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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
東亞先覺志士記傳 동아선각지사기전
일러두기

一八天佑俠の活躍(三) 佃等の盡力と大島旅団に従軍 天佑俠諸同志の京城に入るや、京城滯在中の佃信夫や西村時彦【天囚】等は、俠徒を永く世を忍ぶやうな境遇に置くことは坐視するに忍びないのみならず、國家に取つても無意味のことだとて、混成旅團長大島義昌少將及び聯隊長武田秀山大佐を訪ひ、日淸開戰の動機に就ては天佑俠徒の功勞鮮なからず、且つ彼等が敵軍配置の狀況竝にその敗走の狀況等を實見して來たことは策戰上の一大參考となつたものと信ずるから、彼等の功績と心事とを諒として、當局の誤解を除き國家の爲め彼等の行動を自由にしてやるやう配慮せられたいと盡力を依賴した。 大島少將武田大佐も之を聞いて大に同情したが、政府に對し救解の道を講ずるには更に何か軍隊に直接貢獻するやうな事をした上で、その功績を理由に當局者を諒解せしめることにしたいといふ意見で、それには支那の敗兵が平壤に向つて進んでゐるから、その行動を偵察して報告して貰ふことが望ましいといふことであつた。 春川方面の偵察 こんな次第で天佑俠の志士は支那兵の後を追ふて再び朝鮮內地に進入することになつたのであるが、當時成歡の敗兵は多く淸州に遁れ、牙山の敗兵は公州に遁れたものと見られ、その公州に遁れた敗兵も亦淸州に至つて江原道に入り、其處から平壤に向ふ外、他に適當な退路はないものと判斷された。 されば之に追及するには成るべく近道を取つて江原道春川府に出づるのが適當と思はれた。 そこで天佑俠の同志は急に京城を引揚げて再びセブンゴの閔家の別莊に入り、安城にある本間九介竝に年少なる井上藤三郞を除く十二人の者が、仕度を整へて春川に向ひ出發した。 諸士涙を振つて病內田と袂を別つ 然るに江原道の加平附近まで達した時、まだ衰弱の回復せぬ身に無理な旅行を續けて來た內田は疲勞甚だしく發熱さへ催し、全く步行困難の狀態に陷つた。 一同が路上で休憩中、傍らの小さな流れに足を浸して熱氣を拂はうとしてゐる內田の姿の苦しげな樣子を見て、鈴木と大原とが心配して病狀を問ふと、剛毅な內田は窶れた顔を揚げて『疲れた上に餘病が發したと見え、大分熱が高いやうだ。 步くのが苦しいけれど、兎に角倒れて後已む覺悟で進む決心だ』といふ。 二人は內田の容體の唯ならぬ樣子をつくづくと眺めて憂色を浮べてゐたが、『君はこゝから歸ることにし給へ。 そのからだでは、とてもこんな旅行には耐へられるものでない。 これから無理をして旅行を續けたら命が危い。 ソロソロ步いて京城に歸つた上靜養するのが一番だ。 京城で僕等の歸るのを待つことにしたまへ』と歸還を勸めた。 『イヤ僕はどうしても進まうと思ふ。 こゝから春川までの里程は京城に歸るのより二三里も近いし、よし京城に歸つても果して無事であるかどうか測られん。 それよりは寧ろ近い方の春川に强行して、敵が來たら突擊して戰死を遂げる。 その方が男子の本懷ぢや』と內田はどうしても後へは退かぬ決心を示した。 鈴木も大原もその心情を察して、且つ同情し且つ迷ふたが、やがて言葉を勵まして『そんなことをいつても、その容體では君一人の爲めに一同の進行を妨げられて大切な時機を逸する虞れがある。 さうなつては臍を嚙むとも及ばぬ結果を見るのだ。 こんな點を考へて進むことは思ひ止りたまへ』と勸めた。 內田はそれでも尙ほ承服し兼ねた樣子であつたが、二人が交々言葉を盡して再三再四說く裏に、漸く前進を斷念して京城に歸ることを諾した。 他の諸士は三人がこんな悲壯な問題で話し合つてゐるとも知らず、ドンドン進んでゐたのであるが、後から鈴木と大原とが追付いて、內田を歸途に就かせた事情を詳かに話すのを聞いて何れも同情の淚に吳れたのであつた。 心ならずも唯だ一人京城に引返すことになつた內田は、足をめぐらして步き出さうとしたが、一步に喘ぎ二步に喘ぎ、到底京城に向つて步いて歸るといふやうなことは思ひも寄らぬ容體であつた。 しかし、來がけの道で、近くに朝鮮政府の火藥製造所があつて、その頃休業中で番人だけが住んでゐるのを見てゐたから、辛うじて其處まで辿り付き、こゝに一夜の宿を求めたのであつた。 吉倉、大崎に全琫準再訪の意を設く 一方吉倉汪聖は春川に向ふ途中において、行く行く東學黨の上に思ひを走せ、大崎正吉に向つて『吾々が支那の敗兵に追及してその狀況を軍隊に報告したところで吾徒の目的には何等の影響もないのだから、君と僕とは一行に別れて京城に歸り、全羅の雲峰に行つて全琫準等に逢ひ、詳しく今日の形勢を說き、七月初旬の約束を實行することが出來なくなつたことを知らせようではないか。 そして朝鮮の改革は今後の大問題だから、彼等にも大に自重の必要を說き、彼等の誤信によつて日本軍に反抗することのないやうに努めなければならぬ。 若し彼等が日本は朝鮮を占領するものだといふやうな誤解を抱き我が軍に反抗するやうなことがあつたら、東學黨は全滅を免れない。 東學黨がそんな悲境に沈淪することになると天佑俠の信義は名實共に地に落らる。 君は之をどう思ふか』といつて相談した。 大崎はそれを聞いて『君のいふ通りで、僕も一點の不同意を表すべき所もないが、今直ぐにはそれを實行することが出來ないと思ふ。 君と僕とが京城に入れば必ず官憲に睨まれて此處に隱れ彼處に遁れるといふ境遇に陷り、當局の誤解を釋くことが出來ぬ。 若しこの誤解を釋くことなしに雲峰に入り東學黨と策動すれば、却つて東學黨に累を及ぼすだけだ。 それよりは先づ春川に行つて支那敗兵の樣子を偵察し、それを報告して後徐ろに君のいふやうな企圖をすることにしても遲くはないと思ふ』といつて途中から歸ることに反對した。 吉倉は不服の樣子であつたが、それきりその問題は持出さなかつたのである。 大崎等三士の先発偵察 一行はセブンゴを出發して二日目の夕方有名なる鐵破嶺の麓に到着した。 この嶺を越えれば春川領で、山の向ふの麓から春川までの距離は約五里內外に過ぎないのである。 一同は山麓の民家に一泊するに決したが、山の彼方は敵地であるから翌日山越えを行ふに先だち、その夜の內に先發隊を派遣して狀況を偵察して置く必要があつた。 その先發隊=偵察隊たる任に當つたのが大崎、千葉、田中の三士で、彼等は山嶽重疊し、夜間は虎豹が出沒して人畜を害するといふ昇降三里の險路を突破すべく用意のダイナマイトを携へて敢然と出掛けたのである。 淡い月光は樹影に遮られて暗憺たる夜色物凄き中を、三士は急句配の羊腸たる峻坂をたどり互に掛聲を交はして援け合ひつゝ攀ぢ登つて二時間許りで頂上に達し、更に行くこと數十町にして漸く降り坂に掛り、彼方の麓まで降り切つたのは夜半の十二時過ぎであつた。 やがて一村落に出ると、沿道の家々は夜半であるのに家の前や道路の上で盛んに焚火をなし、何れもまだ眠らずに何となく騷々しき樣子を呈してゐるのであつた。 三士はこの有樣を見て或は淸兵に賴まれて嚮導の爲めに篝火を焚いてゐるのではないかと怪み、とある家に入つて質すと『暑氣が甚しくて眠り難い故、火を焚いて蟲の襲來を防いでゐるのだ』と答へたが、 朝鮮の盂蘭盆 それでも疑問が睛れぬので大崎が一人の男の衿首を摑んで投げ倒し、刀を拔く振りをして威嚇すると、一人の老人が出て來て叩頭しつゝ『公等決して怪む勿れ、焚き火はこの村落の風習なる一種の祭禮で、例年之を執行するのである』と辨解して頻りに助命を乞ふた。 更に田中が得意の朝鮮語でその老人を訊問して見ると、日本の盂蘭盆のやうなものであることが判つた。 それから少しく進むと河があつて、夜中に渡らるべくもないので三士は民家の軒下に臥して夜を明かし、翌朝船を呼んで對岸に渡り一里餘も進んだが、支那兵の影を認めず、更に進んで春川の手前一里半許りの地點に達した。 其處からは春川の丘陵が望見され、愈々危險地域に足を踏み入れたことを切實に感じたのである。 春川の淸兵 三士の姿を認めて朝鮮人が物珍らしげに集り來るのを捉へ、試みに訊くと、『二三日來淸兵の去來は一定せざるも、目下は數百人集合してゐるとは、先刻春川から來た者の話である。 公等は日本人であるから是から春川に向つて進むのは甚だ危險である。 宜しく直ちに引返されよ。 然らざれば淸國の强兵等は公等に向つて如何なる暴擧をなすも測り難い』と親切に忠告するのであつた。 三士はその好意を謝して『淸兵が當地に來たことがあるか』と問ふと『まだ來たことなきも、淸國兵が春川に來て以來朝鮮人が淸國兵に賴まれて每日狀況を探りに來る。 今日も來て旣に歸つて行つた』と答へた。 これで稍々要領を得たので、その朝鮮人に命じて酒を買つて來させ、二升ばかりの濁酒を大部分彼等に與へ『淸兵又は探偵の朝鮮人が來ても我等の來たことは決して告げるな』と戒め置き、三士はもと來た道に引返したのである。 野中の一軒家 之より前三士は春川を距る三里許り手前の野中の一軒家に立寄つて休息した際、其處が一時の根據地として適當なのを認め、後から日本人が六七名で一頭の馱馬と共に來るから、自分等が歸つて來るまでこゝで待つてゐるやうに傳へてくれと賴み置き出發したのであつたが、三士が歸つて見ると果して同志が到着してゐた。 吉倉、西脇の歸去 彼等が鐵破嶺を越えるに當り後續組の中にあつた吉倉と西脅とは、病氣の爲め進行不能となつて一行と別れたのである。 敵騎の襲來 その日は此處に一泊することゝ定め、日暮を待つて敵の動靜を探るため大崎、白水、日下、大久保の四人が前進し、晝の間に大崎が千葉、田中と共に來た邊まで進んで、種々偵察に努めたが何等の異狀を認めないので、民家の庭で蚊遣り火を焚きつゝ警戒してゐると、武田が敵兵襲來の報に接したとて退却を促すために驅付けて來た。 敵は彼等の居る後方の間道から襲來したと聞き、武田の促すまゝに根據地へと引返したが、それは朝鮮人等の虛報と見えて其夜は遂に何事もなかつた。 然るに翌日田中、千葉、大崎、日下、白水、大原の六人が偵察の爲めに前進してゐると、敵の騎兵數十騎が此方を指して襲來するのを認め、 正面から衝突したのでは衆寡敵し難きことが明かであつたから、急いで根據地に引返し、一同打連れて再び鐵破嶺の險を越え前々日に一泊した地點まで退却したのである。 此地から更に方向を變へて春川より狼川に至る中間の地點、駒峴の險を目指して進むことゝなつたが、白水健吉は召集令に接して軍隊に入らねばならぬことゝなつてゐる爲め此地から歸國の途に就き、大久保肇も病氣に罹つて前進に困難を感ずるに至つた爲め、釜山に歸ることゝなつた。 白水, 大久保も亦還る しかしこの二人が去るのと入替りに本間九介が安城から馳せ加はつたので、一行は玆に同勢八人となり、朝鮮人の馬夫を引連れて間道を駒峴へと急いだ。 この朝鮮人の馬夫はセブンゴ出發以來一行に隨行してゐる若者で、日本語を解し頗る忠實に働く爲め一行から忠助といふ名を與へられ、誰からも忠助々々と愛撫されてゐたのであるが、愈々駒峴の麓に近づいた時、同志の者は前の失敗に鑑み此處では日本人の姿を敵の視界に入れないやうにする策を取る必要を感じ、田中侍郞から忠助に偵察の方法等を詳細に敎へ、試みに駒峴の麓まで派遣した。 忠助は單身甲斐々々しく出掛けたが、暫く經つと倉皇として馳せ歸り『淸兵が數十人峴麓に向つて進んで來た。 早く行かぬと彼等は峴を越えて行つて終ふ』と報告した。 俠徒等駒峴に淸兵を要擊す 素破!とばかり一同驅け向はうとするのを、田中と千葉が聲を揃へて押し止め『先づ僕等二人が忠助を嚮導にして今一度見て來る、然る後に行動を決することにしたい』といつて驅け出した。 間もなく馳せ歸つた田中と千葉とは『忠助の報告したやうに淸兵が進んで來てゐる。 しかしまだ數町の彼方にあるから、我は彼よりも先んじて峴下に行くことが出來る。 今忠助を峴の登り口まで行かせたからやがて歸つて來るだらう。 早く用意をしよう』と一同を促した。 一同は『準備は旣に出來てゐる』と勇み立つて待つ處へ、忠助が歸つて『峴の登り口には左側に一戶右側に二戶の民家があるが皆な空家である』と報告した。 そこで忠助には留つて馱馬を守らせ、一同が峴の麓へ急行して見ると、忠助のいつた通りに三戶の空家があつた。 大原は右側の民家の中に潛んでゐてピストルを敵の眞只中に放つて合圖をする任に當り、鈴木と武田はその合圖と同時に、爆彈を投げ付けて敵を倒すと共に敵の膽を冷やさせ、その他の者は傍らの豆畑や高梁畑に潛んでゐて敵が逃走せんとする退路を絶ちて降伏させやうといふ作戰を定めて、各々其部署に就いた。 斯くとも知らぬ淸兵の一隊が其處に來かゝるや、大原はピストルを續け樣に二三發放ち掛けて合圖をなし、それと同時に轟然たる爆彈の破裂する音が響き、誰かゞ『ヤア』と叫んで飛び出す聲がした。 畑に潛んでゐた諸士は一齊に刀を拔いて驅け出したが、高粱や豆蔓に妨げられて思ふ樣に走り得ず、やつと道路に出た時には淸兵は旣に算を亂して彼方へ無二無算に逃走してゐた。 大崎はその最後に走る淸兵に追ひ縋つて將に一刀を加へんとしたが、一步後れて遂に逸し去つたのであつた。 其他の者も刀を振り翳して追擊したが是れ亦悉く敵を逸した。 田中清兵を倒す 其處へ田中が切尖より鮮血の滴る大刀を提げて『一人も遁がすな遣つ附けろ』と叫びつゝ驅けて來たが、其の時には敵は旣に何處へか逃走して見えなくなつてゐた。 再び峴麓へ引返してみると、其處には一人の淸兵が血に染つて倒れてゐた。 これは牛に乘つてゐた爲めに逃げ遲れて田中に斬り落されたのである。 その氣息奄々として苦んでゐるのを見て、田中は『苦痛を與へるのは武士の情でないから早く殺してしまへ』とて咽喉部に一刀を突刺し息の根を止めた。 本間九介は『支那人は一兵卒に至るまで金を持つてゐるから、一寸俺が調べて見る』といつて、刀で服を切り裂いて胴卷を調べたが一錢も持つてゐなかつた。 それを見て誰かゞ『これでは淸兵ぢやなくて貧兵ぢや』と馱灑落を飛ばしたので一同は吹き出した。 本間が更に刀で褌を引摺り出して調べると、果して墨西哥銀貨を五枚匿してゐるのを發見した。 『これだけ出たら貧兵の稱號は取消さねばなるまい』といつて皆が又笑ひ出すのであつた。 この兵士の乘つてゐた牛の背にも多少の貨物が載せてあつたので、それを調べたら彈丸數百發と朝鮮の民家で掠奪したらしい食器其他が現はれた。 彈丸は傍で見物してゐた朝鮮人に命じて附近の溪流に投棄させたが、同志が潛んでゐた空家の主人が傍に居て、淸兵の掠奪を怖れて山の中に隱れてゐたと語るを聞き、一行は分捕の牛をその男に與へると、思ひ設けぬ贈物に感謝の言葉を繰返すのであつた。 狼川郡守の辭禮 これから狼川に直進すべきか、或は道を他に取つて後續し來る淸兵との遭遇を避くべきか一同は暫らく評議に耽つたが、議却々決せず取敢へず此の峴の頂上に登り、淸兵若し來らば石を投下して防ぐに決し、炎天下に瀧なす汗を拭ひつゝ登つて行つた。 奇を好む朝鮮人が數人一行の後を追つて登つて來たのを幸ひに、それらの者に附近の地理を詳しく質した結果、黃海道方面に行くにも、平安道方面へ出るにも、一應狼川に出るのが便利なことが判つたので、假令敵が前後より迫つて江原道の土と化するも天命である。 恐るゝ所なく前進すべしといふことになつて、再び峴を降つて肅々と進んだのである。 沿道には到る處民家があつて、家々からは老幼男女が走り出で、日本人だ、日本人だと云ひ合ひつゝ歡迎の情を浮べ、水を汲み來つて。 『チヨンムルムル』(淸水の意)といつて勸めるものなどもあつた。 そして彼等は一齊に淸兵の暴虐を訴へて止まなかつた。 やがて狼川に近づくと市街の前には可なり廣い河があつて地方には珍らしい堂々たる橋梁も架けてあつた。 一行は直に狼川郡衙を訪ふて郡守に會見すると『公等殘暑酷烈なるに拘らず遠來訪問せらる。 欣幸の至りに堪へず』などゝ巧みな辭禮を以て迎へ『今回の日淸の戰は弊國を救はん爲めの義戰であつて我が國民の感謝措く能はざる所である。 予は不肖なりと雖も郡守の任にあり。 市民に代り深く感謝する』とて葡萄水などを持つて來させて非常に歡迎した。 田中が『二三日前から淸國の敗兵が續々貴領內を通過し、沿道の民家を掠奪し、橫暴を極めてゐるが、貴官は之を知らるゝか』と問ふと『淸兵橫暴の事あるを耳にするも微力如何ともする能はず、慙愧に堪へず』と答へて憂色を浮べた。 淸兵の包圍と俠徒の機膽 かゝる折しも四五人の朝鮮人が慌だしく驅け込んで來て『數百名の淸兵が襲來し、河の對岸に陣を取つて銃口を市街の方に向けてゐる、公等日本人の出て來るのを待つてゐる樣子で、一隊は市中にも侵入して來ようとしてゐる。 早く何れへか逃げられよ』と不安に滿ちつゝ報告した。 これには一同も心中愕然たらざるを得なかつたが、左あらぬ體で傲然と『淸國の弱兵何百來襲するも敢て驚くには當らぬ。 吾等は一騎當千ではないが一以て百に當ることが出來る。 吾等の一行は八人居るから一以て百に當らば優に八百人に當ることが出來る。 憂ふること勿れ』と放言して威容を示し、更に『淸兵は弱卒ばかりであるが其數が多いから、寡を以て衆に當るには非常の策を要する。 官衙の諸官吏竝に市民に對しては痛心措く能はざるも、吾等は市街の各所に火を放ち、火勢に乘じて爆彈を投じ、淸兵の狼狽混亂するに乘じて日本刀を振ひ死屍の山を築いて御覽に入れる』といふと、警報を齎らして來た朝鮮人も諸官吏も色を失ひ、郡守の如きは顔色蒼白となつて一語も發し得ず、恰も坐像の如く竦み上がつてしまつた。 そして報告して來た朝鮮人等は倉皇として外へ馳せ去つた。 本間の武者振ひ 本間、日下の二人が早速郡衙の樓門に昇つて敵の動靜を監視してゐる裏に、一同は其處に運ばれてゐた食膳に向つて空腹を滿たし、軈て大崎と武田とが本間と日下とに代つて監視の任に就くべく樓門へ昇つて行つた。 本間は二人を見て前方を指しつゝ『數百の淸兵は旣に河の堤まで來て銃口を向け吾等の出づるを待つてゐる。 しかもその數は次第に增加し、僕が樓門に昇つてからでも百人位は增えたやうである。 しかしまだ市中には入つて來た樣子が見えぬ』と報告した。 武田は本間の膝の邊が頻りに震ふてゐるのを見て『その醜態は何だ、膝が地震の孫のやうに震ふてゐるぞ。 力を丹田に込めて居れ』と冗談交りにいふと、本間は昂然として『君はまだこんな勇ましい樣子を見たことがないのだらう。 これこそ卽ち武者振ひといふものだ』と一流の濃らず口を叩きつゝ樓門を降りて行つた。 大崎と武田とが樓門の中から跳めると、數百人の淸兵は川の堤を利用し腹這ひになつて銃口を郡衙の方に向け、一令の下に發射すべき姿勢を取つてゐるが、未だ進んで市中に侵入せんとする形跡はなかつた。 大崎は同志と對策を議するため下に降りると、千葉が來るのに會した『敵は發火の準備を整へてゐるが、まだ市中に侵入する狀は見えぬ。 しかし郡衙に接近し來つて發砲を始めたら由々しき大事になる故、敵の來るべき街路を偵察して萬一に備へる必要があると思ふ』といふと、千葉も『然り』と同意し、其處へ大原、日下が來たのを幸ひ、四人は四方に分れて街路の樣子を仔細に偵察することに決した。 しかしその偵察の結果、何れも敵の侵入する形勢のないのを認めて各々引揚げて來た。 危機一髪 武田が樓門から見てゐると、敵の形勢には變化がないが、朝鮮人が二三人淸兵との間を往來してゐるのを認めた。 その時鈴木と田中とが樓門の下から大聲で『敵兵は旣に吾等の人數の少いのを知つたから容易に退却しないぞ。 殊にこの市街は兩方が切り立てたやうな岩壁で他の二方面は河だから遁げようとしても遁げることは出來ぬ。 先んずれば他を制するんだから我から進んで敵中に斬り込み、刀の折れるまで接戰する外はない。 諸君來れ』と叫んで刀を振り翳しつゝ驅け出した。 大崎は樓門からこの樣を見て『待て! 待て! 敵は吾等の進出を待つてゐるのだ。 一步でも市街を離れたら狙擊の的になつて一人も敵に接近することは出來ない。 倒れるだけだ』。 さういつてゐる間に鈴木、田中は耳にもかけずドンドン進んで行くので、大崎は焦り立つて『早く鈴木を引止めろ、田中を抑へろ』と怒鳴つた。 その聲を聞いて大原と千葉とが驅け出して漸く二人を引止めた。 鮮人の智惠 武田、大崎は尙ほ樓上から敵の動靜を注視してゐると、不思議にも敵は陸續として退却を始めた。 二人が不審に思ふて覺えず樓上に姿を現はすと、それを認めた淸兵は銃を倒まにし步度を速めて退却して行つた。 さうする裏に先刻から淸兵の中へ往來してゐた朝鮮人が來て『淸國兵は旣に退却を始めたから間もなく一兵も殘らず去つてしまふであらう、公等は意を安んじてよい』といつた。 田中と鈴木とはそれを信じないで『貴樣等は淸兵と通謀して吾等を窮地に陷れようとするのだナ、不都合な奴だ許さんぞ』と鐵拳を揮ふて一擊を加へようとしたが樓門から降りて來た大崎、武田はそれと見るや、走り寄つて田中と鈴木とを宥め『淸兵の退却したのは事實だ。 この男のいふ通り、もう川の堤には一兵も殘つてゐない』といふと、何れも意外の言葉に驚き、それにしても何故退却したか不思議なことだといひ合つてゐると、朝鮮人は『實は吾等が公等が市街の各所に火を放ち猛火の中で敵を攻擊するといはれたので非常に恐れ、針小棒大の虛構の言を以て淸兵を退却させたのである。 初め淸兵の隊長に日本人が五十人餘も郡衙に據つて疾くに淸國兵の來るのを諜知し、一同結束、死を決して爆彈を用意し、淸國兵が郡衙に押寄せ來らば市街各所に火を放つて爆彈を投じ、敵の狼狽に乘じて日本刀を揮ひ突進して五十餘人殘らず戰死せんと非常な意氣込で待つて居る。 大國兵(淸兵を指す)は强豪で且つ日本人より多數であるけれども、決死の日本人に當らば莫大の損害を受けることを免れぬ。 而してこの市街を灰燼に歸しては市民の困難は言語に絶するから、願くば此を思ひ速かに退却せられんことを乞ふと淚と共に述べた處、遂に吾等の言を容れて退却するに至つたのである』といとも得意げに事情を說明した。 危難玆に去つてホツと安心した一行は一層意氣の軒昂たるものがあつたが、郡守を始め朝鮮人一同の喜びと感謝とは非常なものであつた。 鈴木大原の別行動 此處まで進んで來た一行は最早此上進んで淸兵を追跡する必要を認めなかつた。 淸兵が平壤を指して引揚げてゐることも疑ひなき事實であつた。 仍つて速かに黃海道に出で旅團本部に敵の退却せる狀況と何れの道を取つて平壤に入りつゝあるかを報告することが要務であつた。 一行は淸兵が退却しつゝある本道を避けて其處から開城方面に出づる間道を擇び、疲勞せる身體を勵ましつゝ困苦缺乏の旅を續けて進む裏、四日許り經た頃鈴木天眼と大原義剛は疲勞困憊の極遂に別行動を取つて歸還することゝなり、忠實なる馬夫忠助も亦隨行させる必要なきに至つたので、若干の賃銀と牽き來りし馱馬とを與へて歸還の途に就かせ、殘る田中、千葉、日下、武田、本間、大崎の六人だけが開城に向つて進んだ。 朔寧枝隊 鈴木等に別れて二泊の後彼等が朔寧に到着した時には、所謂朔寧枝隊と稱する我が陸軍の山口大隊が其處に到着して駐屯中であるのに會した。 武田と本間 武田範之は其頃疲勞甚しくて前進が不能となつた爲め此處から一行に別れて仁川に歸るに決し、又本間は朔寧枝隊の通譯として留ることゝなつたので、一行は遂に四人の少數となり、更に途中二泊の後漸く開城に着いて府衙門にある我が大島混成旅團の本部を訪ひ、詳細なる報告をなしたのである。 大島旅團へ報告と平壤方面への從軍 大崎が一行を代表して大島旅團長を始め諸幕僚の前で詳しい狀況を報告した時、旅團長は一々首肯して傾聽したが、報告終るや長岡外史參謀は口を開いて『諸氏の勞苦は多謝するに餘りあるが、惜むらくは少々時機が遲れた』と述べ『今から歸途に就かるるか』と問ふた。 大崎が『貴旅團に於て支障なければ平壤まで從軍したい』と答へると、『諸氏がその意ならば旅團にても好都合である。 進軍中又々諸氏の勞苦を煩はす事の生じた場合は國家の爲めに盡力を願ひたい』との事で、一行はそれより以後食事を陸軍の炊事部から給與せらるゝことゝなつた。 仲和偵察の朮任 旅團本部と共に開城を進發し、雞井、嶺城、平山、南山店、新幕、瑞興、鳳山の各地に宿營を重ねて黃州に達した時、一行は重大なる任務を長岡參謀から授けられた。 それは黃州を距る數里の地點にある仲和の敵狀を偵察する任務で、長岡參謀もその極めて困難なることを述べて、地形敵狀等を說き、『諸士にして之を遂行し得る心算あらば引受けられたく、倂し心算立たざれば敢て强ゆるものではない』といふことであつたが、その時同志を代表した大崎は言下に之を引受けたのである。 大崎はその席で偵察上の注意を受け、携帶行糧たる道明寺乾飯等を與へられて宿舍に歸つた。 歸つて同志に告げると、何れも『久しく無柳の歎を抱いてゐたが斯の如き痛快事に當るは本懷である』と意氣軒昂たるものがあつた。 斯く同志が勇み立つてゐる處へ一人の兵士が來て『此家に大崎といふ人が居られるか』と尋ねた。 大崎が出て『自分が大崎だ』といふと、兵士は『自分は小原中隊から來たのであるが、中隊長が貴下に來隊を願ひたいとの事であるから、差支へなければ今同行を煩はしたい』といつた。 小原大尉といふのは前に稷山の戰に獨立中隊を率ゐて天佑俠の志士と共に進擊した中隊長である。 小原大尉の眞情 大崎が兵士に案內されて中隊に行くと、大尉は下痢したとて臥してゐたが、早速起き出で一應の挨拶の後、『旅團より仲和偵察を引受けられたるや』と問はれたので、大崎は其の然る旨を答へたるに、大尉は仲和偵察が難事中の難事にして軍隊にても術策盡きて徒らに苦心慘憺の狀態にあり、前に騎兵少尉に下士一名兵二名を附し偵察せしめたるに、少尉は馬嶺の峻坂を越ゆるや忽ち伏兵の包圍攻擊を受け兵二名と共に倒れたが、僅に身を以て逃れ歸りたる下士の報告によれば、敵は巧に地形の險要を利し到底近づくべからずとのことで、其の後屢々朝鮮兵をして偵察せしめたるも、是れ亦た悉く失敗に歸したる旨の實狀を告げたる上『失禮ながら貴下等が軍人以外の身を以て斯かる萬々生還を期し難き危地に赴かるゝは、別に國家の重きを以て任ぜらるゝ貴下等平昔の抱負にも似ざるにあらずや。 若し貴下等の中止を笑ふ者ありとするも、そは大丈夫の意とすべき所でないと信ずる。 自分は敢て旅團の計畫を阻止せむとするものではないが、貴下等の爲めに惜むの餘り、こゝに忠言を呈する次第である』と切々たる眞情を披瀝した。 大崎の感激と断乎たる決心 大崎はその言葉に打たれ大尉の眞情に感激せざるを得なかつたが、一旦引受けて非常食まで受取り旣に出發の時刻まで約束したのを、難事と知つて辭することの恥辱を思ふと、大尉の忠言に從ふことは死地に身を曝すよりも一層苦痛に感ぜられるので、決然大尉に向つて深く其厚意を感謝した上『今日となつては最早何としても承諾を取消すことが出來ない。 どうか吾等の頑愚を憐んで忠言に從はないのを許されたい』といつた。 そして『死生は天にあり。 吾々は何事を爲すにも總て天命に委かせるのみである。 仲和偵察の難事に會したのも天命である。 如何なる危地に臨むも必らず死するとは限られず、疊の上にあるも決して安全と保證出來ぬのは人生である。 大尉の厚情は謝するに言葉なきも、暫らく我等の意に任せて其の强情を容赦されたい』と述べた。 大尉は『その勇ましき決心を聞き却つて自分の俗言を恥づる次第である。 もう何事も言ふまい。 陣中には何の備へなきも同僚が各々貯へて置いた燒酎を酌んで別盃としやう』といつて從卒に命じて大崎に侑めた。 その態度、その用意、まことに花も實もある好武人と大崎はそゞろに大尉の爲人に傾倒せざるを得なかつたのである。 好土産と空茶碗 大崎はやがて醉步跚蹣として宿舍に歸つて來た。 大尉から饗された殘りの燒酎を茶碗に入れて持つて歸つたのであるが、同志に向つて『ソラ土産を持つて歸つたよ』といつて出したのを見ると、歸りによろめいて大分零ぼしてしまつてゐるのであつた。 日下が空になつた茶碗を受取つて『ウン匀ひだけは殘つてゐる』と鼻を付けて嗅いだのも滑稽であつた。 大崎から小原大尉の話を聞いて、同志の者もその厚情に感激し、 馬嶺の險要何かある 特に軍人出身である田中と千葉とは『馬嶺に至る地形から考へても小原大尉のいふ通り偵察の效果を擧げることは不能で、死地に陷るに等しい。 小原大尉の忠言は實に適切な忠言だ。 しかし吾が徒には天佑がある。 身命を擲つて君國の爲めに危地を冒すに何の懼る所があらう』とて屈托する風なく、日下も『天佑に依りて事を爲せば何事か成らざらん。 完全に偵察を遂げて旅團長を始め參謀官等を呆然たらしめてやるのも愉快だ』と大に意氣込んだのである。 小原大尉の餞別 翌朝、大崎、田中、千葉、日下の四士は愈々重大任務に從ふべく勇ましく前哨線を指して出發した。 時に後から大聲で大崎を呼ぶ者があるので振返ると、一人の軍人が大崎の名を連呼しつゝ驅けて來るのであつた。 立ち止まつて待つてゐると、それは小原中隊の一曹長であつた。 曹長は、今朝中隊の大行李を探がしたらこの二品を發見したとて、ブランデー一壜と干鰑一束を示し、『中隊長から進呈せよといふ命を受けて宿舍に行つたら旣に出發後であつたので、急いで追驅けて來たのです。 隊長からどうか偵察中の慰安劑とせられたいといふ傳言でありました』と告げた。 大崎は曹長の勞を謝すると共に、幾度も大尉の厚誼深情を謝して、その謝意を大尉に傳へるやう依賴した。 その曹長は別れるに終み『斯かる大事に臨み從容として平時に於ける如き態度を示さるゝ御樣子を見受け、眞に國家を思ふて身命を顧みざる所の志士なればこそと感じ入りました。 天も斯る有爲の志士に對し徒らに死を與へるやうなことはありません。 必ず任務を果して生還せらるゝを疑ひません。 どうか御奮勵を願ひます』といつた。 一下士たる曹長からのこの言葉にも大崎は一入感激の情を深うしたのである。 朝鮮服に改む 四士は前哨線の隊長を訪ひ、偵察上の便宜を與へらるゝやう交涉して置いて朝鮮人部落に入り、朝鮮服を求めて、すつかり朝鮮人に成り澄まし、更に進んで一戶の空家を發見し、其處を假の根據地と定めた。 こゝで小原大尉寄贈のブランデーを拔いて干鰑を下物に互ひの武運を祝した後、日沒を待つ間、心靜かに假寢の夢を結んだ。 薄暮廣州高原に入る 一同が目覺めた時には午後五時を過ぎてゐたが、暮色の蒼然たる頃愈々廣州高原の入口まで進んだのである。 其時我が軍の上等兵が三人の兵を連れて前方から歸つて來るのに遭ふと、その上等兵は立ち止まつて誰何した。 途に上等兵に怪まる 一行はわざと朝鮮語で、吾等は普通の旅行者で何等怪しき者ではないと答へると、朝鮮語の解らぬ上等兵は日本語で種々の詰問を發したけれど、一行は出鱈目の朝鮮語を連發して要領を得させなかつたので、遂に支那の間諜と推斷したか、上等兵は兵士に命じて射擊の姿勢を取らせた。 これには一行も吃驚し狼狽てゝ日本語で『日本人だ、日本人だ、暫らく待たれよ』と叫び、早速懷中から旅團本部の證明書を出して示した。 今度は上等兵の方が狼狽して部下を制し『日本人ならば何故初めから日本語で答へられなかつたか。 さうすればこんな無禮はしなかつたに』と只管に謝るのであつた。 『イヤ、陳謝には及ばん。 實は吾々は仲和偵察に出掛ける爲め斯く朝鮮人の風を裝ふてゐるのであつて、君等が果して吾々を朝鮮人と認めるかどうか試めしてみた譯である。 無禮は却つて當方にある』といふと、兵士等は『馬嶺仲和の偵察は難事中の難事といふことである。 どうか充分なる警戒と注意とを以て重任を遂げられるやうに祈る』と丁寧に敬禮して歸つて行つた。 暮色は漸く濃くなつて來たが、これより先きは充分なる警戒を要するので、四士は二組に別れ、道路の兩側から畑の中を徐々に前進した。 恰も月のない夜で、しかも空は曇つて星の影さへ見えぬ闇夜となり、鼻を撮まれても判らぬ程の闇の中を這ふやうにして進む裏、反對側を進む者が何處にゐるか互ひにその所在も判らなくなつてしまつた。 四つ這ひと蚊軍の猛襲 勿論聲を立てゝ仲間の所在を索める譯にも行かず、默々として猫の如く四つ這ひになつて進む外はなかつた。 畑の中には幾萬とも知れぬ蚊が居つて猛烈に襲來し、凄まじい唸り聲を立てゝ苟くも隙のある所に群り寄つて刺すので、その苦痛は言語に絶し、一寸拂ふとパラパラと音を立てゝ地上に落ちる程であつた。 約二時間ばかりも進んだ時、前方に當つて戛々たる馬蹄の音が聞えて來た。 いふまでもなくそれは敵の斥候兵なることは明かである。 これを聞いた四人は前進を止めてヂツと息を凝らしつゝその通過するのを待つた。 靜止してゐると蚊の襲擊は益々猛烈を加へ、まるで火炙りに遭つてゐるやうに苦しかつた。 馬蹄の音は漸く近づいて、その音から推測すると四五騎であらうと思はれた。 敵騎の蹄音 敵の斥候兵は四士の潛んでゐる面前數間の所を通過したが、やがて蹄の音は遠ざかつて行つた。 斥候兵がこゝを何事もなく通過して行つた所を見ると、附近に敵の潛んでゐないことは明かであるから、四士は初て聲を發して同志と呼び交はしつゝ一つ所に集つた。 そして『今通過したのは敵の斥候兵であるから、やがて又此方面に歸つて來るであらう。 彼等は前進する時は敵地に向ふのであるから緊張して油斷をしないが、歸還するに當つては必ず氣が弛んで、敵が潛むとも知らず安心して通過するに相違ない。 その虛に乘じて一人も殘さず討ち取ることにしよう』と相談し、路傍近く身を潛めて其歸路を待ち構へてゐた。 しかし夜は更行くのみで待てども待てども蹄の音さへ聞えず、敵の斥候兵は確かに他の道を經て歸つたものと推測された。 遂に蚊の襲來に耐へ兼ねた大崎が立ち上がつた途端に、眼前十數間ばかりの所に何か白いものが立つて居るのを認め、足音を忍ばせつゝ近づいて見るとそれは農民が積み重ねておいた麥稈であつた。 大崎はこれ幸ひとその上に登つて身を橫へると微風が吹いて來て頗る爽快を覺えるのみならず、蚊が居なくて頓に蘇生する心地がするのであつた。 千葉もその上に登つて二人小聲で話してゐると、突然遙か前方に銃聲が起り、其音が次第に繁くなつて、やがて一齊射擊の音さへ聞えて來た。 銃声頻りに起る 銃聲が一時間許りも斷續して響き渡つた後、忽ち又靜寂に返つてしまつた。 最初銃聲を聞いた時、大崎も千葉も麥稈の上から辷り落ちて身を潛めてゐたのであるが、銃聲の起つた地點が何處であるか、又何故に斯かる戰鬪が起つたか全く判斷に迷ふのみであつた。 前進を見合せて夜の明けるのを待つてゐると、やがて東天がしらしらと明るくなつて來て地上の物象が朧ろげに眼に映るやうになつた。 四士は一つ所に集つて銃聲に對する各自の判斷を語り合つたが、その方面に最も豐富な知識を有する田中の判斷は、『銃聲の起つたのは確かに馬嶺方面であるから敵中に何か事が起つたに相違ない。 而して敵中に何か事が起つたとすれば、その原因を探査することが偵察上の必要條件だ』といふにあつた。 千葉も亦同樣の意見であつたから、之より進んで其の方面に接近するに決し、暫らく前進してゐると、前方から日本兵が五六名歸つて來るのに逢つた。 斥候兵の歸來 その兵士は斥候として四五町先きまで行つて見たが何事もなかつたから報告に歸るのだといつて行過ぎようとした。 田中が『この五六町先きに數戶の民家があるが其處まで行かなかつたか』と訊くと兵士は『民家のあることは知つてゐるが、其處には淸兵がゐて危險だから行くなといふ注意を受けてゐるので行かなかつた』と答へた。 田中は『斥候兵がそれだけの危險を冒さないでは任務を果すことは出來ないだらう。 諸君は吾々に從つて來い。 報告すべき材料を與へてやる』とて兵士を促がして前進した。 他の三士は別行動を取つて前夜の支那の騎兵斥候の歸つた跡を發見するため左方へ進んだが、二三町行くと別な道路があつて、路面には馬蹄の痕が歷々と認められ、支那の騎兵斥候がこの道を經て歸つたことが想像された。 馬蹄歷々 更に二三町進むと、左方に二三軒の民家があつたので其處に行つて居合せた朝鮮人に聞くと『淸兵は每日二三回もこの邊を往來するが、大槪朝早くか暮方に來ることが多い』と語つた。 一方田中は兵士を連れて、淸兵が居るといふ民家の所まで行き、淸兵が前夜まで民家を屯所として頻りに往來してゐたけれど、今朝はまだ一兵も來ないといふ事實を確めた。 千葉の發病 斯くして四士は又一團となつて馬嶺の麓を目指して潛行を續けたが、不幸にも途中で千葉が發病した爲め日下が之を看護しつゝ歸ることゝなり、四士は互に心ならぬ別れを告げて廣漠たる野原の中で西と東に手を分つた。 これから先きは大崎と田中との唯二人、馬嶺方面から敵の監視の目を避けつゝ丘の蔭、樹木の蔭と有らゆる遮蔽物を利用して潛行を續けた。 然るに諸所で田畑を耕してゐる朝鮮農夫が二人の通過するのを見ると、その潛行の樣子を怪んで悉く佇立して眺める爲め危險を感ずること鮮からず、 田中等假面を脫して農夫に敵狀を問ふ 殊にそれらの朝鮮人中淸兵に密告する者などあらば二人の運命は玆に全く休するので、二士は相談の上、自ら日本人なることを打明けて彼等を利用する策を講ずるに決し、附近の畠で働いてゐた二人の朝鮮農夫に近づき、田中が開口一番『此の地に淸兵が來りしことなきか』と訊いた處、その農夫等は突然の問ひに驚いた風で二士を見詰めてるたが、稍々暫らくして『未だ一人の淸兵も來りしことなし』と答へた。 田中は重ねて『汝等は淸兵を好むか日本人を好むか』といふ質問を發した處一人の男は言下に『淸兵は盜賊である。 隣邑黑橋に侵入し來り婦女を犯し財物を掠奪し、甚だ暴行をなせり。 其暴惡なること言語に絶す。 我邑に來らば邑民擧つて彼等に對し斯の如くせんことを約し居れり』といつて携へてゐた鎌を振り揚げ、力に任せて地に打込んで見せた。 二人は之を見て『汝等の言に僞りなくば日本の爲めに便宜を計り吳るゝか』と質すと『能ふ限り何事にても爲さん』と答へた。 二人はそこで『馬嶺まで幾里ありや』と尋ねると『嶺下まで一里に足らず』と答へ、二人が直に『我等の爲めに、否日本の爲めに馬嶺の上下に淸兵駐屯し居るや否やを探査するを得るや』と訊くと『それだけの事なれば公等の休息し居る間に見來らん』と答へた。 農夫の歓待と馬嶺の敵狀 斯くてその朝鮮農夫は晝食後出發することを諾し、二人を案內して家に歸り、蓆を敷いて席を設け淸水を汲み來つて飮めと勸めるなど却々親切に待遇するのであつた。 その時其の家の者が一人の朝鮮人を連れ來つて二人に紹介し『この人は今朝馬嶺の下にある知人の家を訪ね今歸り來れるばかりだから、馬嶺の狀況は此の人に聞いたら判かる』との事なので、二士は大に喜び質問を重ねた末、同人は其の朝九時頃馬嶺に行つたが、淸兵は十數日前から仲和より續々馬嶺に來り、大部分は嶺上に屯し、一部は嶺下なる四五戶の民家を占領駐屯して居たとのことなるも、今朝に至り何故か全然淸兵の影を止めず、悉く寂寞たる空屋となり居れりとの事及び昨夜の銃聲は嶺上嶺下に於て、一時に猛烈に發射せられたるものなりしこと等を知り得たが、淸兵の退却や銃聲の原因竝に其の狀況等に就ては共に全然判明しないので、此上は自から現場を調査の上之を慥かむる事とし、厚く朝鮮人に禮を述べて嶺下に向つた。 訦と現場淸兵の退路査 一時間許りで嶺下に達し視線の及ぶ限り四方を注視したが、淸兵らしきものを認めないので、更に進んで淸兵が駐屯してゐた民家に到り、家屋の內外を調べて見ると、淸兵の炊事をした跡が歷々と殘り、附近の豆畑は悉く馬蹄に蹂躪されてゐた。 飯粒なども處々にこぼれてゐて、それによつて察するも退却後まだ多くの時間を經過してゐないことが知られた。 何故に退却したのか疑問は依然として釋けなかつたが、田中の軍事眼を以てすれば、淸兵がこの險要の地を捨てゝ退却した以上、彼等が仲和で日本軍を喰ひ止めようとしても到底それは不可能であるから、恐らく平壤まで退いて其處で日本軍を邀鞶せんとする作戰であらうと推斷された。 四士の報告と旅団の前進 二人は是れ以上深く進んで偵察に時日を費すよりも、早く歸つてこの狀況を旅團本部に報告するを適當と考へ、嶺上の偵察も見合せて直ちに歸路に上つたのである。 二人は日沒頃宿舍に歸着し、其夜田中が旅團本部の所在地に赴いて詳細に偵察の結果を報告すると、旅團は之に基づいて翌朝前進を開始することとなり、其夜の內に全隊へ前進命令が傳へられた。 旅團が馬嶺の險を越えんとするに當り、旅團と共に前進中であつた四士は軍隊を驅け拔けて-千葉は腹痛が癒えて進軍に加はつてゐたのである-馬嶺を攀ぢ民家に就て淸軍退却の事情を調査して見ると、 前夜の銃撃と神兵の出現 嶺上嶺下に陣を構へてゐた淸兵等は何事によつてか、日本軍が暗夜に乘じて急襲したとの錯覺を起し、無暗に發砲して自軍の銃聲をも日本軍の銃聲と誤認し、全軍狼狽して退却したものと判明した。 恰もその昔水鳥の音に驚いて退却した平家の軍勢のやうに淸兵はあたら險要の地を抛棄したのである。 附近の朝鮮人の談話に依ると、『淸軍の將校は、日本軍が天より降り地より湧く如く不意に現はれて襲來した爲め、到底支へることが出來なくなつて退却すると語つてゐた』由であるが、之を聞いた四士は天佑に富める皇軍の爲め、或は神兵が現はれて淸軍を脅かしたものではないかと神祕的な想像をさへ催したのであつた。 大同江徒渉地点の偵察 混成旅團は敵の一兵にも遭はずして一路仲和に入り、田中、大崎、千葉、日下の四士も宿舍に就てゐると、旅團本部から更に大同江を徒涉し得べき地點の探檢を依賴された。 四士は又もや踴躍その任に當り二里餘を進んで江畔の民家に就き淺瀨の所在地點を質し、徒涉し得べき場二ケ所を發見し、また前に田中が平壤に赴いた際實見して知つてゐた地點を倂せ、都合三ケ所の徒涉地點を報告したのであるが、愈々翌朝進軍と決した。 大崎の發熱 其夜から大崎は發熱して下痢をも催し、到底軍隊と共に出發すること不可能なる容體となつた。 よつて日下、千葉の兩人も看護の爲め居殘つて大崎の輕快を待ち、軍隊より遲れて共に出發することに定め、田中一人が徒涉地點の嚮導者たるべく軍隊と共に進發した。 然るに我が軍が仲和を發して未だ半時間も經ざるに砲聲殷々と起り、彼我の砲戰が始まつたので、この響きを聞いた大崎は病を忘れて起ち上り、旅裝を整へて千葉、日下と共に戰線を目指して進んだ。 大同江岸の戰鬪 これは成歡牙山の戰に敗れた敵將聶子成が大同江岸の千姜里を根據として十數ケ所の堡壘を築き、我が軍の進路を遮るべく待ち設けてゐたのが、混成旅團の前進を知つて砲火を浴びせ掛けた爲めに起つた戰鬪であつた。 仲和、千姜里間にある二三の堡壘に據つてゐた敵は、我が砲擊によつて忽ち退却したが、我が軍は敵が退却に當つて地雷火を布設してゐるのを發見して之を爆破させた上、千姜里の近くまで進んで兵を駐め、時々砲擊を交へるだけで自重して動かず、 田中の活躍 その翌日は兵を休めて翌々日總攻擊を開始したのであるが、敵は堅固なる堡壘に據つて砲火を送るに對し、我は平坦なる田野の中を進むことゝてその難戰はいふべからず、我が兵は一氣に敵壘を奪取すべく奮擊突進して非常なる激戰を續けたが、多數の死傷者を出したのみで遂に所期の目的を遂げることを得ず、黃昏に及んで一時攻擊を中止したのである。 この日田中侍郞は大同江徒涉の嚮導として一隊の兵士と共に江畔に進み、四五艘の小舟に分乘して中流に出でたが、水流が急で意の如く舟を行ること出來ぬ爲め、對岸の敵兵より一齊射擊を受ける中をも屈せず、身を躍らして水中に飛び込み、兵士と共に舟を引いて江上の小島に着き、其處から盛んに敵に射擊を加へたるも、敵が頑强に抵抗する爲め遂に對岸に達することを得なかつた。 平壌陥落の銃聲 其の夜、夜半から平壤方面に盛んな銃聲が起り、一大激戰の起つたことを想像させたが、之は咸鏡道元山に上陸した立見少將の率ゐる一個旅團が、平壤城の背後から猛攻擊を敢行して、遂に平壤城を陷落せしめた激戰の銃聲だつたのである。 四士大島旅団と平壌に入る 平壤の陷落は忽ち千姜里を固守せる敵を孤立に陷らせる結果となつたから、この方面の敵も其夜の內に堡壘を捨てゝ退却し、大島混成旅團は敵の遺棄せる船橋を利用して大同江を渡り、無事平壤に入ることゝなつた。 大崎千葉日下の帰去と貫文の阿呆拂ひ 平壤に入つた四士は、數日間を休養に費したが、大崎は病氣がまだ充分に癒えず、且つ此上軍隊と共に進む必要もないので、千葉、日下と共に歸途に上るに決し、田中だけが義州まで從軍することゝなつた。 大崎は旅團本部に長岡外史參謀少佐を訪ふて別辭を述べると少佐からも今日までの勞苦を謝する挨拶があつたが、その時一行は歸還の旅費が缺乏してゐたことゝて、大崎が多少の旅費を借り受けたい旨を相談すると、少佐は暫らく待てといつて奧に入り、やがて從卒に鮮貨一貫文を持たせて出で來り『自分の手許にあるのは悉く軍事費であつて、諸君のやうな軍人以外の人に支給すべきものではない。 これは些少であるが旅費に充てられたい』といつて、從卒の持つて來た一貫文の鮮貨を出した。 大崎は此の冷酷なる仕打ちに對し憤然席を蹶つて去らうとしたが、 一心唯だ報國のみ 今日迄の勞苦は同志等が唯だ君國に報ひんとする一心から出たもので、彼等個人の爲めにも、或は何等かの恩賞を受けんが爲めにも働いたものでない立場から、之を尤むるは却つて同志の心事に誤解を招くの虞れあることを思ひ、其の心を取り直した。 そして途中で鮮貨を持つてゐないと不便であるため『御言葉の通り吾々は軍人でないから軍事費の給與を受くべき者でないとすれば、貴下方箇人からも何等受くべき筋合のものでもない。 倂し前にもいつた通り自分は健康を害して歸るのであるから借りて行くが、斯の如き重いものでは困るから、半分だけを拜借して行くことにする』といつて五百文だけ拔き取つて持ち歸つた。 歸宿してその事を同志の者に語ると、三士は非常に憤慨した。 『軍人以外の者には軍事費を支給せぬとは何事だ。 彼れ長岡は至難事中の至難事たる中和偵察の大任を何故に軍人以外の者に依賴したのだ。 軍人以外の者ならば軍事費の中から支辨せられる食糧をも支給するに及ばざる筈であるのに非常糧食まで給して吾々を偵察に赴かせたではないか。 三士の憤慨 彼のなす事は實に無情冷酷を極めてゐる。 病後の疲勞せる者に向つて特に重い鮮貨を出して旅費とさせる事さへ餘りに同情のない遣り方である。 こんな無情冷酷な軍人が我が日本に續出するに至らば、今日淸兵の醜態を笑つてゐても、やがて又我兵が淸兵にも劣るやうな結果となるであらう。 今日に於て士氣の振興を計らざれば、我が國の前進は眞に憂慮に堪へぬ』と長岡參謀の遣り方に止め度もなく慨歎するのであつた。 内田の病臥と本間の来訪 玆で話は前に返る。 病氣の爲め同志に別れ、孤影悄然として中途から歸還の途に就いた內田良平は、路傍の火藥製造所の番人に賴んで其處に一夜の宿を求めたが、翌日になつても步行が出來ないので獨り身を橫へて惱んでゐると、突然一人の日本人が訪ねて來た。 誰かと思つて起き上ると、それは同志の本間九介であつた。 『僕は安城の後始末をして京城に歸つてみると、諸君は又た江原道に向つて出發したと開き、之を追ひかけるため星馳して本道を通過する裏、火藥製造所に日本人が居ると聞いて、若しや同志の者ではないかと思ひ尋ねて來たのであるが、それが君であつたのは幸ひである。 見れば君は顔の色も惡く又た負傷してゐるやうだがどうしたのだ。 そして皆の連中はどうしたんだ』と本間は內田の樣子を氣遣ひながら問ふた。 內田は今迄の次第を語りたる上『皆の連中には君の健脚を以つてすれば、明日は恐らく一行に追ひ付くことが出來る』といつたので本間は安心し、內田と晝食を共にした後、前途を急いで出發しようとしたが、內田の所有する刀を見て『あれを僕にくれないか』と所望した。 內田は『君は刀を持つて來なかつたのか』と聞くと、本間は『いや持つて來たんだが昨夜朝鮮人に盜まれてしまつた』との事に、內田は『それでも命を盜まれなかつたのは仕合せだ。 僕は君も知る通り敬天では武器を持つてゐなかつた爲め、容易に切り拔け得べき敵の爲めに生擒りにされて不覺を取つた。 それ以來武器は決して手離すまいと思つてゐたんだが、今此のやうな重病に罹つて敵に遭ふとも戰ふ力がなくなつてゐる。 斯うなつては刀を持つてゐても腹切り道具に過ぎないのだ。 死ぬるには敵が殺してくれるから刀を持つてゐる必要もない。 君は是れから敵に立向つて戰ふのだから君に贈らう』といつて、 内田、本間に護身の仕込杖を贈る 其の携へて居た備前長船則光の仕込杖を本間に渡し、『この刀は或る時敵と戰つて斬り曲げたのを踏み直したものであるから鞘が豎くなつてゐる。 そのつもりで使ひ給へ、不意の拔打ちなどは出來ないよ』と說明した。 本間は『有難い』と、それを受取るや、飛ぶが如くに同志の後を追ふて行つた。 吉倉、病內田を伴ふて京城に還る 內田はその翌日も空しく病軀を抱いて其處に滯在してゐると、又訪ねて來た二人の日本人があつた。 それは病氣の爲めに一行に別れて引返して來た吉倉汪聖と西脅榮助とであつた。 二人は病氣とはいへ內田のやうな重症ではなかつたから、一路京城まで引返すつもりで、內田を誘ふために立寄つたのである。 彼等は內田が非常に衰弱してゐるのを見て今更驚きながら、藥さへ得られぬやうなこんな不便な土地に留つてゐては大變だとて京城に歸ることを促し、步けなければ舟を雇ふて漢江を下つて行かうといつて勸めた。 內田は其勸めに從つて辛じて舟のある所まで行き、舟を雇ふて共に漢江を下り德村に着いた。 しかも三人の所持金を合しても舟賃を拂ふに足りなかつたから、船頭を連れて京城に向ふ途中、とある峠に差し掛つた時、此處まで無理に氣力を勵まして步いて來た內田は、遂に病を募らせて路上に昏倒してしまつた。 内田途上の昏倒 吉倉や西脅は非常に驚いて水を飮ませようとしても、山上の事とて附近には一滴の水すらなく、徒らに途方に暮れてゐる折柄、幸にも我が電信隊の技師が通り掛つてこの樣子を眺め、早速携帶の應急藥を內田の口に喞ませたので、內田は漸く蘇生したのであつた。 斯くして吉倉、西脅はその技師ともども內田を助けて漸く京城に辿り着き、佃信夫の寓居を訪ね、船賃を借りて連れ來りし船頭に渡し、一先づ其處に身を托することゝなつたのである。 然るに一兩日靜養する裏に、警官が尋ねて來て、頻りに內田等を物色する樣子なので、佃の寓居に長居することは危險となり、內田と吉倉とは直ぐにセブンゴなる閔家の別莊に居を轉じ、官憲の眼を避けつゝ靜養に努めた。 内田と吉倉の静養 その內に吉倉は漸く元氣を回復するに至つたが、二士の心に懸るのは彼の全琫準等東學黨徒の運命であつた。 彼等は天佑俠と策應して兵を擧げる爲め、雲峰にあつて其機會を待つ間に日淸の開戰となり、天下の形勢は一變したのである。 然るに山中にある彼等は未だ此の間の消息を知る筈もないから、放任して置けば如何なる間違ひを起すかも知れないのであつた。 內田はこの點が懸念に堪へぬので、一日吉倉に向ひ、全琫準を雲峰に訪ふて最近の狀勢を說明し、東學黨をして進退を誤らせざるやうに努めなければ盟約の義に背くからとて、共に雲峰に赴かんことを勸めた。 内地同志への報告と全琫準訪問の分擔 吉倉も元より同じ意見であつたが、內田の健康狀態が到底それに耐へられさうもないので、雲峰行きは自分が引受けるから、君は日本に歸つて內地の同志に今日までの經過を報告し、且つ病氣の保養に努めよといつて、切に內田に歸朝を勸めた。 因つて內田は東學黨に關することを吉倉に托して歸朝するに決し、京城を去つて仁川に出たところ、偶々鈴木天眼、大原義剛が通行してゐるのを認め、互に奇遇を喜んで共に歸朝することになり、 三士の邂逅と歸朝 便船を待つてゐる裏に、更に宮川五郞三郞が頭山、平岡の命を受けて天佑俠の安否を探るために渡鮮したのに會し、重ね重ねの邂逅を喜んだのである、宮川は內田等に會して都合よく使命を果したので、更に從軍記者としての任務を盡すべく戰地に向ひ、鈴木、大原、內田の三士は長崎直航の便船に乘つて內地に向つた。 時に明治二十七年九月初旬であつた。 長崎上陸と危機一髪 長崎に歸着した鈴木等は大波戶附近の汽船宿に投宿した後、竊に鈴木が豫て入懇なる今町綠屋旅館の女將及び藝妓某に報じたるに、兩人尋ね來りて其無事を喜び、共に道の尾溫泉に赴いたが、警官は早くもそれを知つて追跡し來つた。 三士は危機一髮の場合、宿屋の氣轉で辛ふじて逃走し、別れ別れとなつて各地に潛んだのである。 愛國の志士が報國の丹誠を發揮し、幾多の辛酸を嘗めて懷かしき故國に歸り來れば、國法は冷酷の手を伸べて之を楚囚の人たらしめんとす。 跼天蹐地、風の音にも心を驚かさねばならぬ彼等の心事や想ふべしである。 しかし內田は巧みに官憲の追跡を遁がれて故鄕福岡に歸り、父母を省して後東京に上り、頭山、平岡、的野等に朝鮮に於ける天佑俠の行動を報告し、暫らく神田の下宿屋に身を潛め、大原も亦一旦故鄕に歸つた後、遂に北海道に走つたのである。 吉倉の捕縛と無罪の判決 吉倉汪聖は內田と別れた後、その約束を實行せんとして雲峰に赴く途中、憲兵に捕へられ釜山に押送せられて同地領事館の獄に繄がれた。 領事官補の山座圓次郞は前にも述べたやうに天佑俠徒と密切なる交際あり、俠徒の行動に對しては多大の同情を寄せてゐたのであるから、昌原金山のダイナマイト奪取事件を捉へて俠徒の一味を强盜罪に問ふに忍びず、鑛主牧健三父子を諭して、その證言を被告に有利ならしむることに盡力した爲め、裁判の結果吉倉は無罪の判決を與へられ、從つてこれに關係せる同志も靑天白日の身となることを得たのである。 當時東京方面に於ても、同志の先輩友人等が政府當局に運動して、彼等を處罰するの不可なることを勸告せる爲め强て逮捕せぬことになつてゐたのであるが、吉倉が無罪の宣告を受けたることによつて一味の同志は愈々安心を得た次第であつた。 全琫準の捕縛と處刑 尙ほ全琫準は其後天佑俠との連絡全く絶えたる爲め、內田、吉倉等の杞憂してゐた通り遂に行動を謬つて我が軍隊と衝突し、負傷して逃走中全羅道古阜に於て朝鮮兵に捕はれ、更に日本軍に引渡されて京城の公使館の獄に投ぜられた。 その頃京城に居つた田中侍郞は警察側の諒解を得、罪人を裝つて全琫準の獄室に入り、一別以來の形勢の變化や天佑俠の行動を具さに語り、且つ同志の行爲が日本の法律に違反した爲め、官憲の搜査が嚴重となつて吉倉が捕縛せられた結果、遂に東學黨との連絡を取る能はざるに至つた顚末等を說き聞かせたる上、日本に脫出せんことを勸めたところ、全琫準は俠徒の義に厚きことを感謝し、且つ自分が日本政府に對し誤解を抱いてゐたことなどを語つて『余が玆に至つたのも畢竟天命である。 敢て天命に抗して日本に脫出するの意志はない』とて其の覺悟を述べ、且つ『余は近日死刑に處せられるであらうから、余の死後は何卒東學黨を救つてくれ』と懇願した。 田中は之れを諾し慰安を與へた後出獄して井上公使に面會を求め、全琫準を寬典に浴せしめられるやう希望した。 井上公使は最初は東學黨を兇賊視してゐたが、後に全琫準が公使館の監獄に收容せらるゝに及び、その人格の高潔にして識見の高邁なること朝鮮人中未だ曾て見ざる人物なりとして推重するに至つてゐた程であるから、容易に田中の希望を諒としたが、其後全を朝鮮政府に引渡さなければならねことゝなり、死刑に處せざるやう特に希望を附して引渡したのである。 然るに朝鮮政府では井上公使の歸朝せる留守中に乘じ、勝手に死刑に處してしまつたのは誠に惜むべき次第であつた。 客舍獲病書感 保寧山人 武田範之 秋色集帝城。 萬衢氣秀聳。 遙憶征戍兒。 殊域振神勇。 噫吾雖無似。 不知鴻毛重。 肅肅征馬聲。 壯志衝胸湧。 若何敗賤軀。 羈之徒恐恐。 欹枕聽午砲。 靜言難奮踊。

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