一五 東學黨蜂起 明治二十七年五月頃に至り、朝鮮內地不穩の報は頻々として四方から傳はつた。 曰く『全羅道に東學黨蜂起し、その勢猖獗にして首府全州は旣に黨徒の手に歸し、京城の官兵討伐に向ひしも悉く擊破せられた』と。 曰く『慶尙道大邱も亦危し』と。 曰く『黨徒は釜山に程近き東萊府に迫つた』と。 流言蜚語日一日より甚だしく人心は恟恟として安んぜざる有樣であつた。 釜山の梁山伯にあつた靑年志士の面々が、これらの警報を耳にする每に劇しき衝動を受け、慨然として雄心壯志を躍らせたのはいふまでもない。 始祖崔濟愚 抑も東學黨といふのは、李朝二十五代哲宗の末年、慶尙道慶州の道學者崔濟愚號を水雲と稱する者が儒道と佛道と仙道とを打つて一丸とせる道學を發表し、之を東學と稱して世に宣布したのに始まる。 崔濟愚は之を弘めるに當つて『我は道を天に享けたり』と稱し、特殊の呪文を唱へ、『我が敎を信ずる者は災禍を免れ福壽を得る』と說いたので之を信奉する者が多く、水雲先生の雷名は一時に明星の如く輝き始めたのであるが、朝廷では斯の如き宗敎類似の宣敎者たる物騷千萬の人物を生かしておいては國家に害があるといふので、迷世惑民の名の下に捕縛して大邱で斬罪に處したのである。 時に崔濟愚は四十二歲であつたが、刑に臨み一詩を賦し『龍潭水流四海源、龜岳春回一時花』といふ句を留めて、我れ一人を殺したとて水の流れて大海を成すが如く、水雲の志は後學の傳統によりて大を成し、百花爛熳の時期が來るであらうといふ意を諷したのである。 この崔濟愚には崔時亨といふ敎弟があつて、是れ亦た有爲の人物であつたから、東學の敎徒は之を推して第二世の道主と仰ぎ、時亨自身も亦有司の壓迫を意とせず、銳意東學天道の敎義を宣傳するに努めた。 閔族の跋扈専横と民人の痛苦 その裏に哲宗が薨じて李太王が王位に卽いたのであるが、外戚跋扈して權臣黨を結び、李朝の政道は益々亂れて行くばかりであつた。 これが所謂閔族一派專橫の時代で、宮廷にあつては閔妃が李太王の寵を恃みて政治に干涉し、牝雞晨を報じて綱紀全く紊れ、閔氏の一族は政府の要位を占めて正義の士を斥け、賣官、收賄、誅求の惡弊は底止する所を知らず、宮中は侫人、巫覡、倡優、雜輩の徒が跳梁して百鬼の巢窟たる觀を呈した。 殊に中央より地方の末に至るまで大小の官吏が收賄誅求を事とし、庶民賄賂の如何によりて罪の有無が決せられ、世に冤罪に泣く者も鮮からず、苛斂誅求の爲めに民力疲弊して百姓塗炭に苦しむの慘狀に至つては殆ど見るに忍びざるものがあつた。 一方には宮中の王族權官を始め貪官汚吏が驕奢に耽り、長夜の宴を張つて歡樂を恣にしてゐる事實と對照し來り、惡政に泣く諸民が怨嗟の情を募らせて行くのも亦自然の成行きであつた。 第二世崔時享 遂に百姓一揆が各地に起り、郡守を殺し郡衙を毁ち、天下忽ち騷然たる狀勢を呈するに至つた時、忠淸道の山郡を根據に天下の惡政を革め貪官汚吏を排擊することを標幟として奮然義旗を擧げたのが東學第二世の道主崔時亨である。 地方不平の民は饗きの物に應ずるが如く競ひ起つて之に加はり、官衙を襲ひ有司を殺戮し、兵器を奪ひ倉廩を占領し、やがて雞林八道を風靡すべき勢を示すに至つた。 全琫準の蹶起 最初官兵は尙州に於て此の東學黨軍を破り稍々鎭定の目的を達せんとしたが、全羅道泰仁郡の鄕士全琫準といふ豪傑が起つて黨軍を督するに及び再び勢を加へ、東學黨は一擧全羅道の古阜を襲ひ、郡守を殺して郡衙を燒き、郡衙に蓄積されてゐた金穀は擧げて塗炭の苦に泣く郡民に分ち與へた。 玆に於て義軍の名勢は大に振ひ、人民は簞食壺漿して之を迎へ、戈を執つて來り投ずるものは忽ち數萬人に達し、東學黨軍が揭げた濟世安民の旗風は天下を吹き靡かすべき勢を呈するに至つた。 當時東學黨の黨員が唱へた黨詩は、 東學黨詩 金樽美酒千人血。 玉盤佳肴萬姓膏。 燭淚落時民淚落。 歌聲高處怨聲高。 といふ悲愴極まる句から成り、時の虐政を呪ひ盡して復た餘蘊なき底のものであつたが、多年塗炭の苦に惱める民衆がこの黨詩を高誦し、且又東學の神祕な呪文を唱へつゝ進むところ、今まで暴政を恣まにした貪官汚吏は色を失つて奔竄し、御營、訓練の官兵も武器を投じて黨軍に降る有樣であつた。 西村儀三郞の切齒扼腕 釜山の梁山伯の志士は各種の情報を手にして愈々時機の到來せるを喜び合つたが、何分にも流言蜚語のみ多くして眞實の形勢を明確に知り難く、此點については頗る焦燥を感じつゝあつたのである。 その頃西村儀三郞が梁山伯を訪ひ、切齒扼腕して一同の蹶起を促がし『今日此時、吾輩と共に起つて事を擧ぐる者はないか、此有爲の秋に當り碌々として時局を坐視するが如きは男子の屑しとせざる所である』などゝといつて逸り立つたが、西村は其頃輕率で獨り豪がりの人物として同人間に擯斥されて居たので、誰も相手にせなかつたため稍々拍子拔けの態であつた。 関谷斧太郎の帰朝 然るに關谷斧太郞が此の西村と結んで歸朝の準備をしてゐるといふ噂が聞えたので、同人等は關谷のために之を憂ひ、千葉や吉倉は交々忠告を試みたのであるが、關谷は忠告を斥けて歸朝の準備を整へ、出發に際して大崎を訪ひ別れを告げた。 大崎は酒食を命じて饗應しつゝ『一時の別れが永遠の別れとなるかも知れぬ。 永遠の別離も悲むには當らないが、今君が西村と一緖に歸朝するのは吾輩等の甚だ寒心に堪へぬところである。 よく考へて思ひ止つてはどうか』と勸告した。 すると關谷は怫然と色を變へて『自分は西村輩を賴みとして事をなさうとするのではない。 彼はまだ志士の列に入れる人物でないことは吾輦も知つてゐるが、これから彼を敎育して志士の列に入らせてやるつもりである』といつた。 大崎は『その意氣と志とは感服するが、後悔は先きに立たずといふ語がある。 今一應再考してはどうだ』と重ねて忠告した。 この言葉を聞くと關谷は勃然と怒つて起ち上るや否や床の上にあつた一刀を引拔き大崎に斬つて蒐らうとした。 大崎は泰然として驚かず、膳の上の盃を取り擧げ『今、君に斬られては好物の酒を飮むことも出來なくなる。 暫らく僕が飮み終るのを待て』といひつゝ自ら盃に酒を注いで數杯を傾けた。 關谷も大崎の此の態度を見て『あゝ大丈夫は斯くなければならぬ。 僕がどうして君を斬るものか』と刀を鞘に納めてカラカラと笑ひ、更に酒を酌み交はした後、別れを告げて歸朝の途に上つたのであつた。 同志の懸念も空しからず、果して關谷は其後福岡で西村及び末永節等と共に警察に檢束され、渡韓の計畫挫折に歸して雄志を伸べる機會を逸し去つたのである。 東学黨偵察の協議 當時梁山伯の同志間には、吾等が平素俗務を看板として詩酒の間に放浪してゐたのは今日の如き時機を待つ爲めである。 宜しく東學黨の形勢を偵察して之が對策を講じなければならぬといふ議が持ち揚がり、大崎の發議で二名の偵察者を出すことになつた。 然るにその人選に就き白水健吉が自ら進んでその任に當らうと申出でたのに對し、武田は『白水はその任でない、自分と柴田とが出掛けて行くのがよい』と主張し、白水が『何故自分がその任でないといふか』と武田に詰寄るや、武田が輕侮した言葉を以て之に酬いたので白水は怒氣心頭より發し、將に鐵拳沙汰に及ばんとする程の場面を呈するに至つた。 大崎は互ひに自說を執つて讓らぬ兩人を制し『兩君が互に讓らずして爭つたのでは機會を失する虞れがあるから自分と柴田とがその任に當らう』といひ出した。 その時千葉久之助が『この大事の場合に大崎君が當地にゐなくては萬事不都合を來す憂ひがあるから、今回は白水君が武田君に讓つて、柴田、武田の兩君が偵察に赴き、白水君は留つて大崎君を助けることにしてはどうか』と白水を宥めたので、白水も漸くその言葉に從ひ、武田、柴田の兩人は其日直ちに旅裝を整へて金海、密陽及び大邱方面を指して出發したのである。 田中侍郎の帰釜と艶福談 武田、柴田が偵察に出掛けてまだ日も經たぬ裏に、歸朝中であつた田中侍郞が梁山伯へ歸つて來た。 田中は長崎で東學黨蜂起の事を聞き、直に釜山に歸らうとしたが旅費が不足するので財布をはたいて漸く對馬まで乘船し、巖原で金策を試みたけれど一錢も出來ず、轉じて鹿見に行つたが心當てにして行つた人が居なかつた爲めに全く進退兩難に陷り、二三日宿屋に滯在して思案にくれ居る際、釜山に向ふ漁船があると聞いてそれに便乘を賴み漸く釜山に辿り着いたのであつた。 梁山伯では快男兒田中が巨眼を輝やかし肥軀を搖がせて歸り來り、一流の快談を縱まにするので大に活氣を呈し來つた。 田中は酒を呷りつゝ『色男は何處に居つても艶福を伴ふものだ。 諸君羨むことを休め耳を洗つて聞け。 僕が鹿見に滯在してゐると窓の外を通る別嬪があるぢやないか。 僕を見て大分御意があるらしく見えるので、こちらも亦た落花流水の情なきを得ずさ。 互ひに視線を交はすと其處は忽ち以心傳心で、件の美人が嬌羞を含みつゝ僕の部屋に這入つて來た。 正に英雄の心緖亂れて糸の如しといふ譯だ。 しかし英雄佳人の歡會も朝の露の束の間で惜しや漁船の爲めに引き別けられてしまふことゝなつた。 しかし實をいふと若し漁船に便乘することが出來なかつたら、僕は宿屋に坐礁して救ふべからざる窮地に陷つたは勿論、或は遂に白骨となつて恐らく生きて諸君と會ふことが出來なかつたかも知れない。 今思ひ出すも慄然たらざるを得ない。 實は諸君驚いてはいけない。 この美人こそ鹿見で有名な色情狂だつたんだよ。 アツハヽヽヽ』と飛んだ色懺悔をして同人を吹き出させたりした。 田中の歸來によつて一層活氣付いた梁山泊では、武田柴田が情報を齎らして歸るのも數日中にあるから、愈々計畫の實行に着手せねばならぬとて、軍資金の調達や同志の糾合の方法を攻究したが、到底釜山ではその目的を達し難いので、同志の代表者が一應歸朝して先輩に謀る外はないといふことに決定した。 しかもその代表者が歸朝するだけの旅費すら調達する見込が立たず、一同悵然たるばかりであつた。 本間九介の帰來と百圓束 然るにこんな評議を開いた翌朝の事、法律事務所の窓外から『オイ、諸豪傑居るか』と叫ぶ者があつた。 誰れかと思つて二階から覗くと本間九介が髯だらけの顔に笑みを含んで立つてゐた。 『ヤア、本間が歸つて來た、本間が歸つて來た』といふ歡聲に迎へられて二階に上つて來た。 本間は意氣軒昂たる樣でドツカと坐るや、早速携へて來た鞄を開き、中から百圓束を取出して大崎の前に投げ出し『些少だが九介の土産だ。 刻下の急務にお役に立てば仕合せだ』といつて氣持よくそれを同志に提供したのである。 大崎を始め一同は思ひ設けぬ資金を得て非常に喜び『よい土産を持つて來てくれた。 これがあれば早速活動に取掛ることが出來る。 本間君有難く思ふぞ』と感激してそれを收めた。 蓋し此金は秋山定輔の調達になつたものである。 そこで早速田中侍郞のところへも急報して、一同集合の上種々協議を重ね、取敢へず至急に大崎を東京に派遣することゝなつた。 大崎正吉の帰国 大崎は武田、柴田が偵察の結果を齎らして歸るのを待つて出發するのが當然の順序であつたが、翌日夕刻に出帆する淀川丸に乘船しないと又二三日船便がないことゝなるので、武田等の歸るを待つ遑もなく遂に淀川丸に搭じて歸朝するに決した。 時は恰も六月下旬で暑氣俄かに加はつて來たから、大崎は急いで一枚の單衣を新調し、それを着て船に乘込んだのであつた。 大崎が乘船して解纜を待つてゐると、その後を追ふて息せき切つて船へ馳せ付けたのが武田範之であつた。 武田は大崎の出發の後へ歸來し、大崎が東京に向ふと聞き、直ぐその足で偵察の結果を報告する爲めに驅け付けたのである。 武田範之の偵察報告 『密陽から大邱方面を偵察した所によると、この方面にはまだ事を擧げた者はない。 しかし流說紛々として何時如何なる事變が勃發するか測るべからざる情勢にあるから、一彈を投ずる者があれば轟然と爆發するは火を睹るより明かである。 君の使命が萬一東京で運ばれないやうな結果になつても、長く滯在せずに至急歸つて來てくれ』。 武田はかういつて、切に大崎が早く歸つて來ることを望んだ。 その裏に出帆の時刻が迫つたので『後は歸つてから打合せよう』といふことで手を別つた。 その時大崎は柴田が來ないのを氣懸りに思ひ『柴田は歸つたか』と尋ねたところ、武田は愁然たる顔付をして『柴田は密陽の宿屋で病氣で臥てゐる。 自分は一緖に歸らうと思つたけれども、柴田は時機を失するから先きに歸つてくれといつて肯かないので、心中洵に忍びなかつたが彼を一人殘して來た。 明朝人を遣つて迎へて來るつもりだ。 重病ではないから餘り心配しないでくれ』と言ひ捨てゝ船を去つた。 正直者前原一誠 頭山翁談 前原一誠は正直者で、大久保一派に反對して賊名を取つたことは可憫そうなものぢや。 あれは明治九年の十月ぢや。 その折り伯父さんかへ送つた手紙といふのは、言々人を動かすもので、自分は今でも暗誦してゐる。 それはかうぢや。 忠謀破れて賊となり、恨を呑んで九泉に歸る。 實に畢生の遺憾なり。 豐田の死生未だ知らず、憐むべもなり。 僕等兄弟三人、實に心忠にして形賊なり。 唯、千歲の公論を待つ。 且つ僕等尙ほ未だ死せず、千辛萬苦、野に伏し山に伏し、北海の波に漂ふて後圖を謀らんと欲す。 事遂げずして死せば天命なり。 老兄幸に我等が心中を御賢奈給はるべきなり。 頓首一誠。 江南步雪有憶無形(板倉伯の雅號)兄 後藤象二郞 昨夜天風吹雪頻。 草萊無色地爲銀。 誰知海畔寒梅樹。 還倚民家獨報春。 後藤伯を弔ふ 勝海舟 いさをある臣とたゞへしますらをを誘ふも憂しや桐の一葉と 獄中作 大江卓 用兵元慕穵倫東。 建業又期那破翁。 何物從來作身累。 膽如斗大氣如虹。