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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
東亞先覺志士記傳 동아선각지사기전
일러두기

一四 釜山の梁山泊 明治十五年、同十七年と兩回に亘つて起つた朝鮮事變は、いたく我が民心を刺戟し、其以後には本邦の志士にして大陸に志を寄する者が陸續と朝鮮に渡つた。 明治二十五六年頃には其の數も漸く增加し、同志相携へて渡る者もあれば、孤劍飄然と出掛ける者もあつて、其の間特に連絡があつた譯ではないが、龍吟虎嘯して風雲の機に乘ぜんとする志に至つては皆一であつた。 さうした志士が同氣相求めて一つの集團となつたのが明治二十六年八月釜山に出來た梁山泊である。 この一團こそ後に日淸戰爭の動機となつた東學黨を援けて朝鮮三南の天地を風動せしめた天佑俠の基礎をなすものである。 梁山泊の諸同志 この粱山泊は大崎正吉が同志の生活のたつきに始めた法律事務所であつたが、此處へは福岡の武田範之、白水健吉、仙臺の千葉久之助、福島の本間九介、【當時安達九郞と稱す】千葉の葛生修亮【能久】等が起臥し、金澤の吉倉汪聖、對馬の大久保肇、谷垣嘉市、福岡の西村儀三郞等釜山在留の同志を始めとし、京城に在留せる福岡の柴田駒次郞、群馬の田中侍郞、金澤の關谷斧太郞、平戶の寺田鼎三郞等も出入し、互ひに大陸經營の雄志を談じ、風雲一たび動かば相携へて蹶起すべく待ち構へてゐたのである。 此等の志士が日夕愛吟するのは『曾謁鎌倉源右府墓、我欲征大明汝諾否、大丈夫當用武萬里外、何爲鬱鬱老小洲』といふ句で、朗々之を吟誦して軒昂の意氣天を衝くの槪を示すのが例であつた。 大崎正吉と吉倉汪聖千葉久之助 是れより先き吉倉汪聖は朝鮮內地旅行を試みて凍傷に罹り、兩足の拇指を切斷したが疵が容易に癒えず、東京に歸つて靜養中、明治二十五年の秋不自由な足を引摺りつゝ牛込橫寺町の大崎正吉の寓を訪ひ、朝鮮視察談を試みた後、大崎に渡韓を勸めたのが發端となり、兩人の間には共に朝鮮に渡つて大に志を伸ばさうといふ盟約が卽座に成立した。 斯くして大崎が早速渡韓の準備に着手してゐると、大崎と同じ仙臺出身の學生なる千葉久三郞がそれを知つて、自分の實兄久之助は陸軍の特務曹長で、最近軍職を離れ頻りに朝鮮行を希望してゐるから、どうか同行させてやつてくれといふ希望を通じて來た。 大崎がそれを快諾すると、千葉久之助も早速上京して來たが、事旣に決して礑と行詰つたのは三人分の旅費の調達といふ問題であつた。 凡そ有志家の行動にはいつも其の裏面に活動資金の缺乏といふ困難を伴ふのが例であるが、 旅費調達の苦心 當時三士が旅費調達の爲めに苦心した實情は眞に慘憺を極めたものであつた。 大崎がその時の事情に就き自ら手記を留めてゐるところに依ると、大崎は千葉の上京を待つてそれと入れ違ひに鄕里仙臺に歸り、若干の旅費を調達して來たけれど、それだけでは到底三人分の渡航費を賄ふに足りない。 仍つて吉倉、千葉其他二三の親友と相談した末、吉倉を京都まで先發させ、同人をして京都で旅費の工面をさせることとし、大崎と千葉は四五日後れて京都に赴いた。 然るに吉倉は京都で一錢の工面も付かず途方に暮れてゐる有樣であつたから、更に吉倉の心當りの方面へ二三箇所電報で依賴を發せしめたが、之に對して何處からも返信さへ來なかつた。 しかのみならず吉倉の鄕里金澤から突然父が尋ねて來て、『朝鮮渡航には不同意であるから斷然思ひ止つて金澤へ歸れ』と嚴命し、吉倉が如何に懇願しても斷乎として聞き入れず、只管歸鄕を促して止まなかつた。 吉倉も困り果てゝ大崎に向ひ、『何とか父を納得させて吳れ』と助けを求めるので大崎は吉倉の父に向ひ『實は今回の朝鮮行は東洋問題に重大の關係を有する任務に基くもので、御令息と吾等二人は同志の先發として出掛ける譯である。 今此處で御令息が渡航を中止されては吾々の先發の意義を失ふことになるのである。 さうなつては吾々同志に取り由々しき齟齬を來すから御引止めになる御氣持は重々拜察するが、此際枉げて御同意を願ひたい』と、まことそらごと取り雜ぜて言葉を盡し說伏に努めた。 吉倉の父はそれを聞いて暫らく默考してゐたが遂に『それでは悴の渡航を許しませう』と始めて同意の言葉を洩らした。 そこで、吉倉は父に向ひ旅費の支出を願ふたけれども、父は金澤に歸るだけの旅費しか持つてゐないといつて、後事を大崎に托して鄕里に歸つた。 大崎は吉倉の父に向ひそんなことをいつた關係上、吉倉を空しく內地に留らせる譯にも行かないから自分の囊中を傾けて其日直ちに吉倉を朝鮮に向はせ、自分と千葉とは京都に留つて旅費調達の工夫に耽り、更に大阪に行つて奔走を試みたけれども總て徒勞に歸したのである。 因つて大崎は再び仙臺に引返して先づ千葉の實兄を訪ひ、實狀を述べて千葉の爲めに渡航費の送金を乞ふた處、快く承諾を得たから之に勢ひを得て直ちに自己の旅費の調達に取りかゝり、鄕里に留ること二十餘日の後、漸く若干の金を懷にすることを得て愈々朝鮮に向つたのである。 大崎と武田範之本間九介との初対面 大崎は三人の中己れのみ最も遲れて釜山に到着したのであるが、上陸後辨天町の有馬といふ旅館に投宿し、晩餐の際、酒を命じて獨り盃を傾けてゐると、突然襖を開けて入り來つた二人の人物があつた。 これは後に天佑俠にあつて大崎と死生を共にした武田範之と本間九介で、その時は固より初對面の間柄であつたが、此のぶしつけなる侵入が彼等を深い交りに結び付ける發端となつたのである。 志士の遭逢亦た奇なりと謂はねばならぬ。 武田範之は久留米に生れ、越後顯聖寺の學僧となつてゐたのであるが、天資闊達、學問才幹共に秀で、頗る志士的風格に富んだ風雲兒であつた。 豫て志を朝鮮に抱き、朝鮮の志士李周會と交り、福岡の人結城虎五郞と謀つて漁船十餘隻を率ゐ、玄海灘の荒波を乘切つて李周會の謫地なる全羅道金鰲島に赴き、漁業を試みる傍ら貨物の交易を營んでゐたのであるが、事業が失敗してその頃釜山に流れ込んでゐたのである。 又た本間九介は福島縣二本松の人で、同縣人たる鈴木天眼等と交り、夙に大陸經營に志を寄せ數年來朝鮮に出入して風雲の機會を窺つてゐる志士であつた。 これも御多分に洩れぬ貧寒の處士で、その頃有馬旅館に投じて武田と共に座礁の憂目に遭ひ誰か同志の來り投ずるのを待つてゐたのであつて、先着の吉倉等から豫て大崎の噂を聞いてゐたから斯くは卒然と推參に及んだ譯である。 大崎は何よりも先づ吉倉と千葉との消息を聞きたいので、二人に之を尋ねると『吉倉は當地の豆新聞の記者になつてゐるから、多分下宿屋に居るだらうが、千葉は數日前に多太浦に行つた、恐らくあの邊を彷徨してゐるだらう』とのことであつた。 其夜は武田や本間も輕く言葉を交はす程度で自室に退き深く志を談ずるまでには到らなかつた。 翌日大崎は多太浦に赴いて千葉を探したが、行衛が判らぬので引返し、更にその翌日吉倉 の下宿を訪ねて行くと折善く千葉が其處へ歸つてゐて、三人は玆に始めて京都以來の情を敍することが出來たのであつた。 千葉は其の日から有馬旅館に大崎と同宿することになつた。 其の翌夜、武田、本間から大崎に來室を求めて來たので、大崎は直ぐ二人の室に行くと、武田も本間も意味ありげにニコニコしながら煙草を吹かすのみで何事か言ひ出さうとして言ひ出し兼ねてゐる樣子であつた。 大崎がその氣振を察して『僕に來室を望まれたのは如何なる用事か』と問ふと、武田は待ち兼ねてゐたやうに口を開いて『失禮だが酒一升の溫情に浴したい、貴君の來室を求めたのは實はその事をお願ひしたい爲めであつた』と卒直に本音を吐いて呵々と笑ふのであつた。 『それはやすい御用だ、早速命じよう』と大崎は酒と肴を取寄せ、千葉も一座に加はつて差しつ差されつ盃の數を重ねる裏に、話題は忽ち朝鮮問題から東洋問題に及び、何れも耳熱し氣昂りて宿昔の志を語るに餘念もなく、斯くして互ひに十年の知己の感を以て相待つに至つたのである。 陶然となつた本間はやがて話題を一轉し『嗚呼嗚呼、吾輩も長いこと窮境に陷てつゐて天の美祿を數十日も口にすることが出來なかつたが、今この美祿を得て遺憾なく涸腸を潤すことが出來た。 嗚呼愉快々々、これといふのも大崎氏の賜物だ、一生この恩は忘れない』といつたので、四人は聲を揃へて哄笑し、更に快談に夜の更けるを知らなかつた。 知事の投會と梁山泊の相談 一醉意氣投合した四人の交りはそれより頓に親密を加へ、其の翌日には早くも武田と本間とが釜山在留の同志西村儀三郞、大久保肇、谷垣嘉市、其他二三の有志を連れて來て大崎等に紹介した。 その席上で谷垣、大久保等は『現在釜山在留民が朝鮮人に貸付けてゐる金は總額百數十萬圓に及ぶが、その內領事館へ支拂請求の訴を持ち出してゐる金額が七十萬圓を超えてゐる。 それに就て領事館から朝鮮監理署へ交涉を試みても一向埒が明かず、解決し得たものはまだ一件もない有樣である。 領事館も非常に持て餘してゐるから、此際法律の知識ある日本人が起つて解決の任に當ることになれば領事館は喜んで之を默認するだらうし、居留民も爭ふて依賴に來るだらう。 どうだ諸君これに從事する氣はないか』といつた。 それを聞いて本間は『それは是非やらなければならぬ。 幸ひ大崎君は多年法律を專修してゐるんだから同君を主任として我々はその指揮に依つて働くことにしようぢやないか』と提議した。 一座の面々は直ぐそれに贊成した。 大崎もこの計畫には異議がなかつたので早速開業と決したが、事務所を設けようにも誰しも無一文のこととて一戶を借入れる力が無く、結局間借りをして看板を揭げようといふことになり、谷垣嘉市が貸間探しをすることとなつた。 山座圓次郎の厚意 當時釜山領事館には總領事室田義文の下に領事官補として山座圓次郞が在任してゐた。 武田範之が山座とは同じ福岡縣人たる誼みで懇意であつたので、武田からその旨を告げて山座の諒解を得た。 山座はその翌日有馬旅館に大崎を訪ひ、日鮮人貸借上の爭議解決手續等に就き大崎の意向を問ひ、且つその取扱ひ等に關し種々注意を與へて歸つた。 又當時の釜山警察署長內海重男も福岡縣人で、山座と同じく玄洋社にも關係があつたから、有志家に對しては充分の理解を持つてゐた。 殊に山座は尋常官吏と異り、好んで有志家に交り、室田總領事が大崎等の法律事務所の存在を好まなかつたのに反し山座は終始一貫有志の行動を後援し、後に天佑俠が失敗するに至つても其の取調べ官として飽く迄好意を寄せて渝らなかつたのである。 看板は大崎法律事務所 谷垣の斡旋により釜山龍頭山下の一商店の二階二室を借りて其處に大崎法律事務所の看板を揭げ、大崎、千葉、武田、本間の四人が早速引移つた。 然るに大看板を揭げて依賴者の來るのを待つてゐるに拘はらず、開業後十數日を經るも一人の依賴者すらなく、四人は最早珍談奇話も種切れになつて『嗚呼、四羅漢ここにおはすに一人の參拜者もなきか』などと喞ち暮らしてゐると、或日一人の依賴者がやつて來た。 一同は大喜びで之を迎へ大崎が出て應接する背後から『シツカリ賴むぞ。 折角掛つた好鳥を逃がすな』などと小聲で勵ます有樣であつた。 この事件は日鮮人間の貸借問題でなく、稅關に關する問題であつた。 客は釜山の吳服商で、浦潮から曬紗を買ひ來り釜山に陸揚せんとするに際し稅關官吏の手に押收されたが、その處置が不法であるから押收を解くやう交涉してくれといふ依賴であつた。 その物品は時價二百圓位のもので全然沒收される運命の下にあつたが、大崎等に取つては事務所創設以來初めての事件で、事務所の前途をトすべき極めて大切な問題であつたから、當然事件の內容性質等を充分吟味する必要があつた。 しかし當時の境遇上成否如何を考へる餘裕もなく、大崎は卽座に『大丈夫目的を遂げることが出來る』と斷言して之を引受けたのである。 翌日大崎は談判の爲め稅關に赴いたところ、稅關長は不在で、次長が出て應接した。 その說明を聞いてみると日本商人の行爲が明かに不法であつて沒收の取消を求めることは無理であつた。 大崎も是には當惑したが今更引くに引かれぬ立場にあるので、さうした氣振は少しも示さず勢銳く次長の言を駁し、一時間ばかりも論爭を續けた末、結局領事法廷で爭ふ旨を告げて憤然と引取つた。 その頃の釜山稅關は稅關長も次長も共に英國人で、その下に日本人及び支那人の通譯がゐたが、大崎は支那人の通譯で論爭したのであつた。 事件の初解決と祝盃 大崎が事務所に歸つて來て三四時間經つた頃、山座領事官補から呼びに來たので出掛けると、山座は『稅關との論爭は少し强硬過ぎたやうだね。 先刻稅關長が來て、自分が稅關長となつて以來未だ曾て今日のやうな强硬な談判を受けたことはない。 こんな些細な問題で貴重な時間を多く費すのは自分の本意でないといつて不平を訴へたから、自分もその意を諒とし、時價一割の關稅を納めることにして解決してくれないかといつたら承諾して歸つて行つた。 明日早速その手續きをして落着にしたらよからう。 そして依賴者から充分謝禮を取つて同志と一杯傾けつつ前途を祝するのも愉快であらう』といつて哄然と大笑した。 大崎も山座の取計らひを感謝し乍ら辭去し、其の翌日稅關次長と懇談の上、山座のいつた通り關稅二十圓を納めて物品を受取り見事に事件を解決し、祝盃を擧げて同志と共に幸先を祝つたのである。 其後引續き三四件の日鮮人貸借事件を解決したので、漸く日本人間にも評判となり依賴者が頓に增し、貸間では手狹を感ずるやうになつた結果、釜山西町に一戶を借りて其處へ引越した。 しかしそれまでは一枚の夜具さへなく、男ばかりの殺風景な生活をしてゐたのであつたから、引越しの費用は勿論、茶碗や鍋等に至るまで事件依賴者中の篤志家が寄附して、玆に始めて堂々たる大崎法律事務所の出現を見るに至つたのである。 そして日鮮人繫爭事件中の最難件と目せられた金海府使閔某と居留民坂口九平との事件を解決するに及び、最初好意を持たなかつた室田總領事すら非常に之を喜ぶに至つた。 この坂口事件の交涉の最中に山座の紹介で葛生修亮が菅佐原勘七と共に谷垣に伴はれ大崎事務所に來り投じた。 葛生は兄玄晫が岡本柳之助や金玉均と極めて密接な交りを結び常に東亞問題に熱中してゐた關係から自然朝鮮問題に志を抱くやうになり、一時大阪事件の謀首であつた大井憲太郞の門下に在つたが、遂に志を大井に打明けてその贊成を得た。 しかし彼は旅費を先輩に仰ぐを屑しとせず、唯だその頃防穀令問題で名を轟かした駐韓公使大石正巳への紹介狀を大井から得て、その年四月中旬都の花を後に飄然と東京を立ち、途中東海、畿內、山陽、九州を徒步で押通して福岡に立寄り、玄洋社に留ること月餘の後、更に佐賀、態本、島原、長崎等を歷遊し、佐賀縣呼子港より海を渡つて壹岐、對馬に遊び、秋風身に沁む十月初旬帆船に乘つて對馬の鹿見港から漸く釜山に着いたのである。 同行の菅佐原は同じ大井門下の書生で、葛生が對馬に坐礁中其の後を追ふて來て共に釜山に渡つたのであつた。 當時葛生は釜山に上陸するや直ちに京城に入る豫定であつたが、懷中旣に無一文となつてゐたので途中の困難を慮り、菅佐原を釜山に殘して單身京城入りを決行すべく龍頭山に登つて思案に耽つてゐた。 其時不圖頭に浮んだのは福岡に滯在中玄洋社で交りを結んだ山崎羔三郞が『釜山に行つたら山座圓次郞といふ人物が領事館に居るから是非訪問し給へ』といつて勸めた言葉であつた。 葛生修亮の渡韓と山座の親切 葛生は山崎の言葉を思ひ浮べると共に早速龍頭山を降りて領事館に赴き、山座に面會を求めた。 山座は恰も舊知の如き態度で快く面會し、葛生の語る所を聞いた後『京城に行くのもそんなに急ぐ必要はあるまい。 又朝鮮問題に志を伸ばさうとするには釜山を知つて置く必要もある。 殊に釜山には將來の爲め知合ひになつて置いてよい有志家も來て居るから、暫らく當地で遊んでから京城に行くことにしても遲くはない。 兎に角今夜は僕の官舍に泊ることにし給へ』といつて親切に引止め、小使を呼んで葛生と菅佐原とを官舍に案內させた。 やがて山座も歸宅して共に晩餐をしてゐる處へ、谷垣嘉市と西村儀三郞が訪問して來たので山座は葛生等を二人に紹介し、二人が歸る時『明日君等は大崎氏の法律事務所へ葛生君等を案內してくれ』といつて依賴した。 歷山の來投と有志の旅行振 翌日谷垣が官舍に來て葛生と菅佐原とを大崎法律事務所へ同伴して行つたが、葛生が話してみると、大崎は大井門下の鄕古醇と友人であり、武田は玄洋社員等と密接の關係があり、そして白水健吉は山崎羔三郞の實弟であることが判つたので、初對面とはいへ淺からぬ因緣があつて一見舊知の如くであつた。 大崎等は、『菅佐原君は勿論だが、君も暫らく當地に滯在して法律事務所を助けつゝ共に風雲の機會を待つことにしてはどうか。 京城にも同志があるから行かうと思へば何時でも行ける。 急ぐこともあるまい』といつて引止めるのであつた。 葛生は旣に釜山まで來た以上必らずしも京城に急がねばならぬ必要もなし、且つ折角訪ねて行かうと思つた大石公使も旣に歸朝した後だつたので、暫らく其處に足を留めることにした。 十一月になつて本間九介と千葉久之助は京城に赴いたが、兩士去つて間もなく京城から寺田鼎三郞、岡本某其他二三の靑年が來り投じたので梁山泊は相變らず賑やかであつた。 この寺田は平戶の大澤龍の弟で、平常太い鐵杖を携へて步行し、京城から陸路釜山に來る途中でも鳥嶺で盜賊に襲はれたが、その鐵杖で追拂つたとて元氣當るべからざる勢を示してゐた。 丈の高い、額の出張つた偉容の男で、眞つ黑に日燒けした顔には唯だ眼と齒とだけが白く光つてゐた。 彼がその怪奇な顔に靨を浮べて物を云ふ風情には一種特別の愛嬌があつた。 誰かゞ戲れに『君はアレキサンドリアの黑奴ではないか』といつたのが基となつて、それ以來皆が『歷山々々』と呼んだが、本人も平氣で受け答へするのが又一層の滑稽であつた。 當時、釜山、京城間の交通は、仁川への船便もないではなかつたが、凡そ四五日目に一回位の出帆であつた上に、船賃も廉でなかつたから、志士の仲間は槪ね陸路に依つて往復した。 陸行に依ると途中に鳥嶺の嶮もあり、片道百二十里の長途を膝栗毛に鞭ち-轎や馬もあるにはあるが彼等にはさうしたものを利用する餘裕はなかつた-旅費に要する韓錢壹貫五百文(文錢一千五百枚)を腰や肩にして十日乃至十二三日の旅を續けるのであつた。 しかしそれは好い方で中には途中で賣藥を行商し旅費を造りつつ進む者も少なくなかつた。 吉倉汪聖の人嗿振 梁山泊の空氣は和ごやかに融和して潛龍眠虎のこの上もなき安息所たる一方、法律事務所の方も日に月に繁昌を呈した。 その裏に明治二十六年は暮れて二十七年の春を迎へ、南鮮の寒氣も漸く和らぐ頃になると、豫て京城に入つてゐた千葉本間兩士も再び釜山の梁山泊に歸り、それと同時に關谷斧太郞も京城から釜山に移つて假寓を定めた。 次で間もなく田中侍郞も京城から來て、釜山に於ける同士の往來は漸く頻繁を加へ、警察側でも之に對し注意を拂ふやうになつた。 かうした中で一寸同志を緊張させた一つの愛嬌ある衝突事件が同志の間に起つた。 それは朝鮮問題が何となく活氣を呈し來つたのに乘じ、吉倉汪聖が新聞紙上に往年の大阪事件を攻擊した文章を揭げ、大井憲太郞は思慮分別なき猪勇の人物であると評したので、これを讀んだ葛生は大井とは師弟の情誼を有する關係上非常に憤慨し、吉倉が梁山泊に來るのを待ち受け、別室に呼んでピストルを擬しつつその罵評を詰責したのである。 吉倉は葛生の强硬な談判に遭ふて非常に狼狽し、百方陳辯に努めたけれど葛生は却々許さず、結局葛生の要求通りの謝罪の方法を取ることを約して漸くその場を脫れ、顔色を蒼白にして二階に上り大崎等に葛生の亂暴を訴へた。 其時大崎は吉倉の言葉を遮つて『それは葛生の亂暴ではない、亂暴の原因は君が作つのだ、だから君は宜しく葛生に陳謝すべきだ』といふと、吉倉は『葛生は口頭での陳謝では許さぬといふのだ。 よつて葛生の要求通り新聞に謝罪文を揭載する約束をしたのだけれど、その謝罪文も葛生が意の儘に書かねば承知せぬといつてゐる。 止むを得ずその要求にも從ふことにしたが、恐らく葛生は獨りでそんな文章は書けないだらうから君も武田君も決して代作や添削を引受けてくれるな』と只管懇請して歸つて行つた。 葛生の態度が眞劍であるので、吉倉も到底約束の實行は免れぬものと覺悟を定めてゐたが、葛生がどんな謝罪文の原稿を突き付けるか判らぬので怖れをなした末、やがて再び事務所に來り大崎等を介して『新聞社を辭することを條件とするから謝罪文揭載の要求は撤回して貰ひたい』と申出た。 葛生がそれを承諾すると、約束の期日に到り吉倉はその從事する新聞の廣告欄に二號活字を以て『第一世草莽論客本社を辭し第二世草莽論客改めて執筆する』といふ旨の社告を載せ、其紙面を携へて梁山泊に來て葛生に示し、『是れなら君も異議はあるまい』と灑々として微笑した。 吉倉はこんな橫着なところがあつて、時々それが爲めに損をすることもあつたが、葛生も其時は流石にその橫着さに呆れ返つて追究する氣にもならず、却つて其の橫着さに惚れ込んで、爾來友情一段と深きを加へたといふことである。 金玉均の梟首奪取計画 こんな愛嬌ある閑葛籐に其の日を送つてゐる裏に靑天の霹靂ともいふべき一事件が突如と起つた。 それは朝鮮の國王が支那の李鴻章と謀り、刺客洪鐘宇をして獨立黨の志士金玉均を上海に誘殺した事件である。 東京では岡本柳之助がこの問題の爲めに支那に急行し、議會では對外硬の一派が問罪の建議をするなど、問題は頗る重大視されて、國論頓に沸騰するに至つた。 殊に四月中旬金玉均の寸斷せられたる屍體が楊花鎭に梟されるに至るや、在韓有志の憤慨は正に極度に達した。 葛生は梟首されてゐる金玉均の首を奪ひ取らんと決心し、大崎の手によりて旅費の調達に努めてゐたが、その中に屍體は遂に取拂はれたとの報に接し、深く無念の唇を嚙んだのである。 その頃柴田駒次郞が京城から來て山座の紹介で梁山泊の同人となり、濟濟たる多士齊しく劍を按じて風雲を望みつゝ雄飛の機會を窺ふに餘念もなかつた。 斯かる際に當り、葛生は徵兵檢査の爲め歸朝を餘儀なくされ、本間九介も亦一旦東京に向つて出發した。

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