寶城に據る兵威益々振ふ官兵糧餉到らず爲に民家を襲ふて錢穀を掠む (五月二十九日釜山發)(今曉郡山島古阜の沖)に於て韓船二隻東軍の襲擊に遭ひ米豆合せて三百餘石を掠奪せらたり (五月二十六日釜山發)去る五月十三日正午洪招討使、褊將元世祿を遣はし京軍を牽ゐて全州を距る五里許なる車馬山下に陣し砲を放たしむ是れたゞ威を示さんとするのみ招討使は兩湖の賊勢中々に猛烈なるを以て容易に動かず(韓曆四月十日招討使發電) (同日同所發)賊徒數千名南の方羅州に向ふ監司急に諸牧使及び近邑に發關して守衛を嚴にせんとするも諸邑空官多し(韓曆四月十三日監司發電) (同月同所發)褊將元世祿の行衛知れずさきに招討使元氏をして賊勢を窺はしめしが元氏の軍途に賊徒千餘人に逢ひ敗れて行く所を知らずなれりその配下五十餘名一も見當らず京軍爲めに震駭す (韓曆四月十二日慶尙道監司發電)先に京軍銃裝して京城を出づるもの實に七百人(八百人と稱す)群山上陸後日々逃走して今や餘す處四百七十人而ふして逃走未だ已まずと噫何ぞ朝鮮軍の精ならざるや 五月十五日東軍の將徐云蓋なるもの一書を慶尙道咸陽の地方官長に移して曰く本月十五日(我五月十九日)我軍咸陽に向ふ汝充分準備して待つべし然らずんば秋水忽ち汝が首に落ちん云々と 東徒また嶺南を犯さんとする色あり縣吏等狼狽し急に要害を堅め之に備ふ (五月廿六日釜山發)領官以下死亡百十四名あり、軍器は悉く東軍の奪ふところとなり今は詮方なし未だ襲擊を受けざる黃土山の如きは公穀公錢を支出して防禦に怠なし (十三日招討使發電)元世祿昨日無事歸陣李斗黃等に命じ二隊を卒ゐて金溝泰仁高敞興德等の地に向はしむ (十五日同暗電)東軍万余人靈光郡に屯集す五里にして伏兵あり三十里にして先鋒軍二千五百余名あり賊山野に滿つ四方の良民皆卒ゐて賊に投じ、官軍の急を報ずるもの日に多し (同日全羅道監司暗電)東軍の一隊万余人靈光を襲ふ、郡守閔泳壽舟を浮べて七山津に避く賊兵勝に乘じて城內に闖入し軍器火藥を奪ひ府庫を封じ四門を鎖して出入を許さず賊兵之に據りて固守するの意ならん (五月廿日韓曆四月十六日)官船漢陽号(利運社の小滊船)貢米積込みの爲め四月十三日靈光九岫浦に到り東徒數万法聖九岫の兩山腹に據り大に戰ひ官船を遮り船板を破碎し舟子并びに乘組居たる日本人等を歐打し仁川港委員金德容等數名を捕縛したり漢陽号空しく群山に引返せり さきに賊兵に通じて誅戮されたる金世豊の子壻弟姪等十一名は全州南門樓に揭書し逃れて賊に投ず 其書の畧に曰く方今の事務坐して死を待つべからず近者所謂執權大臣なる皆閔を以て姓とし終夜滿腹私慾之れ營む嗚呼此民を奈何せん所謂招討使なるもの無識怯懦逡巡兵を進めず而して猥りに質良有功の士を殺す是れ乃ち名を釣り邪を飾るもの、久しからずして必ず毒刑を受けん知らずや三歲の後國は俄(露西亞)に歸し人は洋に化することを東道の大將之を憂ひ義兵を擧げて以て民生を安んず云々と 東學黨連戰連勝してその勢の熾なること以上に記す所を以て察するを得べしかくて官軍の將士多くは打死し兵士の斃るゝこと數を知らず全州は殆と東軍の略取する所となり電報通せず東軍勝に乘じて京城を距る陸路二十六里の處まで迫り行けり朝鮮政府狼狽して更に六百の兵を派遣せり(六月三日正午仁川發) (六月同日午后京城發)に曰く官軍又全州砥山に大敗し副將以下死する者二百余人東軍洪州石城を占據し將に京畿に進まんとす依て朝鮮政府は更に五百の兵を發し泰安の衝路を扼せり (五) 日本公使の派遣 朝鮮の內乱東學黨の勢力漸〻猖獗を極め終に全羅一道を陷れ進んで石城を追擊し今や將に京城に攻入らんず勢ひなれば我日本帝國は大鳥駐韓公使を派遣せしむることとなり六月五日午前十一時四十五分新橋發の汽車にて出發せられたり、其一行には本野外務參事官に警視廳巡査二十名高崎警部引卒して之に隨行せりといふ尙此一行の出發の摸樣を聞くに陸奧外務大臣林次官外務省高等官及び朝鮮公使等は何れも新橋まで見送りたり かくて汽笛一聲橫須賀に向け出發しそこより軍艦八重山号に塔じ直航せられたりといふ (六) 韓廷の政略 今回の內乱につきては韓廷の喫驚したることその幾度なるを知らずその第一は昨年の東徒と同じきのみと思ひしことなり乃ち昨年の暴動は一片の綸旨を魚允中の按撫によりて容易く解散したれば今度もその例によらんとせしも其手は參らず此手段效能なきも八百の征討使もし到らば烏合の徒は散ずべしと思ひしもいつかないかな却つて反動するのみ西洋式を以て操練したる隊伍齊整たる軍勢は百人以上脫し去れり豈狼狽せざるを得んや是に於て外兵借用の議起る曰く外兵を借らば一も二もなく鎭撫すべしと外兵とはさしつめ支那兵なるべし然れども韓廷如何に暗冥なるも一人の活眼者なからんや左の反論によりて排斥せられたり 其要に云く今や東徒の猛勢不測或は皷行北上の患なしとすべからず最も痛悶に堪へたりと雖も然れども內亂を鎭壓するに外兵を以てせんは啻に自主自護の大旨に背くのみならず偶ま以て外國干涉の端を開き其後患言ふ可からざるものあり殊に淸日孰れの兵を借らんとするも天津條約の現存を奈何せん若し之を破らしめんか兩國の爭論は乍ちに開けて八路を擧げて淸日交鋒の修羅場たらしむるが如き大事に至らんも亦計るべからず我國の無事玆に十年なるも畢竟兩國條約の賜と云はざるべからず之れを問はずして漫に外兵借用を言ふ亦た思はざるの甚だしきものなれば自今以後斷して之を口にすること勿れ云々 外兵借用の議左の一言を以て見事に排斥せられたる以上は更に出師の他なしと愈々征討軍を增發するに決し江華留守兼海軍總制使閔應植は去る十八日江華に下り同所の營兵五百を徵發し同營の中軍徐炳薰を以て之れが總將たらしめ彈藥四十餘万發を準備し閔應植は見送り旁々同伴にて去る廿一日來仁、海上の食用として麪包一千斤を大佛ホテルより買ひ入れ雨天にて石灰積込みに手間取りたる爲め翌二十二日午後五時朝鮮汽船顯益號及び海龍號にて全羅道に向ひ早速上陸し全州監營に到り待ち設け居る洪招討使の軍と合する筈なりと云ふ 外兵借用の妄議は全く排除せられ招討軍新に擧げらる然れど國王の意は按撫にあつて討伐にあらずたゞに按撫の意なるにあらずむしろ一進して懷柔の實を施さんと全羅道の監司を交迭するを第一とし兩湖の大小地方官を改撰しそれらの失政と認むるものを處罰すると同時に昨年の例の如く綸旨を出し先敎後刑の意にして何事も之を免し改めたる時と敢てせず再三反覆して尙改めざる上は討罰に決すべしとて金鶴鎭なるものを新たに全羅監司に任じ前官金文鉉を廢しけるかくて新任の監守をして各處を㢠り撫慰せしむ ○國王の下し賜へたる敎示を見るに左の如し 一古阜の郡守趙秉甲は格を俱し拿し來つて南間に囚せよ 一其以外の地方の守令と雖貪虐なるものは一々之が罪を論じ以て民心を定めん 一大臣以下末官に至るまで此板蕩の時に當り何ぞ垂手傍觀すべけんや特に輔國安民 の策を猷じて可り 一全羅監守は特に越棒の典を施して可なり(罰捧) 一逃走せる各守令は罪の輕重を論じて其處治をなすべし 朝鮮政府より乱民を慰撫する訓令左之如し 東學之徒軍勢を合して靈光に聚りたるに付招討使則ち京軍に領し過日旣に其地に向ひ今や將に一大決戰を開かんとしたる折綸旨忽ち下りたれば暫く鋒を斂めて其綸旨則ち完伯(全羅監司)を罷黜し古阜の郡守趙を捕へ來り以て慰撫の意を示めされたるを布告す而かも爾後尙ほ歸順ぜざるものあるに於ては已むを得ず將さに京軍を以て討滅壓殺せん云々と (七) 各國の進發 英國艦隊五艘長崎に淀泊中なりしが直ちに橫濱へ進行すべかりしを俄に變じて朝鮮國內乱の報を得て馳せて之に赴けり 支那米國其他の軍艦仁川に集り 支那兵千五百人上陸したりと六月七日午后一時三十分仁川より急電ありき 露西亞兵もまた上陸したりなんと聞く又この他に淸國政府は朝鮮政府の依囑に應じ援兵一萬を朝鮮へ派遣することに決し先づ第一回の出兵として李鴻章氏の率ゆる洋式訓練の精兵三千を威海衛太古の兩地より出發せしめ已に一半は仁川に一半は牙山(京城を去る僅に十八里廿四町忠淸道の海岸にあり)に上陸したるよしいひ傳ふ 此支那兵數一万といふことにつきては論評區々なり朝鮮派遣の淸兵司令官は李鴻章の手兵參謀長珂氏にして六十才以上の老將なりといふ 支那兵一万を出すとの噂なるも諸說區々として或は眞といへ或は虛なりといへ何れか是なるやを知らず今こゝに同國の兵制に通曉せる某官人の說に依れば支那政府が今回韓國の請求に依り出兵せしむるは事實なるべきも其兵數一萬人とは少しく誇大に過るの感あり好し仮令一萬人とするも其正數は六七千位の兵數と見て大差なかるべし元來李鴻章監督の下にある軍隊は槪ね歐羅巴風に訓練し其銃器の如きも總て新しきものを用ひ軍規頗る嚴肅なるが如しと雖之が將官たる者は常に定員の內幾何を減じて其費額を減ずるの弊あり譬へば一大隊六百人とするも其實數は常に三百八九十乃至四百人位を以て普通とするが如きは敢て珍しからざることなれば一萬の兵を出すとするも其正數は六七千位と見て大差なかるべしと 淸國全權公使袁世凱氏の策 朝鮮政府は東學黨變亂に就き今度淸國に向て援兵を請ひしとのことなるが此の援兵を請ふに至りしは全く袁世凱氏の献策に出で氏が國王殿下に內謁して此の援兵の事を献議したるものならんといふものあり果して左るにや 露國の出兵 淸國が朝鮮國に向て出兵すると共に露國も亦同國に向て出兵したりとの噂あるが露國が果して朝鮮に軍隊を出したりとせば其兵士は定めて浦䀋斯德港近地に屯在する陸兵なるべし此の浦鹽斯德港近傍に屯在する露國の兵數は一萬五六千に下らず又た同港に碇泊する艦隊は常備艦隊十二隻より組織し此の外義勇艦隊六隻ありて此十八隻の軍艦は常に同港近海に出沒し一朝事あるときは立所に集合することを得るものなれば今回露國が朝鮮に出兵したりとせば此の浦鹽斯德近地に屯在する陸軍軍隊中より派遣したるものならんと同國の形勢に精通せる人は語れり (八) 日本帝國の出師 六月九日の讀賣新聞特に陸軍省の允許を得たりとて揭げたるを見るに 東學黨の勢益々猖獗を極め同國政府の力能く之を鎭壓し得ざるの狀況に迫れるため同國に在る本邦公使館領事館及び國民保護の爲め軍隊を派遣す依て我政府は右出兵の事を支那政府へ知照あり支那政府よりも朝鮮政府へ知照ありたりと而して此派遣せらるゝ軍隊は第四五師團兵を以て組織せられたる混成旅團兵なるよしにて六月九日廣島縣下宇品港より我運送船にて出發したるよし尙ほ詳細なることは日程を追ふて記すべし (九) 京軍と東軍との槪勢 曩に發したる招討軍なるものは其本旨按撫するにあるを以て敢て戰を好まず只完營近傍に屯集するものを遠卷にして追拂ふのみたまたま戰ひしことあるも巡羅又は斥候などの途に偶然と出遇たるまゝ發したる小せりあひのみ是まで互に勝敗ありしは監司との戰のみなりと知るべし而して一局部一個所の勝敗によらず大体より考ふれば以て兩軍の大勢を窺ふを得べし 抑も今回の戰の起りは古阜にありて東徒は暫く此地を根據として其近傍なる金頃萬頃金講泰仁等の間に出沒せしが招討軍の一隊全州を出でゝ井邑に進むに及び東學軍は茂長に退ぞきたり次第に官兵そのあとを追ふ而して靈光に至り東軍三分し一は靈光に止り一は咸平に一は務安に引揚たり招討軍尙追擊せしが五月廿二日顯益海龍に乘じて仁川を發したる江華の軍隊木浦より上陸して敵の前路に出づ招討軍その尾を收む而て夾擊せんとする畧なりしか東軍早くも之を察し三分屯營の兵を合し長驅して羅州を越え長城に入る (十) 全州の陷落 (槪勢の續) 去る程に招討使は長城に入りたる東軍を追ふの途兎角に招討使は兵員の不足なるため一關文を發して近傍より臨時に各邑各里より三四十人宛を召募せしが或日百五十人余の民兵一隊陣門に來たり先に招討使の發したる關文を示し召募に應じたる由を白す何の疑ふこともなくその義を賞し手厚く取扱へその儘隊中に編入す かくて軍を進め長城の近傍月坪に至り東徒に出逢開戰中百五十人の民兵二手に分れ左右より急に夾擊す此一瞬間に一齊に鬨を上げて三方より打てかゝるに京軍大敗し全軍潰裂人馬踏藉算を乱して斃れたるもの凡そ四百余人殘兵もまた殆と盡く逃去りたり 東軍勝に乘じて進擊し難無午后該營を乘取此百五十人は民兵に非ず東軍にして關文を僞造したる者へ全州陷落の飛報中央政府に達せし時恰も此敗報には關係なく仁川府總制營の兵士七十余名貢米警護として將に發せんとせし所なりしが政府より急電を以て出帆を見合せしむ且次電を以て今日中麪包三千斤を製造せしむかくて翌六月二日平壤の兵六百人を蒼龍号にて南道に向はしむ 全州陷落に前後して左の一報あり全州の敗報と參照なさば此數日間の光景を知るに便よからん 五月廿九日法聖發の通信によれば官賊兩軍曾來の動靜を見るに官軍は靈光に假營を設け賊軍は長城の傍なる山腹に占據し唯兩軍相互に擧動を窺ふ而已なりしが官軍は兵を二隊に組織し一隊は二百名に大砲二門を備へ高弊を經て又一隊は五十名に大砲二門を備へ森溪を經ていづれも賊陣を目指し出發せしは五月廿七日午前四時頃ろなり同午後六時頃ろ長城に着す賊軍は其の數漸く百名に過ぎず甚はだ虛あるが如し官賊陣を隔つること僅に三四丁相互に銃擊を始めたるに賊兵は次第々々に多數となり殊に又左右兩方より伏兵蹶起し其人員數千に達し其勢ひ破竹の如く官兵は僅々一時間を經ざるに業に已に大敗し砲兵士官一名は生擒せられ尙ほ大砲六門を橫奪せられ死傷者實に百數十人の多きに達せりと云ふ (十一) 淸兵の擧動 先に淸兵一千五百人(軍隊三衛)忠淸道牙山に上陸したる由なりしが仁川發(九日)の報によれば依然と動かず同地に屯營しありと 淸國より韓國派遣の淸兵將校士官は多くは彼の馬賊の內乱を追討せしものなりといふ 淸國は更に三衛は派遣する筈なるも未だ出兵の摸樣なしといふ 淸國軍艦は警備船四艘にして皆仁川及び牙山の近傍にあり艦隊は芝罘近傍に常備艦隊徘徊し居れり (九日仁川發電) 淸兵千人馬山に來ると (十二) 日本軍京城に入る 六月九日を以て出發したる我國の陸軍兵は同十二日仁川に上陸し二分して一は仁川在留日本人保護の爲同港に駐まり他の一千二百名十四日京城に向つて進軍し我海兵のさきに在留人民を保護しありしに代る其駐在所は日本公使館近鑄洞筆洞の居留民國を以て之に充てたり大島旅團長を始め將校は公使館內に止宿せらる その入京の盛況を記さんに軍隊の大旗を眞先に飜し隊伍齊々堂々步趨肅々として直ちに京城にいるその有樣文祿の昔を偲ばしめたり朝鮮の人民は我勇壯なる軍隊を見ばやとてと道路を夾さんで之を觀る皆恐怖震慄したるものゝ如し在留の本邦人は喜び勇みて京城の郊外に出迎へたり殊に淸兵倂各國の兵に先んじて入京せしを喜こび居れり是と同時に海軍兵は京城を引揚げ各所属の軍艦に乘込みたり (十三) 李鴻章の狼狽 我日本兵は最も迅速に最も敏活に京城に乘込みしを以て淸國公使袁世凱は大に狼狽し直に本國李伯の許へ電報を發して更に出兵を請求しければ此袁世凱の狼狽忽ち李伯に傳へたり何が故にかく狼狽せしかを尋ぬるに去十七年の乱に淸國は二千余の兵を派遣せしも日本よりは僅に一百余の兵を派遣するに止まりければ今回も決して多數の兵を出すことはなかるべしと思ひきや意外に多きを以てなり且つ直ちに京城に入ると聞を以てなり 李伯袁世凱の報を得るや否や直ちに手兵を點撿して出兵準備をなしたり (十四) 載兵船の歸朝 さきに我軍勢を戴せて仁川に赴きし和歌浦丸は十六日午前一時三十分朝鮮より馬關に附着したりその報ずる所によれば日本兵は無事に十二日午后二時四十分より四時半までに上陸を畢り (十五) 日本出師の增加 十四日宇品港を發し廣島の現役兵豫備兵幾千肥後丸にて朝鮮へ遣されたり (十六) 在韓淸兵の擧動 (其一) 牙山屯在の淸兵の數 淸國陸軍は三衛兵(千五百人)なりと言傳へしが精確なる調査によれば四衛兵(二千人されど一衛兵五百人以上のものもあり又た以下のものもありと)即ち總數二千百人なり (其二) 淸兵未だ京城に入らず 牙山屯在の淸兵京城に乘込みしと傳ふるものあるも十三日までは確かに入京せずといふ (其三) 淸兵の一隊江州に向ふ 十三日一隊五百人許(一衛兵ならん)牙山を距る十里余の江州に向ふ入京の說盖是等の誤ならん (其四) 牙山淸兵の亂暴 牙山屯在の淸兵は同地方の監司に命令して民家より糧食中馬は固より金錢に至るまでを徵收し頗る乱暴を働き居る由にて韓人大に嫌忌し居るよし十八日の通信に見えたり (十七) 開戰準備之風說 先きに淸國は牙山に兵を出したるまゝ日本出兵の通知に接したるも只十六艘の軍艦を派遣する準備せしとの風說ありしのみにて其擧動頗る不分明なりしが十九日を以て海上よりの電報に左のことあり 招商局の滊船は船籍を日耳曼に移すべしとの噂あり 去る十七年淸國政府は佛國と事端を搆へ宣戰の時招商局の滊船を米國の船藉に移したりといへば或は是れ開戰の一着なるかといふ (十八) 大鳥公使日本兵徹去請求の抱絶 淸國公使袁世凱及び韓廷より日本兵撤去の請求ありたるに大鳥公使慨然として斷然拒絶したりと昨廿日の通信に見ゆ