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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
朝鮮暴動實記 조선폭동실기
일러두기

緖言 本篇は一朝雞林の亂作るや特に通信者を該地に派し夫々報導せしめたれば今や其材料凡に山をなし倒底悉く小冊誌に記載する能はず故に其社會に直接影響を及ぼし忽緖に付す可からざる緊要の報導のみを揭載する縡にはなしぬ幸に其粗なるを咎る勿れ 編者識す 今回朝鮮の擾亂に關し或る確信すべき向より接手したる報道に據り其擾亂の起因を左に列記す 古阜の地勢 古阜郡は廿八村落より成り土豪多し土地肥沃にして農産物に富み茁浦、鹽所、東津、沙浦の四港に積出し仁川、釜山との關係極めて薄き土地柄なれと八道中一の樞要なる箇所なり 古阜の郡守 姓は趙、名は秉甲と稱し夫の咸鏡道防穀令の■■■きて其名を知られし趙秉式の甥なり 郡守の失政 昨秋古阜地方は豐作なりしに秉甲は俄かに令して防穀令を布けり而して自から親近の者に命して米幾千石を買收せしめ牟利を博せじこと計るべからず且租米徵收に際し虐政を擅にせり然れば十月の頃には旣に民心の動かんとす兆朕ありたり 東津江辺の蜂起 韓曆甲午正月十日(我二月十五日)の事なりき鷄鳴東津の滸に勢揃をなしたるもの五百ありたり各々竹槍を携へ白巾を頭に纏ひ年齡十四五歲と思いき少年首領を始め部下皆徒步跣足にて郡守の城門に闖入し其寢所を衝かんとしたり 趙秉甲の遁亡 是より先秉甲は其危難に瀕せるを偵知し單身遁亡して鄭某の許に寄り其救護を求む某は郡下の名族なり斯くて秉甲は服裝を變じて井邑に逃れ遂に全州監營(完營)に投じたり秉甲監司に謀り一千の兵を借りて亂民を鎭壓せんとす監司肯んぜず直に之を韓廷に報じて其指揮を待てり此際亂民に加盟せし村落旣に十有五、全軍一萬餘に及びなり 亂民の三首領 曰く全明叔曰く鄭益瑞曰く金某(三人の姓名に疑ひあり姑く之を存す)而して明叔最上位に居り鄭、金の二名は之に佐たるものゝ如しといふ ●京城の兵備 京城には米國軍官二名の敎練に成れる洋式常備兵五千人あり內二聯隊はレミントンライフルを携帶し別にガフトリン砲とクロツブ砲一門を備ふる砲兵隊ありと云ふ ●朝鮮の武官制度 朝鮮の官制は東西兩班に分ち東班を文官とし西班を武官とし文官を主として武官は之に附隨せるものゝ如し兩班共に位階を正從九品に分ち西班には又陸軍水軍の目あり兵馬節度は我師團長、水軍統禦使は我鎭守府司令官とも云はるべきものとす而して皆文官なる八道の觀察使の兼職としあるより觀察使は一道に於ける兵馬の實權を握れるなり一道に水陸を合せ平均六七十人の將校、千人の兵卒(全國に凡そ一萬人)ありと稱するも皆儀式上の官制人員にして信憑するに足らず又軍用船は戰船、防船、兵船、伺候船等類を分ち全羅道には合計二百二十三隻を有するも是亦木片を以て釘に代用しし板を組合せたるものにて幾ど使役に堪へざる觀ありと云ふ今日朝鮮の內亂に際し其兵備の一端を挙ぐれば此の如し ●東學黨京城に入るの進路 同黨の京城に入らんとする進路なりと云ふを聞くに石城より公州(忠淸道の首府にして監司の居る所、監營あり兵士四五名駐屯す)に出で錦江を渡り溫陽、豊城、天安、稷山、振威、水源(舊王都)龍仁、果川、始興の各鄙邑を經て漢江の岸に出で麻浦或は龍山を渡り直は南大門に向ふの道を取るより外に便路なしと云へり然れば曾て報ぜし如く官兵は此街道筋なる天安に於て東軍の侵入を防禦ぜんとする者なりといへり ●東學黨大將の號令 東學黨の大將なりと云ふ李氏は此程各部隊長に對し訓令する所あり今其十二條の軍號なるものを聞くに左の如し 降者は愛撫し 困者は救濟し 貪者は之を追ひ 順者は敬服し 飢者は之に饋り 奸猾は之を息め 貧者は賑恤し 不忠は之を除き 病者は給藥し 不幸は之を刑す 右の條々は吾儕の根本なれば若し此命に遠ふ者あらば之を地獄に囚すと云ふ ●老將軍 賊徒中一の老將軍あり姓は朴にして齡八十七初め靈嚴郡に於て子弟の敎育を職とし郡民の敬重一方ならざりしが郡守閔民の虐政日に甚だしく或は人の妻を犯し又は妙齡の女を奪つて妾となし無名の稅を課し無辜を殺す等其の狂暴至らざる無く民の疾苦默視すべからざるより朴は一日誠意を盡して閔に匪政の改良を勸めたれども閔は之を貴ばざるのみならず却て痛く朴氏を辱かしめたるより氏は勃然として郡守の廳を去り家に歸らずして先づ郡民を集め郡守と問答の始未を報じ是より爲すべき策如何と協議したるが、事玆に至ては最早穩和の手段を取るの要無しとの說多く結局兵を擧げて郡守を殺し終に現政府を討滅して更に良政府を組織するに如かずと爲し朴自ら將として直に一撥を起し郡廳に迫りて閔を捕へ寸斷して軍神を祭り夫より接近せる各地を打靡け終に東學黨と結托して出沒變幻極まり無く今は一方の大將となり劃策して當らざる無く戰つて勝たざる無く驍名四方に森けり ●若將軍 賊中一箇の少年將軍あり姓は張にして年僅かに十四、光陽の産にし其父は固と相當の官職に在りし者の由なれども意見現朝に容れられず曾て暴虐は亡國の素なりとて痛く上官を爭ひ罪を得て刑獄に投せられ悲憤の餘り頓死せし者なるが其子張は能く父志を繼ぎ鄕黨を集めて亂を起し是亦今は東學派一部の將として勇名全道に高く到る所衆人の尊敬を受居れり ●鬼神賊中に在り 賊中一人の猛將あり官の諸軍之を呼んで鬼神と爲す、彼は翼無くして能く天に翔る者か到る所の戰として出陣せざる事とては殆んど無く彼は最も射擊に長じ屢々敵の隊將を殺すのみならす動もすれば銃砲弓矢を手緩るしとし大刀を打振て敵陣を侵し當るに任せて斬到し忽ちにして死屍堆を爲さしむ故を以て彼の過る所敵ある事無し鬼神の名決して其故無きに非すと云べし而して該猛將の事に付官事內に流布せる風說中には最も驚くべきものあり卽ち彼は等しく白衣を着け白布を以て頭部を掩ひ其裝ひは全く東學派の如くなれども實は日本人なりと因に記す賊中日本人混じ居る由は豫て聞く所にして特に右の如き噂もあれば我社在韓の探訪員は該地に在る公使館及び領事館に就て其虛實を問合ぜ又本社に於ても其向々に手を廻はして充分の探究を遂けしかど何分にも與し易からざる、賊徒の事とて果して如何なる人物が其中に混じ居るやは確め難く只緣も無き朝鮮の內亂に帝國人民の加はるべき道理無しとの推測上より左の事はあるまじと云ふのみにて固より斷じて之れ無しとは云ひ難し特に該地方は絶へず我行商人廿人內外宛入り込み居たる所にして又該地方には屢我漁業者も往來し二三無賴漢も出沒すとの說を耳にせし事もあれば愈よ以て其虛實判じ難く或は之れ日本人にあらず日本人の子孫と稱せらるゝ朝鮮人ならんとも云ひ風說區々にして今に事實の眞相を知るに由無し ●招討軍中支那人あり 頃日朝鮮より歸りたるものゝ言に依れば朝鮮政府より派遣せし招討使が率ふるものゝ中には支那の水兵加はり居り十四五名づゝ二組に分れ相當の指揮官となり居るは事實なりと云々 ●田中次郞の爲人 東學黨中に日本人田中次郞なる者あり今同人を知れる人の語る所によれば同人は群馬縣前橋の人にて第一期の士官學校を卒業し爾來昇進して陸軍大尉となり監軍部の傳令使に任ぜられ支那語及び佛語にも通じ膽力豪毅なれども品行不正加ふるに負債の爲め軍人の面目を汚すの所行ありしを以て四五年前終に免官せられたるため一時は頗る落魄して東京ホテルの小使と迄なりたる事ありしが三四年前より朝鮮內地に入込み或る商店の番頭となり居りしは事實なりといへり ●朝鮮在留の日本人 雞林の風雲轉た急なり此安危關心の地に我同胞の在るもの幾許ぞ最近の調査に據れば左の如し 仁川(明治二十六年十二月現在外務省調) 戶數 四百二十六戶 人口 二千五百零四人 男千五百三十人 女九百七十四人 釜山(九月現在) 戶數 九百七十五戶 人口 四千五百五十人 男二千四百八十七人 女二千零六十三人 元山(同六月現在) 戶數 百七十二戶 人口 七百六十四人 男四百八十五人 女二百七十九人 京城(明治二十五年末現在) 人口 七百四十一人 合計 戶數 千五百七十三戶(京成を除く) 人口 八千五百五十九人 以上官府の調査に係り確實據るべきものなるも爾來若干日月を經過したれば幾分か增加せしこと疑なく且在留野の定まりし外一時在留せるものあるべければ右の數よりは幾分か多しと見て可なり ●農工商買の喜悅 朝鮮に置ける官民の懸隔は文明人士の想像に及ばざる處殊に官吏は權威を以て富饒なる農工商賈の資財を徵發して自己の嚢■を富すを常とす故に農工商賈は蓄財の心に乏し否蓄財の必要を感ずるも奸臣虐吏の徵發を恐れて餘財を浪費する癖あり然るに東學黨の起るや農工商賈は其の私財を獻じて運動を助け以て閔氏の政府を顚覆し爾今財産の安固を計らんとて頗る今回の暴動を喜び居れり ●說學の朝鮮士族 東學黨の猛威を逞うするは旣に隱れなき事實なるが曩に十五年の變亂に方り閔族の誅を免れ咸鏡道に脫走せし千餘名の士族が黨中に加はり居らずやとの說あり萬一斯かる事ありとせば此士族輩は軍事に精練なるもの多く刀鎗銃砲の使用に熟し居るものなれば由々敷き大事なりとて閔族の心痛一方ならず目下其方面に細作を派し居るよし流傳ありと明石丸便にて京城より當地の或方に達したる書信の端に見えぬ ●靈光賊營の軍令狀と戒軍令 靈光占領の賊徙は先づ此所を本據として各地の徒黨と氣脈を通じ終に京城を衝かんとし豫め諸軍に對し戒軍令と軍令狀を示して曰く ◎軍令狀 東道大將令を各部長に下し約策す、凡敵に對するの時刃に衄ぬらずして勝つ者を以て首功とす已むを得ざるの戰と雖も切に人命を傷ふこと無きを以て貴しと爲す、行陣の時に於ては切に人の物を害ふこと勿れ、孝悌忠信なる者の居村は十里以內に屯住すること勿れ ◎戒軍令 降る者は愛撫せよ 順ふ者は敬服せしめよ 走る者は追ふこと勿れ 逆ふ者は曉諭せよ 困む者は救濟せよ 病める者は藥を給せよ 貧る者は之を遂へ 姦猾は之を息せよ 不忠は之を除け 不孝は之を刑せよ ●淸國出兵の目的何如 居留人民の保護と東學黨往伐の爲めならば五百か六百の兵士を差向くるのみにて足るべきに數千の兵士を派出するを見れば或は他に深き目的の存するにはあらざるかとも傳ふ記者は今此說に對して俄かに判斷を下し難しと雖も兎に角東學黨には有力なる尻押ありとの說も流布し强ち無根の風說とし見難き事情も存し居りて危機一髮或ひは東洋の大亂を惹起さんも計り難き場合なれば此際淸國の一擧一動は我邦人の最も注意すべき事なるべし ●朝鮮出張の淸兵 は彼の李鴻章氏の管轄に屬する威海衛及び大沽屯在兵にして何れも洋式の訓練を受けたるものなり ●朝鮮內亂の別報 一朝東學黨の叛旗を飜ずや風を望んで來り應ずる者甚だ多く連戰連勝殆んと一潟千里の勢ひを以て全邏大半の要所を占領するに至れり故に今日古阜石城等に於ける兩軍の勢ひを察するに賊軍は日夜に其勢力を倍し官軍は日夜に其勢ひを沮喪するの有樣にて到底官軍の勝利は覺束なきものゝ如し殊に賊軍は地方富商豪農の爲めに夥多の金穀を貯へ糧餉には毫も差支なし只々困難なるは軍器の破損を修補するに道無き事と其不足を補ふの術なきにあるものゝ如し但し軍中には大工其他技術に巧なる者もありて木砲弓箭等は自在に製造し又例の投礫術に長じたる者七十餘名一手になり接戰の際よは必ず先登して官兵を惱ます由なるが其術の巧妙なる四十間以內の距離に於ては百發百中一として之を誤るなく現に石城の接戰には三十餘名の官兵を斃したる由又其戰隊を分つ事左の如し 砲銃隊 鎗隊 弓隊 投礫隊 斥候隊 騎兵隊 輜重隊 此他會計、糧食、醫師等の備充分にして之を官軍に比すれば其勝る事數層なりと云ふ又爰に一種の怪說あり曰く東學軍の猛烈なるは云ふまてもなきことなるが其神出鬼沒實に不思議の幻術妖計を巡らすは全く神佛の應護に依る現に彼等の先陣にはイツも影の如く又烟の如き一個の將軍現はれ軍扇を以て東學軍を指揮し其進退掛引をなす實に陽炎稻妻の如し右は神佛に非らざれば彼の金玉均の靈魂ならん抔種々樣々の怪談妖言を傳へ甚しきは王父大院君夜に乘じて賊軍の陣頭に赴き祕計密謀を■■て進退せしむるが如く風說する者さへあり其今日の■■全く我十年西南戰爭の時と同樣老幼婦女子に至るまで日夜戰爭の噂にのみ日を淸しつゝあり云々 ●賊徒鄭某を立て王と爲す 李氏の世五百年にして終るべしとは朝鮮全國に流布せる讖語にして而して今や李氏王位に就てより正に五百三年を經たり而も紀綱上に弛びて政令正しからず風敎下に亂れて人心腐敗し上下只私利あるを知て國を思はす之れ豈李氏亡ひて他之に代るの時にあらざるがとは一寸何人の心にも浮び易き妄想なるべく況して亂を起して以來四方を風靡し徒黨の集まる者日に多く向ふ所敵無く戰つて勝たざる無き賊徒等は如何で此勢ひに乘じ彼の讒言を實にせんとせざるべき卽ち忠淸道の某地に住ゐして時を待ちたる鄭氏の遠孫某を立てゝ王と仰ぎ崔時厚以下重なる黨員血を啜て臣子の約を爲し益奮つて官軍に當り終に王位を掌握せんと努むるに至れり ●賊徒の檄文 此時に當り賊勢全道に振ひ到る所彼等の屯集せざる地方とては無きに至りしかど只茂長附近の結合稍堅からす依て彼等は例の說客を派して徒黨を募り尙ほ左の檄文を發して四方の贊同を求めたり 人の世に於て最も貴きは其人倫を以てなり君臣父子は人倫の大なるもの君仁に臣直に父慈に子孝にして然る後乃ち國家を成し能く无疆の福に逮す今我聖上仁孝慈愛、神明聖叡、賢良正直の臣賢を翼け明を佐れば則ち堯舜の化、文景の治、日を指して希ふべし矣今の臣たるもの報國を思はず徒に祿位を竊み聰明を掩蔽し意に阿り容に諂ひ忠諫の士これを妖言と謂ひ正直の人これを匪徒と謂ふ內に輔國の才なく外に虐民の官多く人民の心日に益す淪變、入ては資生の業なく出ては保軀の策なく虐政日に肆に怨聲相属す君臣の義、父子の倫、上下の分、堕壤して遺すなし矣管子曰く四維張らざれば國乃ち滅亡すと方今の勢ひ古より甚しきものあり矣、公卿より以下、方伯守令に至るまで國家の危殆を思はす徒に己を肥し家を潤すの計に切にして銓選の門視て生貨の路と作し、應試の場、擧て交易の市と作す、許多の貨賂、國庫に入らず反て私藏に充ち國に積累の債有とも國報を恩はず、驕侈淫昵、畏忌する所なし、八路魚肉、萬民塗炭守宰の貪慾、良に以あるなり之を奈何ぞ民窮し且困まざらんや、民は國本たり、本削らるれば則ち殘す、報國安民の方を念はす、外卿第を設け惟だ獨全の方を謀り、徒に祿位を竊む豈その理ならん哉、吾徒草野の遺民と難も君土に食ひ、君衣を服す國家の危亡を坐視すべからず、八路同心、億兆詢議、今義兵を擧げ以て公に報じ治國安民、死生の誓を爲す、今日の光景驚駭に屬すと雖も、切に恐動する勿れ、各々その業に安んじ共に昇平の日月を祝し咸く聖化に沐せば千萬幸甚 ●京城と各地の距離 (日本里程) 忠州 廿四里三十二丁 公州 二十八里十六丁 淸州 廿五里二十四丁 洪州 廿六里二十四丁 林川 三十五里二十丁 泰安 十四里二十四丁 舒州 廿六里二十四丁 丹陽 卅二里三十三丁 韓山 三十九里四丁 汚川 二十七里二十丁 天安 十八里二十四丁 沃川 三十六里十六丁 槐山 廿四里三十二丁 大興 廿四里三十二丁 瑞山 三十一里四丁 文義 二十九里十二丁 報恩 卅三里二十八丁 鴻山 二十六里十六丁 稷山 十六里 懷仁 三十一里四丁 靑陽 二十八里十六丁 懷德 三十里八丁 石城 卅四里二十四丁 魯城 卅二里三十二丁 淸風 三十里八丁 牙山 十八里二十四丁 連山 三十五里二十丁 恩津 三十五里二十丁 結城 二十七里二十丁 鎭川 二十一里十二丁 燕岐 廿五里二十八丁 木川 二十一里十二丁 庇仁 三十七里十二丁 永春 四十一里廿八丁 全義 二十一里十二丁 保寧 三十一里四丁 永同 四十一里廿八丁 ●京城の人口 東學黨愈々京城に迫らんとする今日同府の人口を記するも亦讀者の參考となるべし左記は本年三月の調査に係る者なり 朝鮮人凡四十萬人 日本人男四百九十二人女三百廿四人 支那人凡二千五百人 米國人男二十九人女二十九人 英國人男十一人女三人 佛國人男六人女四人 獨逸人男三人 露國人男二人女二人 璉國人男一人 ●吉林の暴動 天津より府下の或處へ達したる電報に據れば近日露韓の國境に接せる吉林に暴動起り其徒黨凡そ一萬五千人に達し勢ひ頗る猖獗なるを以て天津より同地へ向け出兵せんとする說風あり云々眞僞果して如何 明治廿七年六月十六日印刷 仝年六月十九日發行 東京市神田區田代町九番地 岡田常三郞方 編輯印刷兼發行者 高橋友太郞

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