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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
東亞先覺志士記傳 동아선각지사기전
일러두기

一六 天佑俠の活躍(一) 淀川丸で歸朝の途に就いた大崎正吉は、船が馬關に着くと碇泊の時間を利用して上陸し、福岡なる關谷斧太郞に『事急なり速に釜山に歸れ』といふ電報を發し置き、更に同船で大阪に着き、同地から汽車で東京に入つた。 大崎鈴木天眼を訪ふ 大崎は新橋から直に俥を驅つて當時神田新石町にあつた二六新聞社に鈴木天眼を訪ねた。 時にまだ朝の事とて重なる社員は出勤してゐなかつたから、暫らく應接室で待つ裏に舊友の中田辰三郞が出社し、三階の一室に大崎を案內して對談してゐた。 其處へ鈴木天眼や福田和五郞等が出社して入つて來た。 やがて中田や福田が編輯室へ出て行つて鈴木が獨り殘つたのを機とし、大崎は初めて具さに自己の使命を述べ、鈴木の應援を求めた。 鈴木は『嗚呼、快なる哉快なる哉、天眼確に引受けた。 必す足下の使命を全ふさせるから安心し給へ。 僕は一寸原稿を書いて來るから其間に暫らく此處で休んでゐ給へ』といつて興奮の情を現はしつゝ出て行かうとした。 大崎は『僕はこれから東海散士【柴四朗】を訪ねて應援を求めようと思ふが、どうだらうか』と一應鈴木の意見を求めた。 すると『それはいけない。 君が八方に奔走するのは徒らに世間の注意を喚起するばかりで害があつて益がない。 當分此の樓上に居つて疲れを休ませた方が好い。 萬事は僕が代つて奔走する。 そして必要があつたら君に來て貰ふことにする。 まア安心して僕が消息を齎らすのを待つて居給へ』といつて、鈴木は萬事を引受ける意氣込を示した。 それ以來、鈴木はその言葉の通り大崎を二六社の樓上に休息させて置いて自分は大車輪の活動を始めたのである。 天眼の快諾 或日、鈴木から大崎へ『芝烏森の濱の家に頭山滿氏を來訪あれ。 予は先行して待つ』といふ通知があつた。 大崎は直に俥を驅つて濱の家へ行くと、鈴木が出て來て耳に口を寄せ『此處へは密偵が集つて來てゐるから大事を相談することが出來ぬ。 築地の東洋館に的野半介がゐるから彼の部屋へ行つて待つてゐてくれ。 僕も數刻の後には其處へ出掛けて行く』といつた。 で大崎は轉じて東洋館に行くと、的野半介が居つていろいろ話してゐる裏に鈴木もやつて來て三人鼎座の上種々の打合せをして大崎は又二六社樓上へ歸つた。 この會合で軍資金及び人員等の事も略ぼ目標が立ち、又鈴木自身も同行して渡韓することに決したのである。 鈴木は前から肺病に罹つてゐて時に咯血することもあつたが、生來氣象の强い男であるだけに少しもそれを意に介する風なく、斯く病軀を挺して渡鮮する決心をしたのである。 的野半介の盡力と頭山滿平岡浩太郞等 之より前、的野半介が金玉均暗殺事件を憤慨して川上參謀次長を訪ひ、次長から附け火云云の諷辭を受けて畫策しつつあつたことは別項に述べた通りである。 さうした處へ大崎正吉が同樣の目的を携へて歸朝し、鈴木天眼が之に贊して頭山滿等に相談した結果、おのづから的野、大崎の間に脈絡相通ずることとなつたのであつて、的野と鈴木との潛行的活動により着々と準備が進められ、遂に右の東洋館の大崎、的野、鈴木の會合により大綱が決せられるに至つた次第である。 そして的野の裏面には頭山滿、平岡浩太郞等のあつたことは復た改めて述べるまでもないことである。 大崎が二六社樓上に潛んで畫策に耽つてゐる頃、二六の社長秋山定輔は恰も朝鮮に出掛けてゐて大崎とは遂に會見するに至らなかつたが、鈴木天眼の在るあつて大崎は完全に官憲の注意の目から遁れ、豫定の目的を遂げることを得たのである。 その頃葛生能久は曩に徵兵檢査の爲め釜山から歸朝する途中、船中で熱病に罹り非常な重態に陷り、以來兄玄晫の京橋丸屋町の事務所で加療中であつた。 大崎は葛生の兄に面會して其の病狀を聞き、この大事の場合に際しそゞろに葛生のことを思はざるを得なつかたが、憖ひ大事を知らせて病中の彼を煩悶せしめるに忍びず、一書を遺し當分の間來訪を當人に祕する事として立去つたのである。 葛生は病氣の怠るに及び始めて大崎の來訪を聞き、書面の示す所によつて二六社に中田辰三郞を訪ねたが、その時には旣に天佑俠一行が朝鮮の內地深く入り消息不明を傳へられた後であつて、彼は千載一遇の好機を逸したことを足ずりして憾んだのである。 日下寅吉の來投 或日、鈴木と大崎とが二六社の樓上で閑談に耽つてゐた際、鈴木は自己の參加に就て『沈重の人筆を投じて起つ、是によつても今回の大事成功を見るは明かである。 請ふ君意を安んじて可なり』といつたさうで、その自ら任ずる意氣を想ふべきである。 その頃大崎は仙臺の日下寅吉に電報を發し、『渡韓の決心にて至急上京せよ』といつてやると、日下は『直ちに上京する』といふ返電を寄せ、その翌日には早くも出京して二六社に大崎を訪ねて來た。 よつて大崎が鈴木に日下を紹介すると、鈴木は『一電の下に事の正非を問はず直に來つて大義に參じたのは實に志士の模範である。 之に依つてトするも吾等の計畫は成功疑ふべからず。 同人の前途は亦た多幸といはねばならぬ』とて激賞措かなかつた。 洲崎大八幡樓の送別会や大崎鈴木等の出発 東京に於ける大體の準備成れる頃、頭山滿の主催で洲崎大八幡樓に志士送別の盛宴が張られた。 集る者は一往不還の征途に上らんとする志士を中心に頭山、平岡等の巨頭を合せ全部で十數名であつたが、何れも心中勃勃たる雄圖を抱きながら、表面は單なる遊蕩兒の如く裝ひ、放歌時高吟、夜を徹して底拔け騷ぎをなしたのである。 斯くて的野半介は福岡玄洋社の諸同志に謀るため他に先ちて福岡に歸り、それより兩三日後れて大崎、鈴木、日下の三士は多數の知己の見送りを受けつゝ新橋驛を發した。 時澤右一の來投 鈴木等が大阪に下車して旅館に投じてゐると、荒尾精の紹介狀を携へて鈴木を訪問した一壯漢があつた。 これは休職陸軍中尉時澤右一で、荒尾の添書には、多年朝鮮に志を抱く者であるから是非今回の一行に加へられたしと認めてあつた。 荒尾が信じて推薦する程の人物ならば一行に加へてもよからうといふので參加を諾することゝなり、時澤は玆で新に同志の仲間入りをなし、大阪からは二手に分れて鈴木天眼は、海路門司に至り、大崎、日下、時澤は汽車で先づ廣島に至り、廣島師團の出兵準備の樣子などを探つた上、門司で再び落合ふことに決した。 廣島では軍人出身の時澤が知己の將校を訪ねて出兵準備の樣子を聽取り、たやすく要領を得て宇品から船で門司に向つた。 広島の情報と船中の祝宴 船に乘込んでみると偶然にも鈴木天眼が船中を徘徊してゐるのを發見し、四士對坐して廣島で得た情報を語つた。 天眼は時澤の話を聞いて『萬事天佑なり、韓山虎嘯くも數日の裏にあり、愉快々々』と連呼して船中で小宴を催しつゝ航海を續けに。 日下は元來滑稽の才に富んだ男で、醉ふにつれて奇言珍語を連發し、一行を笑はせてゐたが、やがて朗朗と吟じ出したのは次の一詩であつた。 紫山不紫愛朱唇 斗南不斗指北辰 天眼䑃朧觀不見 依稀三十六峯春 これは天眼が活世界に筆を執つてゐた時代、佃斗南【信夫】、北村紫山【川崎三郞】と轡を竝べて屢々北里に遠征し、朝の歸りには必ず根岸お行の松の附近にあつた湯豆腐屋笹の雪に立寄るのが例であつたので、それを知つてゐるさる惡戲者(國分靑崖だと傳へられてゐる)が三士の好んで陣取る室の壁面に題しておいて不意討を喰はせた詩であつた。 天眼が意外の處で意外の詩を聞いて驚くのを見澄ました日下は『吉原の情話は聞きたくもないが、三十六峯のお春さんは其後誰れが手に落ちたか聞きたいものだ』と切り出した。 天眼は聲を立てゝ笑ひながら『この野郞、何處からこんな詩を習つて來たか、これは吾々の祕密に關する詩だ、他人の祕事を發くとは何事だ。 この不德漢奴が』と怒鳴つたが、日下は隙さず『何の、內心ではこんな祕事を發く不德漢が續々現はれるのを望んでるんぢやないか』と遣り返したので、ドツとばかりに爆笑が起つた。 こんな他愛もない冗談に耽つてゐる裏に船は進航して翌朝には早くも門司に着いた。 大原義剛內田良平の來投 上陸して石田旅館に入ると旣に的野が來て待つてゐた。 的野は『此處から乘船すれば官憲の妨害に遭ふ虞れがあるから、一應福岡に行き、玄洋社の同志と共に對馬に渡り、其處から釜山に渡ることにすれば比較的安全だらう』と說いた。 鈴木と時澤はその說に從ふことゝなり、的野に伴はれて福岡に向ひ、大崎と日下とはこの日夕刻出帆の淀川丸で釜山に直行することと定めた。 然るに鈴木、時澤は數時間の後再び石田旅館に歸り來り、それと前後して大原義剛や內田良平も亦同旅館に到着した。 鈴木等は一旦福岡に赴いたけれども其筋の警戒が嚴重な爲め、却つて危險を感じたから、門司から乘船する方が安全と考へて引返して來たといふことであつた。 又內田と大原とは的野等の通知により一行に加はるべく福岡玄洋社から來たのであつた。 関谷西村等の帰朝と奔走 內田は玄洋社の社長であつた平岡浩太郞の甥で、十五六歲頃から平岡の宅に在つて、その薰陶を受け、且つ平岡の門に出入する幾多の志士とも交つて夙に天稟の骨力を發揮し、十九歲の時には豫て平岡が淸韓に派遣してゐた金澤盈進社の志士關谷斧太郞の招きに應じ朝鮮に渡つて經略の志を伸べようと企てた程の海外經綸の志に燃えた靑年である。 その時は母の切なる諫めによつて遂に思ひ止つたが、其の後平岡に伴はれて上京するに及び、同志中、支那朝鮮を硏究する者は多きも露國に對しては殆ど硏究を試みる者がないのを遺憾とし、自ら進んで露國硏究に當らなければならぬと決心し、東邦語學校に入つて露語を學ぶ傍ら、講道館に入門して柔道を修めた。 しかも朝鮮問題は彼の決して閑却してゐる譯ではなかつたから二十六年に東學黨が起つたと聞くや、京城に在る同志と連絡を取り、再び渡鮮を企てたが、その時も母の反對によつて中止するの餘儀なきに至つたのである。 二十七年三月に徵兵檢査の爲め福岡に歸つてゐると、又もや朝鮮に於ける東學黨の蜂起が傳へられ、風雲頗る急なるものがあつたので、之を援けて大に爲すあらんと欲し、長崎に赴いて末永節に相談した。 末永も贊成して共に蹶起しようとしたが、故あつて果すに至らず、髀肉の嘆を抱いて福岡に歸り、更に雄飛の機を窺つてゐる處へ關谷斧太郞が西村儀三郞と共に朝鮮から歸來し『東學黨援助の爲め武器彈藥を求めに歸つた』旨を告げた。 內田は內地で輕々しく武器彈藥を求める運動をなすことの危險なるを說いて、それよりも速に渡韓しようではないかと勸めたが、關谷は肯かないで西村と共に福岡久留米の間を奔走し、頻りに武器を手に入れようとしてゐた。 當時內田は長崎に居る末永に關谷等の行動を報じて早く福岡に歸れと勸め、飽くまでも末永と行動を共にするつもりであつた。 在京的野半介より通報 然るに偶々在京の的野半介から、東京に於て大崎、鈴木等と提携して事を擧げんとする計畫が熟して來てゐる事實を報じ、且つ之には頭山、平岡の兩先輩も贊成し、玄洋社からは內田と大原義剛の兩士を先發せしめ、釜山の諸同志と力を協せて東學黨と連絡を取り、その狀況を審かにした上で更に應援隊を發する手筈であるから、そのつもりで居れといつて來た。 この報に接して內田は踴躍一番、早速大原と會合して謀議を凝らし、その結果朝鮮で活躍するにはどうしてもダイナマイトの必要があるといふので、赤池炭礦からそれを手に入れる計畫を立てた。 內田はやがて赤池に赴くことになり、出發に際してその頃長崎から福岡に歸つて居た末永節に久留米へ急行して關谷に逢ひ、明日までに關谷と同行して門司に來るやう依囑して置いて出發した。 內田はダイナマイトが手に入つたら直に門司に急行して、末永や關谷をも同伴して渡韓する豫定だつたのである。 関谷西村等の失敗 然るに關谷は內田の忠告を肯かないで頻りに爆彈の入手に奔走して居たが、內田が朝鮮への出立に間に合はず、其後二三日にして西村と共に爆彈製造の嫌疑者として逮捕され、引續き末永も亦た渡邊五郞、島田經一等數名と共に拘引されるに至つたのである。 内田のダイナマイト携行計画失敗 內田は赤池に着いて礦長の兒島哲太郞に逢ひ、事情を告げてダイナマイト若干の供給を求めると、兒島は快諾して倉庫係小川某にその荷造りを命じ、內田と共に當時同地に居住してゐた內田の父兄の宅に向つた。 その時は夜が旣に更けてゐたが、途中で同炭礦の請願巡査交番所の前を通過すると、交番には燈火が未だ明るく點されてゐて、何となく平常とは異なるものがあつた。 兒島は之を見て『交番所の巡査は每夜十時頃には寢るのが例であるが、今夜は旣に十一時を過ぎてゐるのに斯く燈火を明るく點してゐるのは可怪しい。 一寸樣子を窺つて來る』といつて、小高い所にある交番所の方へ足音を忍ばせつゝ登つて行つた。 やがて降りて來て『どうも形勢が良くないぜ。 見知らぬ巡査が二人も居て、請願巡査と何事か話してゐた。 恐らく福岡から君に尾行して來たものと思はれる。 ダイナマイトの携帶は危險だから荷造りを中止させよう。 俺はこゝで引返すよ』といつて其の儘步を廻らして歸つて行つた。 內田は計畫の失敗に歸したのを思ふて悵然と大息しつゝ父の家に歸つてみると、大原義剛も旣に來着して吉左右を待つて居り、叔父の平岡德次郞も來て、內田の兩親竝に兄の庚等と對座しつゝ何となく不安の色を漂はせてゐた。 内田兄弟の替玉 內田が座に着くと兄の庚は低い聲で『先刻巡査が來て大原君とお前に面會を求めた。 お前は留守だといつて大原君だけ面會したところ、明日直方警察署に出頭せよと申渡して歸つた。 お前も屹度召喚されるだらう』といつた。 內田は愈々官憲の監視が嚴を加へ來つたことを知つて對策を考へてゐると、其處へ又巡査が來た。 庚が出て應對すると巡査は『貴下は內田コウ氏ですか』と尋ねた。 當時內田の兄は庚(後に忠光)、內田は甲(良平は其後の名)といふ名前であつたので、庚は、庚と甲とは音が同じであるから試みに然りと答へるに如かずと思ひ、咄嗟の氣轉で『さうです』と答へた。 すると巡査は『然らば明日本官と直方警察署に出頭せられたい。 本官は明朝再び來て同行する』と告げて立ち去つた。 庚は巡査を送り出してから內田に向ひ『巡査はお前の顔を知らないから庚と甲とを混同して歸つて行つた。 俺は明日巡査の要求通り直方警察署へ同行するから、お前は一列車後れて門司に向ふが好い。 偶然にも二人が混同されてお前が官憲の監視の眼を脫することが出來るのは誠に幸先がよい。 今夜は別杯を擧げて前途を祝することにしよう』とて、それより夜の更けるまで酒を酌み交はしつゝ談話に耽り、庚は翌朝警官と共に直方に向つた。 內田は其後で叔父德次郞から贈られた長船則光の仕込杖を携へて父母に別れを告げた。 途中直方驛で乘換の爲め下車した處、兄の姿を認めたので心中稍や不安を感ぜざるを得なかつたが、其時一人の少女が紙片を持つて來て內田に渡した。 怪みつゝそれを見ると兄の筆蹟で『客車を同じくする勿れ』と書いてあつた。 注意して見ると庚の後へは角袖の警宮が附添つてゐるのであつた。 內田は心中警官の迂闊さを笑ひつゝ別の客車の中へ入つて無事に門司に到着し、目指す石田旅館に入つたのである。 前に大原や內田が鈴木、時澤と前後して門司の旅館に到着したと述べたのは卽ちこの時のことである。 內田よりも先着してゐた大原義剛は、警官の要求により赤池炭礦の內田の宅を出てから、直方警察署に出頭したのであるが、福陵新報(後の九州日報)の特派員證と旅行券とを所持してゐた爲め、警察側でも如何ともすることが出來ず、直に放還されて門司に向つた次第であつた。 内田危機を免かる 一同が石田旅館に勢揃ひして、これから馬關に渡り愈々船に乘り込まうとして準備をしてゐるところへ、末永節から一船遲れるといふ電報が屆いた。 一方門司警察まで連行された內田庚は、其處の署長が玄洋社の出身で平岡浩太郞の友人なる大倉周之助であつたから、總べて庚の言葉を信じて深く追窮しなかつた爲め、弟甲は上京した體に云ひ做して無事に警察署を出で、石田旅館に立寄つて愛弟に『もう懸念することはないから、安心して出發せよ』と勵まして歸つた。 一行はそれより馬關に渡つて乘船切符を求め、首尾よく釜山行の汽船に乘り込んだのである。 當時渡航券を所持せぬ者は乘船切符を求めることが出來ぬのであつたが、大崎は豫めその點を顧慮して、釜山から同志の渡航券を數枚持ち歸つてゐたから、一行はそれによつて首尾よく乘船切符を手に入れることが出來たのである。 一行無事馬關を出発す 密謀を抱いての船出であるから、見送る者とてはないけれども、息詰るばかりの警戒を加へつゝ無事に船室に入つた一行の喜びは非常なものであつた。 船が愈々錨を拔いて馬關の埠頭を離れ、刻一刻と速力を增しつゝ進むにつれて一行の意氣は正に天を衝くばかり、やがて船が玄海灘に出た頃には、日も全く暮れて月は皎々と中天に懸り、風も無く波も揚らず、まことに靜穩なる良夜であつた。 船上の感懷 大事を抱く身には天もその前途を祝福せるものゝ如く感ぜられ、茫々たる蒼海に對して思はず快哉を叫んだのである。 大崎は舷頭に立つて無量の感慨に耽りつゝ一詩を賦して之を朗々と高吟した。 雄心落々憶遠征 區々何論敗與成 舷頭橫槊對明月 蒼波茫々萬里情 一行の志士また之に和して各々吟聲を縱にし、日下寅吉は遂に劍を拔いて起つて舞ふに至り、一行の盛んなる元氣は大に他の船客を驚かした。 一行釜山到着と活動方針の協議 翌朝船は釜山に入港した。 一行は刀劍及び藥物類を船員に賴んで竊かに陸揚げすることにして置いて上陸すると、其處へは武田、千葉、白水を始め、密陽から歸つて靜養中の柴田も病軀を起して共に迎へに出てゐた。 鈴木、時澤、內田、大原は一先づ旅館に投じ大崎と日下とは梁山泊なる法律事務所に入つた。 大崎の歸朝してゐる間に本間九介は仁川に赴き、吉倉汪聖が別に志す所があるから單獨行動を取るとて井上藤三郞といふ少年と共に何處へか旅行したといふ外は、同志の士が何れも釜山で鶴首して待つてゐたのである。 吉倉が勝手に單獨行動に出たことに對しては、同志の者が甚しく憤慨し、今後吉倉に逢つたら、先づ彼を首途の血祭にせねばならぬと激語する者すらあつた。 しかし大崎及び吉倉と舊知である日下寅吉とは、吉倉の爲人を說いて憤激せる同志を慰撫するに努めてゐた。 諸同志の顔合せ 同志の顔合せが終ると直ちに一同協議を凝らし、早速全羅方面に向つて出發し東學黨の軍に投ずることに決定した。 その席上、田中は、『昌原に金鑛を經營してゐる牧健三の許へは先頃ダイナマイトが到着したが、其後まだ、時日も經たないから、必ず消費し盡してはゐないであらう、之を奪ひ取つて我が徒の用に供する必要がある』と提議した。 武田は『昌原を襲ふてそれを奪はねばならぬが、それより前に釜山領事館の倉庫に所藏してゐる小銃彈藥を奪ひ取らうではないか』と主張し、一同は武田の說に贊して先づ領事館の倉庫を襲ふことゝなつた。 領事館銃器奪取計畫と武田の失敗 この冒險に從ふことゝなつたのが大崎と武田との兩人である。 武田は豫て室田總領事が猛犬を飼つてゐるのを知つてゐたから、晝の間に握飯を懷に入れ、大崎と共に領事館に赴き、領事館の飼犬を繫いである所に近づき握飯を與へて犬を馴らさうとしたのであるが、武田が近づくと猛然と牙を鳴らして嚙み付がうとしたので、吃驚仰天、早速飛び退いて纔に逃れることが出來たのである。 武田は『何たる愚犬ぞ、嗚呼共に事を爲すに足らず』と嗟嘆し、大崎は『武田和尙一休和尙に及ばざること遠し』と揶揄した。 其夜、大崎と武田とが領事館の倉庫に忍び寄つて錠前を捻ぢ開けんとした時、件の猛犬が頻りに吠え付いて二人を威嚇し、次いで人の來る氣配がした。 恰もその倉庫の裏合せに十數間を隔てたところが警察署であつたから、發覺しては一大事と二人は一目散に龍頭山に逃げ出したのである。 昌原金鉱襲撃の協議 大崎と武田とが失敗して引揚げ來るや、一同再び協議を開き、領事館の倉庫破りは斷念することゝし、第二段たる田中の主張に係る昌原金鑛の襲擊を實行するに決すると共に、次の如き手順により一行は目的地に向ふことになつた。 一、內田、千葉、白水、大原、日下、大久保の六人は人目を避けるため陸路富民洞より 洛東江になる多太浦に出でて他の來るを待ち合はせること。 一、鈴木、田中、時澤の三人は南濱より和船に乘り迂㢠して多太浦に出で、內田等六名 と會し、これらの同志を船に收容して馬山浦に至ること。 一、大崎、武田の二人は一兩日殘留し、殘務を處理し、且つ軍費、軍用品を出來るだけ 多く調へ、後より馬を驅つて馬山浦に至り一行に會すること。 陸行隊の進發と大久保肇の母 豫て打合せてあつた所に基き、翌日未明、內田、大原の二人は勇氣凜々として法律事務所に來り一行の出發を促した。 千葉、日下、白水の三人は旣に旅裝を調へて待ち設けてゐたが、まだ大久保の姿が見えなかつた。 白水が驅けて行つて出發を促したが、大久保は宿醉の爲めに容易に起きないといふことであつた。 更に大崎が大久保の家に驅せ付け、蒲團を捲くつて呼び覺ましたが、それでも大久保は眼を覺さず、夢心地で何かつぶやくばかりであつた。 其處へ大久保の母が來て聲を勵まし『肇ツ! 肇ツ! お前の有樣は何事ぢや。 お前はそんな意氣地なしで何處迄この母を泣かせるのぢや。 コレ肇! 幾度呼んでも眼が覺めぬとは情ない。 今度一緖に連れて行つて頂くのはこの上もない名譽と思つて母も喜んでゐたのに、そんなことでは斷然思ひ止るがよい。 お前のやうな意氣地なしが一緖に行つたら却つて大事の邪魔になる』と搔き口說きつゝ搖り起すと、その言葉が始めて夢心地の大久保に通じたか、忽ち俄破と跳ね起きて、枕頭にあつた一刀を取るより早く段階子を驅け降り、草鞋を穿くもそこそこに『大崎君宜しく賴む』と一言殘して驅け出した。 男勝りの母は始めて安堵したやうに凜々しい顔を擧げてその後を見送るのであつた。 海路隊の進発 大崎は更に鈴木、田中等の宿に行つてみると、旣に舟の用意が整ひ南濱に出掛けた後であつた。 よつて舟の出る場所まで驅け付けると大崎の姿を認めた一行は陸路の一行は出發したか』と尋ねた後『さらば』と別れの言葉を殘し、櫓聲靜かに波を切つて進んだ。 正に是れ風蕭々として易水寒しの感、日東勇俠兒の出立は潔くも勇ましいものであつた。 大崎武田の出発と柴田駒次郞の煩悶 大崎は暫らく船の行く手を目送した後、事務所に歸つて殘務の整理に從つてゐると、豫て一行の企圖を打明けられてゐた藤山某といふ商人が、獵銃二挺と金子若干とを持ち來つて渡した。 この殘務整理中に、支那人から數百金を騙取した岩田某が自ら窮地に陷つて大崎法律事務所へ救濟を求め來つたのに對し、大崎と武田とが相談してこの岩田から軍資金を出させたといふやうな物語もあるが、それらのことは玆に詳しく說く必要もあるまい。 其の時福岡の的野半介から電報爲替で軍資金を送つて來たので旅費も漸く整ひ、大崎と武田とは馬匹三頭を準備し、通譯として新に西脅榮助を加へ、先發隊に遲るゝこと三日の後、深夜に乘じて用意の品々を馬背に着け、四隣の寢靜まつてゐる釜山を後に肅々と出發したが、その出發の準備成つて將に家を出でんとする時、測らずも一場の悲壯なる劇的場面が展開された。 それは豫て病床にある爲め切に押止めて居た柴田駒次郞が强て同行せんとしたことで、その時柴田は憔悴せる病軀に旅裝を調へて一刀を携へ、二階から降りて來て無言の儘步き出さうとしたのである。 大崎と武田とはこの樣子を見て怪みながら『柴田君、何處へ行くのだ』と訊いた。 すると柴田は『貴兄等に隨行するのだ。 先輩友人が再び相見ることも出來ぬ征途に上るのに、僕だけ一人後に留ることは出來ん。 吾々が今日まで苦心し來つたのは今日あるを待たんが爲めであつた。 この大事な秋に當り假令病氣に罹つてゐるとはいへ、空しく藥餌に親むに忍びない。 萬一途中病の爲めに殪れ、烏鳶の餌食となるとも決して憾む所はない。 どうが僕の衷情を察して、是非とも同行を許して貰ひたい』と凜然たる決死の意氣を以て同行を迫るのであつた。 さういつて置いて彼は病み衰へたからだに氣力を込めながら、先きに立つて步き出さうとした。 其處へ見送りに來合せてゐた大崎の元の通譯西村幾次夫妻と通譯西脅榮助等は驚いて遮り止めやうとしたが、柴田はそれを振り放して進まうと努めるのである。 大崎と武田とは此の健氣なる同志の心情を思ふて名狀し難い悲愴の感に打たれ、暫らくは言葉も發し得なかつたが、强て聲を勵まして『君は何といふ事理を辨へぬ男だ。 その病氣で吾々と行動を共にしようといふのは無茶ではないか。 今玆で無理なことをいつてくれては困る』と叱るが如く制した後、更に聲を和げて『君の氣持は吾等にもよく解る。 心情は千萬察するけれども、病氣のからだでは如何とも仕方がないではないか。 今吾々と一緖に出發しても數里も行かぬ裏に君は倒れて動けなくなるだらう。 道に倒れて烏鳶の餌食となることが何で君國の爲めにならう。 それは君自身でも承知の筈だ。 殊に昨日も懇談したやうに、病氣さへよくなれば海路仁川に出で、吾々の一行と行動を共にすることが出來るのである。 吾々も君一人を殘して行くことは何とも遺憾に堪へぬのであるが、非常の場合これも仕方がない。 どうか一途に思ひ詰めないで吾々のいふことを肯いてくれ。 そして早く快くなつて後から來てくれ。 吾々は唯だその日を待つてゐる』と、二人は淚を呑みつゝ言葉を盡して病友を慰撫するに努め、遂には『吾々の言葉を聞き入れてくれねば以後同志の士とは見做さないぞ』とまで激しい言葉で說服に努めたのであつた。 柴田は突立つたまゝ默然と二人の言葉を聞いてゐたが、終ひには頭を垂れて淚を幾たびも拭ひつゝ漸く得心の行つた樣子を示した。 『柴田君、吾々のいふことを肯き容れてくれたか、解つてくれたら吾々も安心して出發することが出來る』。 柴田は默つて點頭いたが、夜目にもしるき淚の玉は露の如く地上に滴り落ちた。『それでは行くよ、暫らくの別れぢや』。 武田と大崎とは通譯の西脅と共におのおの馬の手綱を曳きつゝ颯爽たる態度で步き出した。 馬蹄の音は寂寞たる夜の道をだんだんと遠ざかつて行つた。 彼等は徒步で北濱から草梁に向つたのであつて、馬を用意しながら故らそれに乘らなかつたのは、當時北濱町に日本兵が上陸してゐて警戒が嚴重であつたから、その誰何を避ける爲めであつた。 數奇薄倖の志士柴田は其後間もなく病氣が重つて遂に不歸の客となつた。 死に至るまで『殘念々々』と云ひ續けてゐたさうで、壯志を抱いて空しく病の爲めに倒れたこの靑年志士の最期の狀を聞いて泣かぬ者はなかつた。 一行吉倉等と馬山に邂逅 陸を進んだ一行と、船で行つた一行とは、豫定の通り多太浦で落合ひ、其處から船に同乘して翌朝未明に馬山浦に着いた。 一同打連れて上陸すると、埠頭で一人の日本少年が釣竿を弄んでゐるのを發見した。 是れは前に吉倉汪聖が釜山から連れて出發した井上藤三郞といふ少年であつたから、井上を知つてゐる大久保や千葉は步み寄つて吉倉の所在を尋ねた。 すると吉倉は此の地の宿屋に滯在してゐるとの答へであつた。 吉倉に對しては前にもいつたやうに、同志中非常な反感を持つてゐる者もあつたが、日下は釜山出發に際して吉倉の事に關し大崎と打合せてゐる所があつたから、他に先んじて吉倉の宿を訪ひ、同志間の意向などを說明して眞意を質したところ、吉倉はその厚意を謝し、今後の行動は總て日下の意見に從ふべき旨を答へた。 斯る處へ他の同志も到着し共に朝食を認めた後、同志の者が吉倉に向ひ、今後我々と行動を共にするかどうかと質すと、吉倉は莞爾として『僕は諸君が必ず此處に來るだらうと豫期して久しく待つてゐたのだ。 諸君と行動を共にするのは旣定の事實ではないか』と述べたので、此の一語に一同の意は頓に和らぎ、これより同志として行動を共にすることになつた。 斯くて同日夕刻を期し、昌原金鑛に至り、鑛主牧健三にダイナマイトの提供を求め、若し肯かなければ强奪の途に出づることに決し、之に處する手配をも定め、大崎、武田の到着を待つたが、其日に到着することは必し難いので、徐々に出發の準備をして、馬三頭に荷物を負はせ昌原金鑛を目指して出發した。 斯くして一行が金山に達したのは、暮靄旣に四山を包みて荒亭の燈火明滅する頃であつた。 金山は昌原府を距る一里ばかりの山中なる金場と呼ぶ所にあつた。 所有者は長崎縣人牧健三で、朝鮮政府の特許を得て之を經營すること旣に十餘年に及び、その頃恰も事業擴張を企てゝ多量の鑛山用ダイナマイトを日本から購入貯藏してゐることが釜山の志士の間に知れてゐたのである。 昌原金鉱に於けるダイナマイト強奪 十一人の同志が鑛山事務所に至つて面會を求めたのは鮮なからず牧父子を恐怖させたが、斯く多數の士に押掛けられては遁れる道もないので、牧父子は恐る恐る居室に招じて面會した。 談判の衝に當つたのは鈴木、田中、吉倉、內田の四人で、他の者は門外の一室で談判の結果を待つてゐた。 しかし四人の者が代る代る熱心にダイナマイトの提供を請ふたけれども、牧父子は頑强にその要求を拒絶して應ぜず、其內に夕飯の準備が出來たので、四人は再考を求めて一旦その室を退き、食事を濟ましてから協議の上、一行は隱し持つてゐた武器を取出して武裝を調へ、再び牧の居室に入つて返答を促した。 一行のこの樣子を見て牧父子は愈々驚いた風であつたが、唯だ悄然として打沈むばかりで、何としても要求に從はず、談判の餘地は全く盡き果てゝしまつた。 この時、時澤が發射した拳銃は轟然として金山の寂寞を破り、一種凄愴の氣を四邊に漂はせた。 これは談判の決裂を同志に知らせる合圖であつたと同時に、一面多數の朝鮮人坑夫を威嚇して、反抗乃至逸走を防ぐ爲めの手段であつた。 合圖の銃聲を聞くや、待つてゐた同志は坑夫等を一人も動かさぬやうに監視するに努め、談判委員たる內田は牧父子を捕へてグルグルと縛つてしまつた。 その時日下は雷神模樣を染め拔いた單衣の裾を捲くり上げて疊の上に大刀を突立て、繪にある强盜宜しくの體で、眼を怒らしつゝ立つてゐた。 牧の番頭奧田某は多少柔道の心得があつたので、立ち上つて反抗したが、內田が得意の柔道を以て二三間彼方へ投げ飛ばし、更にそれを引き起して倉庫へ案內せよと迫つた。 倉庫へ入つて見ると其處には少量のダイナマイトしか無かつたが更に山腹に穿つてある穴藏の中を搜がして漸く多量のダイナマイトを發見した。 斯る間に同志の者は炬火と握飯の用意をしてゐたから、一行は奪ひ取つたダイナマイトや導火線等を二頭の馱馬に載せ、牧父子の縛を解いて禮を述べ、奧田其他にも一揖して炬火の明りに暗夜の山路を照らしつゝ悠々として立ち去つたのである。 蜂須賀小六の昔 此夜は月の光りもなく眞の闇夜であつた上に、道は岩嶮急坂で、一行の行進は名狀すべからざる困難を極めた。 そゞろに蜂須賀小六の昔を偲ぶべき現在のお互同志の立場を顧みて、志士苦心の多きを今更に感じつゝ石に躓き險しき路に足踏み辷らせ、幾たびか顚倒せんとするを物ともせず彼等は只管に道を急いだ。 蓋し鑛山からの訴へによつて釜山から追手の來るのは豫想し得べきことであるから、それを避ける爲めには、どうしても夜を徹して行進を續ける必要があつたのである。 然るに深更に及んで炬火の數を調べてみると、僅か一二本を餘すのみとなつてゐた。 炬火が盡きては行進益々困難に陷るので一同の不安はいふべからざるものがあつたが、田中侍郞が智計を按じて、朝鮮大官の夜行の慣例に倣ひ、沿道の村落から驛次ぎを以て炬火を携へた嚮導者を徵發する方法を取るに決し、べーブロー、べーブローと連呼して、嚮導者を徵發しつゝ都合よく行進を續けたのである。 斯くして拂曉には漸く咸安城內に達し、一旅亭に投じて各自二三時間の睡眠を取り、之で元氣を恢復し朝食をして腹を滿した上、午前八時頃から再び行進を起した。 此日は朝から微雨瀟々と降り濺ぎ、暑さも頓みに減じた爲め、誰しも脚の輕きを覺え勇氣は倍々加はるのであつた。 途中で一つの急坂を登り頂上に達して眼下を俯瞰すると、附近には人家も見えず、前夜手に入れた火藥の效力を試みるには至極適當の場所であつたから、內田が爆發裝置をして投げ下すと、轟然たる爆音が谷底より起り、連山の間に反響して、その效力の强烈なることが證明された。 しかしこの爆發の有樣を見て鮮人馬夫が怖れ慄き急に辭して歸るといひ出したには大に困つたが、一同が交々それを慰撫して漸く隨行させることゝなつたのは時に取つての愛嬌であつた。 晋州城の活劇 其夜は招月鄕と稱する鄕村に宿り、翌日又行進を續けて晉州に達した。 その間鮮人が倭奴來と叫んで一行に惡罵を加へ、勇士の面々が之を懲らさんとした如きことは兩三回もあつたが、每時も勇士の氣勢に怖れて逃げ去るので、格別の波瀾を生ずるにも至らなかつた。 尙ほ晉州市街に入る前、加藤鬼將軍が征韓の役に攻略したといふ晉州の古城趾に登つて四方を俯瞰し、遠く思ひを昔に馳せるなど、一行は綽々たる餘裕を存しつゝ行進したのである。 晉州に一泊して翌朝將に出發せんとする時、戶外に人馬の騷がしく行進する聲を聞いたので、出て見ると晉州兵使が兵を率ゐて郊外に出て行くところであつた。 兵數は約五百許り、皆火繩銃を擔ひ絨帽を戴き、長烟管を腰にし巾着を前に弔るし、宛然たる鳥羽繪の如き一種異樣の風體をなし、兵使は五十五六歲と思はるゝ半白肥大の好男子であつたが、威儀堂々と高い轎の上に安坐し、兵士に之を擔がせて進む樣は是れ亦た我が國の祭禮の山車の本尊そつくりであつた。 我が志士の一行は此の狀景を眺めて失笑を禁じ得なかつたが、偶々隊中の一兵士が一行を見て『倭奴彼處に在り』といつて友兵と共に指笑したので、田中侍郞は憤然と進み出で、隊列の中からその兵士を捕へて引戾し、鐵拳を固めて亂打を加へた。 然るに同列五百の兵士中一人も之を救はんとする者なく、轎上の兵使も晏然として知らざるものゝ如く行き過ぎてしまつた。 田中は豫て晉州は人氣惡しく、日本人に喧嘩を吹き掛けて苦しめたやうなことが屢々あつたのを知つてゐるから、かうした機會に日本人の威力を示し、後人の爲めに充分懲らしておかうと思つて斯の如き蠻勇を揮つたのであつた。 爆弾の威力 一行は市中で馬を募り、輜重を整へて出發しようとしてゐると、一人の官人が來て何事か訊問を試みようとしたが、吉倉が一喝してそれを追ひ返した。 すると續いて官衙から使者が來て、兵使が自ら來訪する旨を告げて去つた。 兵使が來るといふのなら待たねばなるまいといふので出發を延ばしてゐると、暫らく經て絹の彩服を着た官人が數名の從者を連れてやつて來た。 吉倉は豫て用意の衣冠を取出して之を着用し、威儀を正してその官人を引見したが、名刺を見ると兵使ではなくて實は一箇の裨將に過ぎなかつた。 吉倉が怒つてその違約を責めたところ、それには答へないで却つて一行の旅行の目的や內地旅行券携帶の有無等を問ふた。 吉倉は『旅券は勿論携帶してゐるが、卑官の者には示すことが出來ない。 且つ兵使が約に背いたのは如何なる理由に依るか、それを聞いた上で公文の事に及ばう』と詰つた。 すると裨將は言に窮して茫然としてゐるのみであつたから、吉倉は『吾等は兵使に談じたい事があるから兵使の營に案內して貰ひたい』と要求した。 裨將は暫らく沈思した後案內を諾したので、一行は旅裝を整へこの男を先立てゝ衙門に赴いた。 然るによく見ると其處は兵使の營ではなくて意外にも捕盜衙門であつた。 一行の勇士は欺かれたと知るや、憤然としてその裨將を詰責しようとしたが、その時には旣に逃げ去つて何處にゐるか判らなかつた。 全く狐に誑かされた態で一同茫然たる外はなかつたが、止むを得ず石階を登つて正殿に進み案內を乞ふてみたけれど、兵使は勿論雜兵一人すら出て來なかつた。 斯くて稍々無氣味に感じてゐる時しもあれ、轟然として一發の砲聲が頭上に轟き渡つた。 驚いて振り返ると壘上に据え附けてある大砲の邊に濛々たる硝煙が立ち騰つてゐた。 これは鮮官等が一行を驚かして逃げ去らせるために大砲を放つたものと察せられたが、一行は少しも騷がず馱馬に載せてゐた爆藥を取出し、土手の上にあつた柳の大木二本を擇び、その根元へそれを裝置して導火線に點火し、五六間後退して爆發を待つた。 すると附近に集つてゐた城民等は一行が大砲の音に怖れて逃げ出すものと誤解し、聲を揚げて嘲笑しつゝ『ソシ逃がすな』と迫つて來た。 恰も其の瞬間に萬雷一時に落ちるが如き大音響と共に白煙は砂塵を飛散せしめて濛々と天に沖した。 この恐怖すべき光景に吃驚仰天した城民等は、顚倒匍匐、右往左往、あらん限りの狼狽の狀を極めて逃げ去つたのである。 爆破の跡は深く地面を刳り、二本の柳は碎けて濠の中に飛散し慘憺たる光景を呈した。 壘上から發砲してゐた兵士等も之を見て恐怖の餘り逃亡し、附近には全く一人の人影も見えなくなつた。 一行は相顧みて笑ひ交はしつゝ再び宿舍に歸り、旅裝を改めた上悠々と西の方全羅を指して出發した。 時に明治二十七年七月三日であつた。 其夜は丹城邑を距ること半里許りの丹村といふ小部落に一泊し、翌朝出發せんとする際、數十名の暴民が集合して通行を妨害せんとしたが、一行は構はず之を突破して進んだ。 しかも其日は斯の如きことが數回も繰返された。 之は晉州の兵使が前日の報復を企て不逞の徒を使嗾して暴行を加へんとするのであることが明かであつた。 引連れてゐた朝鮮馬夫が之に恐れて頻りに暇を乞ひ、四人の中の二人まで遂に別れ去つてしまつた。 かうしたことが行進の妨げとなつたことはいふまでもないが、一行を最も焦燥に陷れたのは旅費が旣に盡きてしまつたのに、後から來る筈の武田大崎が到着せぬことであつた。 暑い道を步き疲れて山淸郡邑を距る一里許りの地點に達した時、一行は堤の上の槐樹の蔭で休みながら暫らく協議に耽つたが、誰しも別に妙案はなかつた。 年壯氣銳の內田はその時昂然として『事玆に及んでは斬取り强盜より外に途はない。 しかも害を民人に加へずして多年暴戾を恣にせる貪惡の官吏に對して之を行ふのであるから、名分に於て何等義を損することはない』と發議した。 すると鈴木天眼がこの說に贊し、衆議は忽ち一決して內田と大原とがその任に當ることゝなつた。 山清郡衙の晝强盜 山淸に到着したのは午前十一時頃であつた。 暫らく休息して內田と大原とはこの非常な任務に從ふべく郡衙に向つたが、先きに何處かへ出掛けてゐた吉倉が向ふから歸つて來るのに出會つた。 吉倉は二人に『今は馱目だ馱目だ』といつた。 『貴樣は何處へ行つてゐたんだ』と二人が尋ねると『郡主は今罪人を審問中だから折が惡い』といふ答へである。 內田は笑つて『强盜を働くのに先方の都合を問ふ必要はあるまい』といひつゝ吉倉をも促して郡衙へ急いだ。 勇士の照れ加滅 衙門に到着すると、多數の警吏が門を固めてゐて入門を許さない。 內田と大原とは制止の言葉を耳にも掛けず無理に押入らうとすると、警吏が引捉へようと犇き寄つて來たが、內田は得意の柔道で警吏を鞠の如く一二人續け樣に投げ飛ばし、脫兎の勢ひで門內に突進した。 續いて大原、吉倉が突入し、門の內外は忽ち一大混亂に陷つた。 この騷ぎの爲め裁判を受けてゐた罪人は混亂に乘じ何れへか逃亡してしまつた。 內田は廳內の樣子を見て、郡守は必ず正面の簾の內に居るものと認め、一刀を引拔いて簾を揭げると、其處には郡守が落付き拂つて長煙管で煙草を吹かしてゐた。 そして內田を見るや、悠然と筆を執つて『諸君何の用件あつて來る、遠來の勞を多謝す』と書いて示した。 吉倉は多少朝鮮語が話せるので、『吾等は貴國の獨立を援助する爲めに渡韓したものである。 然るに今旅費が缺乏せる爲め之を借用せんがため來訪したのである』といふと『それはいと易き御用である』と卽座に承諾し『卽刻貴宿に持參させるであらう』と答へて部下に命令を下した。 郡守の悠々たる態度に接して、內田は差し付けてゐた刀が全く手持無沙汰となり、ピストルを擬してゐた大原も亦た拍子拔けがして啞然たる有樣であつた。 吉倉は氣轉を利かして『斯の如き武器貴國に在りや、篤と御一覽を請ふ』といつた處、郡守は泰然自若たる態度で『いや非常に見事の珍品と拜見する。 どうかお納め下さい』といつてそれに酬いたので、二人も漸く武器を引込める機會を得たのであつた。 斯くて三士は厚く禮を述べて宿に歸ると、要求の金は旣に郡守の使が持參してゐた。 其夜は山淸に一泊し、翌日は雲峰まで進み縣官の厚意によりて官衙に宿泊した上、更に全羅の大都會なる南原を差して出發した。 大崎等の出發と牧健三の子 さて、一行に遲れて釜山を出發した大崎、武田、西脅は、同志の後を追ふて進む裏に、端なくも客舍で昌原金山の牧健三の子某に邂逅した。 相知の間柄である武田がそれに話し掛けると、某は倉皇として逃げるが如く立去つた。 その素振りに徵し、先發隊が同鑛山を襲ふて爆藥を奪ひ取つたことを察知すると共に、牧の子息が釜山總領事館に訴へ出んとする途中で測らずも自分等と邂逅したものであらうと想像し、愚圖々々して居るべき場合に非ずと愈々前途を急いだのである。 其途中晉州では又々朝鮮官憲の妨害に遭ひ、例の如く砲聲の威嚇等をも受けたが、大崎の折衝宜しきを得て、官憲を說服し、暴民どもの示威的行動をも凌いで無事通過するを得たのである。 然るに晉州市街を出離れる頃から、暴民が追掛けて來て頻りに投石し、あはや石つぶての犧牲とならんとする危險にまで瀕するに至つたが、ピストルを發射し暴民との距離を引離しつゝ南江を渡つて漸く無事なるを得たのであつた。 大崎等の追及 一行は山淸邑に到着した時始めて、前夜日本人十一人が泊つて今朝南原に向つたとの消息を得、一泊の上翌朝早發、行を速めて進む裏南原城が目睫の間に迫る邊で先發隊の進むのを認め、旗を振り聲を揚げ合圖を交はしつゝ疾走して漸く追付き、 南原の宿舍交涉使 互に無事を祝して握手するやら背中を叩くやら筆舌に盡し難い喜びを以て相會したのである。 その時吉倉と時澤とは一行を代表して宿屋の斡旋をさせる爲め官衙に赴いて不在であつたが、やがて二人は官衙の卑官二人を從へて意氣揚々と歸來した。 官衙へ交涉に出掛けるに當り、吉倉は全權公使陸軍大將と稱し、時澤は陸軍中佐と稱しその從者の體を裝ふて共に威儀を示したのであつた。 吉倉の打扮はといへば、烏帽子を冠り綠色の袴に紫色の直垂を着し、神官宜しくの服裝をなし、時澤は陸軍中尉の服裝で凜然たる威容を整へてゐたのである。 二人は先づ大崎武田の安着を祝して後、朝鮮の二卑官は宿舍に案內する爲めに引連れて來たのであるから、いざ諸共に南原に入らうと一同を促した。 一行が南原の市街に入るや、市中の朝鮮人が群り集つてガヤガヤと喧しく喋り合ひながら見物するのを、案內の二卑官が叱咜して道を開かせつゝやがて一大樓門の前に案內した。 南原郡衙の歓待 門は一行を迎へる爲めに旣に開かれて居て、直ぐ門內の宏壯なる建物へと導いた。 こゝは勅使饗應の客殿として建てられたもので、結構も壯麗であり、一行に對する待遇も亦懇切丁寧を極めた。 蓋し吉倉が自ら陸軍大將全權公使と稱した策略が成功して、南原の府使が心から尊敬を表した結果である。 一同が入つた廣い室には壁上に廣寒樓と題した額が揭げてあり、又別に湖南第一樓といふ扁額もかゝつてゐた。 やがて府使の許からは次官が數人の官人を從へ、使丁に酒肴を運ばせて來訪し、『府使は病中で訪問することが出來ぬから、卑官が代つて諸君遠來の勞を慰める次第である。 之を諒として玆に獻ずる粗酒粗肴を受納せらるれば幸である』と挨拶し、運び來つた饗應の品々を竝べて薦めた。 酒は南原名産の竹酒と稱するもので、竹を原料として釀造し、每年國王に獻納する慣例となつて居る芳醇のもの、肴は牛豚鷄の肉を始め名産の栗まで取合せて調理したもの、久しく困苦缺乏の旅を續け來りし一行に取つては、正に舌先を鼓するに足る馳走であつた。 一行の志士は次官等が薦めるまゝに飮み且つ食ふて、玉山將に崩れる頃、朗々と詩を吟ずるもあれば起つて劍舞を試みる者もあり、遂には軍歌を高唱して勇氣を皷するといふ有樣で大に歡を盡したが、 吉倉大官の歓待 全權公使陸軍大將と名乘る吉倉のみは、鳥帽子直垂の禮裝で次官と對座し、終始威儀を崩さず神妙に畏こまつてゐなければならぬ苦しい立場にあつたのはあはれであつた。 次官等が辭し去つた頃には美酒佳肴も旣に盡きてゐたばかりでなく、彼は嚴めしい禮裝の爲めに流汗瀧の如く全身ビシヨ濡れに濡れて水の中から這ひ上つたやうな爲體であつた。 そこで自ら嘆じて曰く『人生誤つて大將の身となる勿れ、一切の幸福人後に落つ』と、一同はそれを聞いてドツと哄笑するのであつた。 南原會議 玉樓金殿ともいふべき勅使饗應殿の安らかなる一夜の眠りは、數日來の疲勞を洗ひ盡して翌朝は何れも元氣よく起き出でた。 其處へ官衛から朝食を運び來つたので、食後直に會議を開き前途の行動に就て遺漏なきやう會議を開いた。 東學黨訪問の準備 同志の期する所は東洋の平和である。 而して東洋の平和を來さんとするには第一に朝鮮から淸國の勢力を一掃する必要がある。 淸國の勢力を一掃するには日淸間に戰端を開き、淸國の橫暴を懲らさねばならぬ。 然るに朝鮮は朝野共に淸國を世界無比の强國と誤信し、自ら淸國の藩屛と稱して得々たる有樣である。 其無智は憐れむべきであるが、從來日本の對鮮政策が軟弱なりしことがその原因をなして居るのであるから、此際是非とも日淸間に戰端を開かせ、朝鮮朝野の誤信を打破しなければならぬ。 而して同志の者が東學黨と會見するのも、こゝ二三日の間にあるから、彼等に對しても此の方針で折衝しなければならぬ。 東學黨の近狀に就ては種々の風說が傳へられ、何れが眞なるか容易に判斷を下し難いが、吾々は今此の安全地帶に留まることを得たのを機とし、彼等の動靜を探知し、その情勢を詳にして前進するを可とする。 又その間に出來るだけ攻防の武器を準備する必要があり、且つ東學黨徒に會見する際示すべき檄文も此の際起草して置かなければならぬ。 會議の席上に於ける同志の意見は大體以上のやうなもので、結局、東學黨の動靜を探知する爲め、田中侍郞、時澤右一、千葉久之助、大原義剛の四人が通譯の西脅榮助と共に出發し、內田良平はダイナマイトで爆裂彈製造の任に當り、日下寅吉は擲彈の製造に從ひ、大崎正吉が此の二人の助手を勤め、鈴木天眼、武田範之、吉倉汪聖の三人は庭前の大きな蓮池の中の島にある瀛洲閣と稱する小亭で檄文の起草に從つた。 大久保肇は警衛係として一刀を提げ四方八方を徘徊しつゝ警戒に努めた。 時に內田、日下、大崎の三人が爆彈及び擲彈の製造に熱中して居る所へ、朝鮮人が多勢集つて來て傍觀し、中には煙草を吹かしつゝ近づく者もあるので非常に危險であつた。 且つ彼等は五月蠅く喋り合ひ追拂つても又忽ち集り來り、大切な作業の妨げとなつた。 內田は『仕方のない奴どもだ』と云ひつゝ懲らしめの爲めに一人の朝鮮人を捉へ柔道の腕前に任せ喉元を締めて假死の狀態に陷れた。 此の樣を見て多數の朝鮮人は『死んだ死んだ』と騷ぎ立てたが內田はやがて時分を見計らつて活を入れると、ウーンと呼吸を吹き返して無我夢中で數十間走り出した。 その滑稽なる樣子に同志の者は覺えず吹き出したが、これに度膽を拔かれた鮮人どもは恐れをなして寄付かなくなつたので、無事に爆彈の製造を終ることを得たのであつた。 格文起草と天佑俠の名稱 夕暮近くなつて偵察隊の田中等が歸着した時には、爆彈の製造も終り檄文の起革も亦漸く終つてゐた。 偵察隊が齎らして歸つた報告に依ると、東學黨徒は全州を占據せる際、牙山に上陸した支那兵が官兵を援けて攻擊を加へた爲め、之に抗することを得ず、同地を敗退して更に兵を集結し、淳昌の郡衙を襲ふて之を攻略し、同地に據つて再擧を圖つてゐることが明かとなつた。 此の日檄文の起草と共に團體の名を天佑俠と稱することに決定し、是れ迄幾多の艱苦を凌いで訪れ來つた東學黨の本據たる淳昌が僅か六里弱の距離に過ぎず、愈よ活躍の時機が眼前に迫つたので、一行の意氣は頗る軒昂たるものであつた。 翌朝は生憎にもしとしとと雨が靜かに庭外に降り濺いでゐた。 しかも同志等は、何の物かはと夙起朝食の膳に向つた。 出發の頃は雨勢漸く激しくなつた上に風力も加はり行路の難儀思ひやられたが、一同は馱馬を中に挾んで肅々と行進を始めた。 二里許りも進んだ頃鈴木天眼が發熱して步行に惱むに至つたので、豫てその肺患のあるのを知つてゐる同志は頗る憂慮したが、氣の强い鈴木は『これ程のことは何でもない、心配してくれるな』と勇を鼓して屈托せる樣子を見せず、强て一行に遲れじとする樣が悲壯であつた。 しかし、同志の者は鈴木が雨に濡れつゝ病軀を挺して進むいたいたしい姿を見るに忍びず、荷物の中から毛布を取出して鈴木に着せ、無理遣りに馬に乘らせて前進を續けた。 更に前進すること二里許りで一棧亭に立寄つて晝食を認め、鈴木も暖房に入つて濡れた體を乾かしつゝ氣分の恢復するのを待つた。 その間に武田と吉倉とは別室に入つて檄文の淸書に取掛つた。 此時恰も一鮮人が入り來り『淳昌にある東學黨の軍は約五百名を下らぬ』と言つて去つた。 そこで一同は評議の上、先づ大原義剛、田中侍郞の二人に東徒の狀勢を探らせるため先發させ、それから約一時間の後、再び鈴木を馬に乘せて前進の途に就いた。 天佑俠徒淳昌に東學黨の陣営を訪ふ 一行が淳昌の郊外に達したのは黃昏に近かつたが、市街に近づいた時、橋の上に立ち手を擧げて大聲に叫ぶものがあるので、近づいて行くとそれは田中と大原とで『東學黨の軍から特使を以て吾々に書狀を齎らして來たのを受取つて待つ所だ。 その特使が禮を厚くして吾々に對したところを見ると吾等一行を歡迎する樣子である。 その書狀はまだ披見しないで厚くその情を謝し、後から來る同志の到着を待つて回答をすると告げて歸らせた。 その使者は歸るに臨み、市の入口に宿舍を定めて置く故速に來て勞を休めよと告げて去つた』と勇み立つて報告するのであつた。 然らば先づその宿舍に行つて書狀を披見し、その上で對策を講じようとて市街に入ると、果して東學黨の黨徒が宿舍を定めて其處で待つてゐた。 一行が到着すると、それらの黨徒は珠數を手首に懸けながら、進んで一行の爲め草鞋の紐を解くやら水を汲み來つて足を濯ぐやら、その態度頗る懇切丁寧を極めるので、一行は意外の懇遇に寧ろ茫然たるばかりであつた。 やがて食事を終つて書狀を披見すると、その文面は次のやうなものであつた。 黨徒の歓迎文 貴國大人各位、萬里を遠しとせずして駕を隔地に抂げ、熱風火雨、長途の勞苦誠に驚惶に耐えたり。 知らず諸公の此處に來る本と大命を帶びて敗餘の我が黨人を萬死に救はんが爲め乎。 抑も亦別に期する所あるに由る乎。 幸に敎示を賜はゞ幸甚。 吾黨人曩に貪官汚吏の民膏を剝割するを默視するに忍びず、一朝俄然冤を鳴らし訴を呼び衆を會して全州に入る、志一に百姓と共に其の浮沈を共にするにあり。 意はざりき城上砲丸雨下敢て我が千餘人を射殺す。 至冤極痛の憤、今や訴を呼ぶに所なし。 而して如是至冤の民終に指して不軌の徒に數へられ、方伯守命、每に劍戟を磨して我が黨人を邀擊鏖殺せんとす。 天下の無辜之より甚だしきあらんや、是れ實に諸公の憐察を乞はざる可からざる所、且つ我が黨人本來德を明にし道を宣ぶるを主意とす。 故に久しく兵馬の間に驅逐すと雖も今に至るまで曾て一たびも無辜の民を害したる莫し。 其の紀律の整然亂れざるは竊に自ら京軍の上に出づるものあるを期す。 諸公若し高駕を我が陣門に抂げ而して愚蒙を啓諭するの勞を吝まずんば何の遲疑をか要せん。 何の躊躇をか須ゐん。 會生等席を淸して謹で諸公の光臨を竢つ。 東學黨の戦法 東學黨が一行の來ることや、其目的が東學黨援助にあること等を豫め知つてゐたのは何によつてゞあらうか?。 元來東學黨の持つて居る武器は精々獵夫からかり集めた火繩銃位のものに過ぎなかつた。 之に反し官兵はレミントンの元込銃を持つて居るのであるから、その戰鬪力の優劣は殆ど比較にならなかつた。 然るに東學黨が全州で支那兵參加の爲めに打破られるまでは官兵に對して連戰連捷し、到る處を風靡してゐたのであるが、それは東學黨が特殊の戰法として十里二十里の廣範圍に亘り恰も蜘蛛の巢の如く八方に密偵網を張つて神速機敏に諜報の連絡を取り、本軍に向つて敵狀を細大漏らさず知らせる方法を取つてゐる結果であつた。 其諜報が非常に敏速で遠近の敵狀は手に取る如く分るのである。 斯くして東學黨軍は敵の勢力の微弱なる處を襲ひ、優勢なる場所には不意打をかけ、神出鬼沒の活躍を演じて常に勝利を制してゐた。 是れが東學黨の最も得意とする戰術であつたから、此の密偵網によつて天佑俠の志士の來ることなどは十里も前から豫知してゐたのである。 或は彼等は昌原金山襲擊の報が四方に傳はると同時に天佑俠の行動を旣に知つてゐたかも知れぬのである。 黨徒との初会見 さて、一旦旅舍に落付いた同志は、東學黨に回答を爲すため、其夜田中、大原、武田、吉倉に通譯の西脅を添へ、その本營なる淳昌郡衙に赴かせた。 五士は案內者として附された東學黨徒の一人に導かれて本營に入ると、段を昇つた廣い一室に案內され、やがて東徒の幹部と思はれる數名の者が現はれて應接した。 一同席定まるや、先づ田中侍郞が口を開いて『吾々俠徒が千里を遠しとせずして來つたのは遙に東學敎徒の義を重んずるを聞き、共に語り共に謀らんが爲めである。 而して其の謀る所は主將に對してゞあるから、主將が此の席に在るならば乞ふその姓名を承りたい』といつた。 西脅がそれを通譯すると、服裝は敢て立派といふのではないが眼光炯々として風采衆に勝ぐれた一敎徒が座を進めて『由來我が黨人には上下貴賤の差別を設けてゐない。 共に事をする者は皆同等同權の敎徒である。 この席にある者は同敎同志の者であつて異志を抱く者はないのであるから、忌諱する所なく貴說を述べられんことを願ふ』といつた。 そこで吉倉は懷中から檄文を出して、その敎徒に渡すと、敎徒は一拜してそれを受取り、他の敎徒に渡して朗讀させた。 天佑俠激文の大意 今原文大意を分序すれば次の如くであつた。 第一 海山萬里、艱苦を意とせず特に來つて自ら諸公を訪ふ所以の者は、唯諸公が義に據り大道を履み王家の衰ふるを興し、百姓の流離を救はんとするの志に感激し、同志十四人産を擲ち家を捨て死を以て父母の國を走りたるもの也。 日や韓や固と同祖同文の國と稱す。 隣誼の情其存亡に對して默過すべきにあらず。 然りと雖も利害の關係旣に直接ならざる他邦人にして尙ほ且つ義を見て奮興すること斯の如し。 諸公に在ては則ち先祖墳墓の地たり。 宜く當に其の國の爲めに至誠盡忠粉骨碎身すと雖も猶ほ以て足れりと爲すべからず。 第二 濟民の擧や固より不可なる所なし。 然れども其濟民の目的を達せんとするに方つては、輕擧暴動は最も戒めざるべからず。 否な此の如きは徒に其大事を誤りて大機を失ふに過ぎざる也。 先聖云ふ、事に臨みて懼れ謀を好んで成ると。 是れ實に諸公の鑑みざるべからざる所。 仍て竊に思ふに當今の世、國に任ずる者の急務は四方の形勢に對して自家の地位を考へ審勢審敵以て能く天下の機勢に應じ、其生民を安ずると共に其社稷の鞏固を計らざるべからず。 若し夫れ此言に顧ること無くんば、國破れ家喪ぶる必ずしも旬年を竢たざるべし。 第三 天下今日の形勢、其優勝劣敗角逐の狀彼の如く恐るべきものなり。 朝鮮の安危存亡は豈に此秋に非ずや。 而して現今兄弟內に鬩ぎ虎狼外に窺ふもの多々、志士身を以て國に殉じ萬世泰平の基を立つる今日を措て夫れ何の日を竢たん耶。 第四 朝鮮の時弊は上下一般偸安姑息にして一念曾て國家の存亡に思ひ到るもの無きに在り。 特に上に在る者に在つては宰相以下地方守命の徒に至るまで皆爭ふて其私を營み詩酒淫樂朝以て暮に接す。 今之を改めて强健の國風を養成せんと欲せば、革命は實に其第一手段たるべし。 第五 一抔の土も李氏の天下なり。 一人の民も先王の百姓の子孫なり。 然るに今此土を割きて俄羅斯に與へ此民をして歲々相率ゐて胡地に流亡せしむるは是れ果して誰の罪ぞ。 閔一族の失政の跡實に此の如し。 彼の罪惡は單に其暴斂に止まらずして別に先王を辱め社稷を傷ふものあり。 志士豈に之を默視するを得んや。 第六 唯夫れ物には本末あり。 今日地方官吏の虐政が閔家の收賄政治より來るは公等の素より知悉せる所。 故に人民疾苦の因て出づる所は公等も亦其閔家なるを云ひ、閔の罪の地方守命より重しと爲るも事理當然の論なり。 公等の明智眼識旣に此の如し。 然らば卽ち閔の罪の依て來る所亦究め易きのみ。 而して終に其罪を咎めざるは何ぞや。 彼れ閔族惡政の背後には之が守護者として淸國使臣袁世凱あり。 袁は實に閔の惡を扶け、其罪を長ずる所の本尊たり。 而かも公等は妄りに其敵手に袁大人の尊稱を與へ其敵國に祖國上國の佳名を獻ず。 吾徒は竊かに公等の賢明にして此の如き迂愚の擧に出づるを怪む者也。 第七 之を要するに百姓を虐する者は守命、守命の元惡は閔族、而して閔族惡政の根源は袁と其の本國とに在り。 是れ天下萬衆の公論に係る。 然らば則ち朝鮮の百姓をして今日の塗炭に苦ましむる者は彼れ淸國に非ずして誰ぞ。 竊かに怪む公等其刃を淸と袁とに加ふるを忘れて獨り之を閔と守命とに用ゐんと欲するを。 否公等の義擧僅かに斯くの如きに止らば是れ旦に一閔を斃して夕に一閔を迎へんと欲するもの。 百姓の痛苦天下の禍根何の時にか能く之を掃蕩し盡すを得ん。 第八 況んや公等は單に漢土の明朝時代に於ける恩惠を記憶し、而して現に朝鮮に對して淸國が大禍心を包藏する所以を知らざる者なり。 曾て袁世凱が廣言する所を聞かずや、三年の後我れ必ず朝鮮を以て我版圖と爲し其の王を廢して庶民たらしめんと。 咄々大逆無道不俱戴天の言、臣當に憤慨して節に死すべき所。 而して葉聶二將は其の野心實行の先鋒となり旣に海を飛渡して來つて牙山の陣營に在り。 宜なる哉袁の强ひて無道の政府を助け以て公等安民勤王の師を剿滅せんとするに努むることや。 第九 家族あるを知つて國家あるを知らざる閔は、葉聶二將の來つて牙山に屯するを奇貨とし、之に啗はして其暴政の援兵とならしめ、而して國王殿下の叡慮を惱まさるゝを意となさず。 彼等三人は實に是れ朝鮮の虎狼たり。 公等閔を討するに方つて、先づ牙山の淸兵を掃はざるべからず。 第十 閔族朝に立ち淸人外より之を援助す。 斯の如くんば忠義の臣到底世に擧げらるゝの期なし。 今日野に遺賢多く年豐かにして而かも四民に菜色あるが如き其原因一に此に存す。 第十一 唯だ日本國民は則ち然らず。 公等にして長へに其安民興國の志を持續せん限りは、出來得る限りの盡力を與ふるを惜むこと莫し。 義俠は實に我帝國三千年の歷史を成せり。 第十二 故に公等にして我徒の言ふ所を聽かば吾徒は欣然之より公等の先驅となり矢石を冒し劍刃を排し以て北進京に入るの途を啓き、全力を盡して斃れて已まば、彼れ牙山淸兵の如き縱令萬々の衆ありと稱するも一擊して膽を奪ふこと易々たるのみ。 何の恐るゝことか之れあらん。 黨徒の感激 檄文の朗讀中、閔族の橫暴、國太公云々の段に至るや、列席の敎徒を始め隣室で聞いてゐた敎徒等は感憤して手を擧げ肩を怒らせ、中には起つて座を踏み鳴らす者もあり、悲壯の氣頓に座に滿ちて慷慨淋漓の氣正に天を衝くの槪があつた。 朗讀が終ると主將らしい一敎徒は辭を更めて『諸賢士の高敎謹んで諒承す。 委細の事は明日を期して謀る所あらんと欲す。 連日の行路の勞苦を辭せず斯く來つて高敎を惜まれざりし高義厚情は萬謝猶ほ足らざるものあり』と感謝し、後ろを顧みて何事か命ずると、用意の酒肴が運び出され、それを五人の前に配列し、『粗酒粗肴諸賢士を饗するに足らざるも願くば唯だ吾々の意を酌まれよ』と挨拶した。 五人はその好意を受け、微醉陶然として辭し去らんとする時、敎徒は『貴宿は狹隘汚穢で不自由であらうから當衙の兩室を明けて諸賢士に供したい。 速に移居されては如何』と勸めた。 しかし夜も旣に更けてゐることであるから、五人は明日厚意に從ふべき旨を告げて席を起つと、列席せる敎徒の面々は階段の下まで送り出で暫らく目送するのであつた。 歸り來つた五人から詳細の報告を受けた同志の者の滿足は更めていふまでもない。 珍奇なる天佑俠徒の禮裝 翌朝は鈴木天眼も元氣よく起き出でゝ『病氣の奴何處かへ逃げ失せをつた。 今朝はその影さへ見せない。 諸君安心してくれ』と軒昂たる意氣を示し、一同は朝食後東徒からの使に迎へられて郡衙內の宿所に移轉した。 此時天眼が馱馬に跨り大將然として新宿所に赴いた姿は滑稽で、晴れやかな一同の笑ひを誘ふた。 一行に提供されたのは二十疊敷許りの一室と十疊敷許りの一室で、廣くもあり淸潔でもあり、南原以來每夜汚い宿屋で塵埃とビンデイといふ毒蟲とに襲はれて苦み通して來た一行に取つては、そゞろに心氣を爽快ならしむるに足るものであつた。 やがて東學黨の本部からは、『早速幹部の者が來つて謁する筈であるが、唯今囚人の訊問中であるから訊問を終り次第來謁する筈である。 暫らくお待ちを請ふ』といつて來た。 囚人の訊問といふのは前に郡守等が罪人として捕へ來り投獄したまゝ逃走した者を引出して幹部の者が審問してゐるので、東學黨は斯くして占領地到る處に於て冤枉に泣く人民を釋放する仁道を講じてゐたのである。 暫らく經つと、唯今來謁するといふ豫告があつたので、俠徒の一行は衣服を改めて待つたのである。 倂しその衣服はといへば、日下は雷神の太皷を打つてゐる模樣を染めた浴衣を着け、田中は朝鮮袴に支那胴着、その上に日本羽織を引掛けたといふ三國折衷のもの、武田と內田とは純洋服、鈴木は純日本服、吉倉は例の錦袍紫袴を着けて烏帽子を冠り、時澤は陸軍將校の略服に胸間勳章を輝かし、各人各樣、正に百鬼夜行の感を免れぬ底のものであつた。 黨軍の幹部として來訪した者は總勢十餘名で、互ひに氏名を書いて交換し、運び來つた酒肴を中に歡談に時を移したのであるが、この席では深く機密に關するやうな話もなく、懇親の情を盡したに過ぎなかつた。 時に一行は東學黨をして一層大なる信賴を起させる爲め、ダイナマイトの導火線に點火して水中に投げ込んで見せた。 ダイナマイトが忽ち爆發して水煙を高く揚げたのを目擊した東學黨の者は非常に驚き、火を水中に入れて消えぬ筈はないのに日本人は實に不思議のことをするとて讚歎し合つた。 又東學黨の一部將で魁偉な體格を有し、勇力非凡銃丸と雖もこの者の體を貫くことが出來ぬと迷信せられてゐる一人物があつたが、內田がこの男と力を角することになり、最初は見事に投げ飛ばし二度目には當て身を當てゝ氣絶させ、更に活を入れて蘇生させたので、黨軍の勇士等は驚嘆して已まず、これは寧ろダイナマイト以上の效果を奏したやうであつた。 その他負傷兵の居るのを見て、疵口を石炭酸で洗ひ、その後に藥を付けて療治を施してやつた。 これらのことにより東學黨は俠徒に對し一層信賴の情を表するに至つたのである。 天佑俠代表と全琫準の筆談 此の晝間に於ける交歡に次ぎ、更に夕暮近くなつてから東學黨側からの交涉により、その代表者と俠徒側の委員とが祕密に協議を行ふことゝなり、鈴木、田中、武田、大崎の四人が之に臨んだ。 敎徒側から出席したのは英姿颯爽たる偉漢が唯だ一人で、これが主將の全琫準であつに。 全は四人を靜かな一室に誘ひ、通譯を斥けて筆談により意見を交換することを求め、早速筆を執つて次の如きことを書いた。 『我が東學黨は一の敎團にして天地の大道を說き大義を宣べ、以て之を實行するにあり。 我等の今回の行動は專ら此の主義より來り、徒らに暴動を事とするものにあらず』と、之に對し武田は『我等も亦日本の東學黨なり。 その主義とする所は貴下書する所と異るを見ず』と書いて示した。 全は又筆を執つて『貴意は之を諒す。 我等は前陳の如く大道大義卽ち一に天意に依りて行動す。 故に我が敎徙は天意の在る所を忘失せざらんが爲めに平生唱ふる所の呪文あり。 我が敎徒は常に之を唱誦するが故に玆に活氣を生じ、死地も亦生地の如し。 貴黨も亦斯の如き呪文ありや』と問ふた。 武田が『我等には斯の如き呪文なしと雖も、我が日本の神道を以て根本とし、儒佛老の三敎を以て之を補ひ、之を硏究練磨すること多年、以て一定動かすべからざるの主義を立て、以て活天活地の運動をなし來れり』と答へると、精讀して肯首し、それより一問一答を重ねて互ひに時勢を論じ彼我の筆談は盡くる所を知らなかつた。 元來武田は和漢の學に通じ、佛敎の造詣深く、殊に漢文に至つては最も得意とする所で、縱橫に文字を驅使して立所に名文章を成すの手腕を持つてゐたから、筆談に當つては益々その本領を發揮し、その上、鈴木天眼が傍から意見を述べて、武田の意を補足するのであるから、文章益々淸彩を放ち、文勢はさながら龍吟虎嘯の趣があつた。 全琫準も亦鮮人中稀に見る能文家であつたが、武田に比すれば寧ろ遜色あるを免れなかつた。 この筆談は優に小冊子を成すに足る量に達し、好箇の記念となるべきものであつたから鈴木が之を携へ歸つたのであるが、後に本間九介が鄕里二本松に携へ歸り、遂にその所在が分明せざるに至つた。 両者の盟約と方略 この重要なる筆談に於て、東學黨は一先づ淳昌から兵を撤して雲峰に赴き再擧の計をなさんとする方針に決定してゐることを告白したのであつて、天佑俠は一時黨軍と袂を別たねばならぬことゝなつた。 蓋し東學黨は全州の大戰に於て慘敗した爲め黨兵四散し、當時全琫準の麾下に在る兵は三百名內外の少數に過ぎず、天佑俠徒は智勇の士ばかりとはいへ僅に十四人に過ぎないのであるから、兩者の力を合しても人數が甚だ少いのみならず、軍には精銳の武器がなく、僅に火繩銃を有するのみで、それすら肝腎の彈藥が缺乏してゐるのであるから、直に活躍を期せんとしても到底不可能なる狀態にあつた。 仍つて全琫準は東學黨に取つて因緣の深い雲峰の靈地に退き、更に各地に散在してゐる同志を糾合し、軍容の整ふのを待つて活動を起すことゝし、天佑俠は沿道の狀勢を探りつゝ京城に向ひ、全琫準が三南各地にある數千の同志と諜し合はせて個々に京城に潛入し來るを待ち、相呼應して事を擧げるといふことに決したのである。 而してその豫定せる方略は大體陰曆七月初旬を期し、天佑俠は東學黨の一味の京城及び其の附近に潛入せる者と連絡を取つて王城に迫り、第一に王城の門を破壞し、之を合圖に東學黨は『外人我が王城に迫れり、寸時も猶豫すべきにあらず、速に之を擊退せよ』と大聲疾呼しつゝ城門に迫り、衛兵を排して入門すれば、天佑俠は之と一團となつて衛兵を擊退し、東學黨は王を挾みて政權を握り、天佑俠は之が顧問となつて共に天下に號令するといふにあつた。 元來東學黨の目的は專ら政府を倒さんとするにあつて、支那兵を驅逐し支那の羈絆を脫せんとする如き志はなかつたのであるが、天佑俠徒と意見を交換するに及び、初めて支那の勢力を驅逐する決心を抱くに至つたので、その政治的意見は玆に一步を進めた譯であつた。 尙ほ天佑俠はこれらの密約が成立するや、進んで東學黨に入黨するに決し、正式に入黨式を行ひ、黨の呪文其他黨員たる資格證明書ともいふべきものを授與せられ、是れさへあれば到る處に散在する黨員を自由に招募することを得るやうになつたのである。 両者の決別と記念品 その翌朝には東學黨軍は早くも淳昌を撤退することゝなり、天佑俠徒は之と別れを告げるため全琫準の居室を訪ふと、全は非常に感激して一々諸士と握手を交はし、そゞろに別れを惜む樣子であつた。 別れに臨み鈴木天眼は所持してゐた瑪瑙の玉を贈り、大崎正吉も所持の懷中時計を贈つた處、全は『好記念、終生失はざるべし』と非常に喜び、再拜して之を受けたが、その時一時の別れだといつて袂を分つた全琫準その人は、軈て再び會し得ぬ悲むべき運命を待つてゐたのである。 堂々たる黨軍の撤退と侠道の転送 黨軍が撤退する日は朝から炎陽燒くが如くに輝き、非常に暑い日であつたが、彼等は炎天の下に行列を整へ、十數騎の幹部が之を指揮し、全琫準も亦馬に跨つて全隊を督し步武肅々として行進を始めた。 天佑俠徒は之を目送して感慨轉た無量なるものがあつた。 却說編者は玆でいさゝか東學黨に關する逸事を述べて、彼等を世間尋常の暴徒とする誤解を釋き、倂せて朝鮮近代の傑物たる全琫準その人の面目を偲ぶの料としたい。 黨徒の軍規と全琫準の逸事 朝鮮各地に蜂起した東學黨の全部が悉く規律嚴正の義徒であつたとはいはれないとしても、全羅方面卽ち全琫準の支配下に在つに東學黨は、號令嚴明にして秋毫も犯す所なく、その秩序あることは遙に官兵の上に出でた。 これは全琫準が每に人に對して誇つてゐた所で、黨軍が一時天下の民望を荷ふに至つた原因も亦實に玆にあつた。 官兵が到れば地方の老壯悉く遁走し、その家財は掠奪を被り、雞豚は徵發に遭ひ、民衆は之を虎の如く怖れたが、黨軍の過ぐる所は男女皆な簞食壼漿して歡迎し、その一日も長く留らんことを哀願して止まず、農民は陣頭に來つて米麥を鬻ぎ、商人は陣中に入つて雜貨を賣り、各々皆なその業に安んずるといふ有樣であつた。 又黨軍が一たび其地を去らんとすれば幾百の農商も亦その後を追ふて他邑に移轉するのを例としたが、これは東學黨と共に在れば地方暴吏の誅求を免れることを得、生命財産の安全を脅される虞れがなかつたからである。 斯る有樣で東學黨軍は實に救世軍であり、又半島に於ける巡回的の好統治者でもあつた。 されば東學黨軍が自らその行政に任ずる所を稱して濟衆義所といつたのは實に名實相副ふものであつた。 更に東學黨軍の軍規嚴正であつたことを證するに足る一資料として次のやうな話もある。 淳昌に陣して居た時の事である。 市中無賴の徒が三名相謀つて東學黨の名を利用し、地方の富豪を脅かして多くの金穀を奪つた。 偶々黨員がその事を聞き全琫準に申告すると、全は捕手を派してその無賴漢を捕縛させ、目前で之を銃殺に處した上、その首を梟して傍らに『民財を掠むる者は總て皆斯の如し』といふ札を立て、地方無賴の徒を戰慄屛息させたのである。 又淳昌の郡守李聖烈は地方官中の俊才で、東學黨の蜂起するや、京城に上り朝廷に獻策し、對黨政略の要は先づその黨人の罪を宥し、利を以て歸願を誘ひ、斯くして黨軍の股肱を去り盡し、而して後徐ろに誅を黨魁に加ふるにある。 この方法によれば亂源を絶つことが容易であらうと述べた。 この獻策が採用された結果、戰鬪では官兵が屢々敗れたに拘らず、政略の上では着々と實績を擧げ、次第に黨軍を南方に追ひ詰めることゝなつたのである。 この事實を知れる黨軍の勇士達は李聖烈を憎むこと甚しく、必ず李の頭を獲、その三族をも滅せんと憤慨してゐた程であるが、全琫準の軍が淳昌に入るに及び、全は先づ李の妻妾兒女の所在を確め、直に之を內房に封鎖して守衛の兵を附し、何人にも其處へ出入するを許さず、部下の勇士が頻りに憤るのを聞いても、斷じて李の家族に危害を加ふることを許さなかつたのである。 全琫準といふ人物は實にこんな床しい襟度の男であつた。 黨軍撤退後に於ける侠徒の余興 天佑俠の同志は黨軍が撤退した後、其處に留つて一日の休養をなした上、新しい目標の下に行動を起したのであるが、その休養中、內田は得意の柔道によつて武勇を現はし痛快な物語を留めた。 それは鈴木天眼がつれづれの餘り一鮮人をからかつて、あべこべに突倒されようとした危險の場合、傍にゐた內田が飛び掛つて例の締め手で絶息させ鮮人等の膽を奪つた事件で、この時も內田が時分を計つて活を入れると、件の鮮人は眼を開いて突然走り出し、五六間も行つてから後を振り返つて茫然と突立つてゐた樣子の滑稽さに一同がドツと笑つたところ、その鮮人もカラカラと笑つて群集中に姿を隱したので、又もやドツと笑が起つて時ならぬ喜劇に徒然を慰めたのである。 然るにこの樣子を見てゐた群集中から肥大な男が二人現はれて、健氣にも內田に向つて力を角すべく申込んだ。 內田は諾して身構へると、相手は滿身の力をこめて躍り込んで來た。 すると內田は身をかはしながら何の苦もなく一二間投げ飛ばした。 斯くと見て殘りの一人が直ぐ飛び付いて來るのを引捉へて肩に掛け「エイ」といふ一聲と共に投げ出せば、二間ばかりも飛んで打ち倒れた。 この晴業に二人とも氣勢を失ひ狐鼠々々と群集の中へ逃げ込んでしまつたのは笑止であつた。 この武勇を見てからは鮮人が內田を畏れること甚しく、內田が近付けば首を縮めて逃げ去るのであつた。

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